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焼けた砂に直接足を乗せるのは危険だ。砂地を深く掘った堀には海水が引き込まれ、ちょうど温かい温度にまで冷まされた。
あとはこの巨大な蟹に思う存分かぶりつくばかり……とはいえ、生まれてからこのかた海産物など食べたこともない連中だ、そもそもがカニが食べられるものだと認識したことすらないのだから、すぐには手が出ない。
「お前、食えよ」
「え、いやいやいや、ここは年長者からどうぞ」
お互いに譲り合いの言葉を交わしながらへらへらと笑うばかり。
わからなくはない。目の前に置かれた焼きガニはいかにも食欲をそそる磯の香りをふんぷんと漂わせて胃袋を誘惑するが、理性が邪魔をして手が伸びないといったところだろうか。
俺は自ら蟹の脚の一本に取りすがって、その身を引きずり出した。
「怖がることはない、カニなんて火を通せば大概は食える」
自分の言葉の裏付けとして、両手で抱えるほどの蟹肉に豪快にかぶりつく。と、俺は全身を貫くような味覚の電撃に打たれて体のすべての動きを奪われた。
「これは……」
はっきりいって美味である。ガタイの大きさからしてもっと密度薄くて大味なものを想像していたが、そんなことはない、普通の蟹と同じように細くほぐれる上質な口当たりと芳醇な磯の匂いが心地よい。
「うまい……こんなにうまい蟹は、あっちの世界でも食ったことがない!」
俺は思わず知らず叫ぶが、そのくらいではこわごわと蟹を見上げている兵士たちの心を動かすには至らない。
「ええ、これが?」
「そんなにうまいのか?」
そんな兵士たちを押しのけて、デンスだけは俺の隣に並んでくれた。
「ダーリン、私にも食べ方を教えてほしいデンス」
「食い方もクソもない、殻から身を引っぺがして食えばいいだけ、それだけのことだ」
「結構ワイルドな食べ物デンスね」
デンスは何も躊躇することなく、両手にあまるくらいの蟹肉を引きちぎってかじりついた。
「ん! おいしいデンス!」
「だろ?」
「陸の生き物のお肉と違って、脂っこくないんデンスね。それにほろりとほぐれる柔らかさ、うまいデンスよ!」
デンスがあまりにも無邪気に笑うからだろうか、兵士たちは一瞬だけ顔を見合わせ、そののちに巨大な焼きガニへと飛びつく。
「ふむ、確かにうまい!」
「ああ、見た目はちょっとグロいが、胃に入っちまえば味は一緒だし!」
「酒が欲しくなる味だな、誰か、酒持ってこい!」
あっという間に宴会が始まった。
これを見たミーヤが、甘えた声でデンスにすり寄る。
「ミーヤも食べたいな」
「だめデンスよ、一国の女王ともあろうお方が、怪しげな新食材なんか食べちゃだめデンス」
「むう、女王様だから、下々に率先して新しいことに挑戦しなきゃいけないって、父上が言ってたもん!」
「えっと、それは一理あるんデンスが……」
ここで、幼女王女は奥義を発動した。悲しそうにうつむいてすねたように唇を尖らせ、いかにも舌足らずな感じでつぶやいたのである。
「食べたいな、カニさん」
弟がいる上に、いかにも面倒見のいいデンスが、この攻撃をかわせるわけがないのだ。
「わ、わかったデンス、ちょっとだけデンスよ?」
「わあい、じゃあ、あっちの、おいしそうなところが欲しいな」
ミーヤが少し離れて置かれた脚を指定するから、デンスはその身を取りに行ってしまった。
あとに残されたのは、俺と幼女王女の二人きり……と、突然、小さな足元がひゅおっと砂を蹴り上げて俺のすねにヒットした。
「い!」
俺は声すら上がらぬほどの痛みに悶えて砂浜に膝をつく。ミーヤのほうはひどく満足そうに邪悪な笑みを浮かべ、俺の顔の真ん前にでーんと立ちはだかる。
「やっと跪いたわね。ずっと偉そうにふんぞり返って、気に入らなかったのよ」
俺はこの幼女の腹黒さをすでに見抜いている。俺の前では態度が悪い、そのことは許容だが……
「仮にも王女が物理攻撃とか、はしたないだろ」
「わかってないわね~、あんた。うちの国は他国の貿易船の警護で成り立ってる国だって言ったでしょ、あれがどういう意味かわかってないのね」
「わかってるよ、海軍がやたらと強い軍事国家だってことだろ」
「ふふん、やっぱりわかってない。あのねえ、軍事国家じゃなくて、海上の戦闘民族なのよ」
「海上の戦闘……海賊か」
「そのとーり! っても、海賊だったのは遠い昔の話なんだけどね、ミーヤの体には今も、海の戦闘民族としての闘志が宿っているのです!」
「んなカワイイ声取り繕っても、本性バレバレだから」
「あ、そう?」
そのことには大して引け目も感じないらしく、この腹黒幼女王女はむしろ誇らしげに小さな胸を張って俺を見下ろした。
「そんなことより、デンスのことなんだけど、どうなのよ?」
「え、どうって?」
「つ~ま~り~、恋が始まりそうかって聞いてんの!」
「聞いてどうしようっていうんだよ」
「ことと次第によっては、あなたの冒険はここでおしまいなのよ」
「つまり、元いた世界に返してくれると?」
「はあ、なぁに甘えてんの? 海賊が冒険の終わりを迎えるのは、その命が潰える時なのよ」
一見無邪気そうにも見える笑顔、しかしその笑顔の下に隠された確かな海賊気質に戦いて、俺は声も出せずにいた。