恋に似た病
姉の恋人を好きになってしまった愚かなわたしは、交差点の真ん中で行く先を失ったまま留まり続けている。
やり場のない思いは中空に浮かんで弾けることを忘れたシャボン玉のように哀れで虚しい。
どうしてあの人だったのだろう。どうしてあの人だけがわたしの孤独に気づいてしまったのだろう。どうしてわたしはそれに喜びを見出してしまったのだろう。
どうしてあの人は姉の恋人なのだろう。
三つ年上の姉はいつも私の憧れだった。髪も服のブランドも音楽の趣味もすべてにおいて姉に影響を受けた。歳の近い姉妹ならよくある話。……だからって恋人まで影響を受けなくてもいいものを。
姉の恋人は姉よりもさらに五つ上の大人の男性で黒い髪に黒い眼鏡をかけた静かな人。手のひらが大きくて、いつもシルバーに紺の文字盤の腕時計を嵌めている。
本と映画が好きで基本的にはインドア派。まるでわたしのプロフィールを写し取ったみたいで、初めて聞いたときには驚いた。
社交的で明るい姉が選ぶにはすこし意外なタイプだった。
「ほんと? うれしいな」
趣味が一緒だと答えたときあの人、和実さんはそう言って柔和な笑みを見せた。
そのときだったと思う。わたしが自分の思いに気づいたのは。
ずっと気づかないままでよかったのにね。
今年就職した姉は週三回、帰りが遅くなる。デートの日だから。
このご時世にブラックではないまっとうなその会社ではフレックスタイムを導入しているそうで、デートの時間もうまく確保できるのだと笑っていた。
その嬉しそうな顔を見るに、姉も確かにあの人が好きなのだと伝わってくる。
同時に私の抱く想いの罪深さに引き裂かれそうだった。想うことすらも許されていないのだと、言われているようで。
共有のクローゼットを開いて、右側の自分のスペースではなく、左側の姉のスペースから薄いピンクのブラウスを取った。
オフィスカジュアルというのだろうか、フリルのついたそれは華やかな姉によく似合うのを何度も見て知っている。
わたしは、おもむろに着ていた部屋着を脱いで、そのブラウスに手を通した。
鏡に映るのは、姉に似ても似つかない、自分の姿。
虚像の自分がこちらのわたしに向かって嗤う。
『どう? 満足した?』
なんだか急に現実が帰ってきて、惨めになった。
わたしの通う大学であの人を見かけた。何も不思議なことはない。あの人は姉も通ったこのキャンパスで講師をしながら研究をしている学者さんなのだ。文系のわたしと違って姉もあの人も理系だからほとんど見かけることもないのだけど。
くたびれた白衣を着て缶コーヒーを呷っている悄気たような背中が気になって、わたしは無意識的に足を向けていた。
「お疲れですか」
木陰に設置されたベンチはすこし寂れて、木目がささくれ立っているところもあり直接座るにはこのフレアスカートは向いていない。
「あ、こんにちは」
彼はうつむいていた顔をあげるとへにょりと笑う。その顔の、目尻の皺がどうしようもなく愛おしい。
「こんにちは、先生」
「なんか史ちゃんにそう言われると変な感じだね」
「あはは、わたしもそう思います。……またしばらくお家に帰ってないんですか」
確信を持って聞くとバツが悪そうに頭を掻く仕草に正解を知る。
「今してる研究がもうじき大詰めでね。ちょっと忙しいんだ」
その話は姉から聞いていた。門外漢だから一体どういう研究なのかはよく知らないけど、和実さんにとってとても大事なものらしい。だから姉とさえ会っていないというのも知っていた。
このくたびれた姿を見られるのは姉ではなく自分だと醜い優越感がわたしの胸に去来する。喜びと、苦しみが行ったり来たり。
「風邪とか引かないように。せめてご飯はちゃんと食べてくださいね」
……なんて、わたしが言うまでもないけれど。
という強がりは言えなかった。だってバカみたいだ。こんなこと姉がイヤってほど言ってるに違いないのに。こんな。
「ありがとう」
眉の下がる笑い方が、死ぬほど好きで。
死にたくなるくらい嫌い。
***
冷たい秋雨が降る夜のこと。姉が傘もささずに帰ってきた。
「どうしたの、びしょ濡れだよ」
わたしは下を向いたままの姉が気になりつつも慌てて風呂を沸かし、タオルを持っていく。
ポタポタと雫が落ちる黒髪は心なしか重く沈んでいるようだ。その上にタオルを乗せてそっと拭き取っていくが姉は黙ったまま何も言わない。
「会社でなんかあった?」
嘘。今日はデートの日だ。
「……和実さんとなんかあった?」
姉の肩がピクリと動いた。
「言いたくないなら言わなくていいよ。お風呂沸いたから入ってきなよ。ご飯も用意しておくね」
「……うん、ありがとう。史ちゃん」
きっと珍しく喧嘩でもしたのだろう。穏やかなあの人が怒ったりする姿が思い浮かばないから、たぶん姉が怒って、あの人は困ったように眉を寄せてじっと嵐が去るのを待っていたに違いない。
姉が何に怒ったのかは、わからないけど。でもすれ違いくらいどんなカップルにもある。
……だから、期待なんてしちゃダメだ。浅ましい自分は死ぬまで秘密にしておかなくては。
「お姉さん、何か言ってた?」
翌日、ばったりあった和実さんは昨日わたしが想像したような表情で目の前に現れた。
「……いいえなにも」
「そっか、……ごめんねこんな待ち伏せみたいなことして」
ばったりではなかったのか。理由はともかくわたしを待っていたんだ。喜びに飢えている心はひとりでに浮かれそうになっている。きつく縄をしめるつもりでわたしは拳をぎゅっと握り込んだ。
「なにか、あったんですか」
聞いてもいいものか、迷ったけれどこんなわたしでも姉を心配する気持ちもあった。あんなことは初めてだったから。第三者が首をつっこむべきではないとわかっているのに。
黒ぶちの眼鏡に日が差し込んで和実さんの顔がよく見えない。
今彼はどんな眼差しでわたしを見ているのだろう。わたしは、どんな顔で彼を見つめているのだろう。
「……ん、ちょっと喧嘩しちゃってね。心配かけてすまない」
誤魔化された、のだろうか。いや、わたしに細かいことまで言う必要なんてないのだから、これでいいのか。
線引きされてしまったら、わたしにその先を追求する権利はない。聞きたいという思いは飲み込んで、小さく笑った。
「そっか。はやく、仲直りできるといいですね」
和実さんはなにも言わずに少しだけ微笑んだ。その笑みの向こうにどんな思いがあるのか、わたしにはまったくわからなかった。
「今、ひま?」
講義の終わり、話しかけてきたのは同じゼミの男の子。あんまり話したことはないけれど挨拶くらいはする仲だ。
「ひまだけどなにか用?」
「ちょっと付き合ってほしいなって」
「どこに?」
「あー、その」
「言いにくいところなら行かないよ」
「や、違くて……」
何故か言いにくそうな彼のボーダシャツを見ながらわたしは首をかしげる。
それからわたしは大学の正門を出て10分の可愛らしいケーキショップにいた。
「悪い。妹に頼まれたんだけど、身内の奴らに言ったらからかわれると思って」
「そうなんだ」
「……それに俺もう少し君と喋ってみたかったし」
「…………そうなんだ」
ガラス越しに見えるカラフルでかわいい洋菓子たちを選ぶふりをして、わたしはおざなりに返事をした。なんて返せばいいのか。わたしには好きな人がいるから無理、なんて言えない。だって相手のことを突っ込まれたらもっと答えられないもの。
「わたしも買って帰ろうかな」
微妙な空気を誤魔化すようにわたしはいくつかケーキを買って、駅前で彼と別れた。
押し込むように渡されたアドレスのやり場をわたしはまだ決められそうになかった。
「わあケーキ!」
「好きなの選んでいいよ」
「ほんと? じゃあこのイチゴタルト!」
ここ数日ずっと暗い顔をしていた姉は一般的な女の子と違わず嬉しそうな顔でケーキを選んだ。イチゴのタルト。きっと姉が選ぶだろうと思っていた。
わたしはチョコのムースを選んで二つを並べる。
「今紅茶いれるよ」
「おねがい」
おいしそうにイチゴを頬張る姉はとても可愛い。今日ケーキ屋に同行した彼も姉を見ればその考えが変わるんじゃないかとを思う。わたしなんか、きっと誰も選ばない。
『──そんなことないよ』
あの人は、そう言ってわたしのやわくてもろい心に触れた。
ぽつりと漏らした本音を労わるようにやさしく、逃れがたい温度でそっと。
今でもその言葉が、頭のなかに響いて止まない。この音が消えない限り、わたしの心はたぶんずっと、掴まれたままだ。
皮肉なのは、そういってくれた当人が絶対にわたしを選ばないという事実。
甘いはずのケーキはどこか苦かった。
「昨日、大学近くのケーキ屋さんに行った?」
前に会ったベンチでお昼に買ったサンドイッチを食べていると和実さんが現れて言った。わたしは突然のことに声が出せず、とりあえずこくんと頷く。
「あの時一緒にいたのって、もしかして彼氏?」
横に振る。
「……そうなんだ。なんだ、僕てっきりそうかと勘違いしちゃった」
缶コーヒーを飲む横顔は少しだけ物憂げで、でもどこか安堵しているようにも見えた。
「わたしに彼氏なんて出来ませんよ」
「……どうして?」
「わたしなんて地味だし可愛くないし、そもそも相手がいません」
「そんなことない」
思いがけず強い言葉が返ってきて、わたしは押し黙る。和実さんの瞳は、酷く真剣で、少し怖いくらいだ。
この人のこんな顔、はじめて見た。
わたしの怯えを敏感に感じ取った和実さんは表情を緩めると「ごめんね、」となにに対してわからない謝罪を口にする。
「いえ、」とわたしもよくわからない返事をして、サンドイッチを齧った。
盗み見た和実さんの目はまだ強い光を湛えていた。
初雪が降る、そんな予報が出るほど寒い秋の終わり、悴む手を擦りながらわたしは人を待っていた。
「ごめんね、待たせた」
黒い空にいつ白い花が舞うか見ていると、黒い眼鏡を息で曇らせた和実さんが急いだ様子でやってきた。
和実さんはこの二週間ほど前に姉と別れた。
「いいえ、そんなに待ってません」
「どこかお店入ろうか」
「それよりも、用件を教えてください」
今やわたしとこの人を繋ぐものはなにもない。姉を通してできた縁だ。そこが切れてしまえば、残るものなんて、なにもない。
「……うん、そうだよね」
どうしてそんなに悲しそうな顔をするの。聞きたくても聞けない距離感。
何度か口を開いてためらい、迷い、そういう類の何かを振り切るように和実さんは話し出す。一体どんな言葉がそこから出てくるのか、わたしは恐々とした思いで待った。
「僕は、ずっと好きな人がいた」
なんだ、姉のことか。ふっとこわばっていた肩から力が抜ける。
「好きになってはいけない人だった」
……え?
「その人を紹介された時、どうしようもなく心が惹かれたんだ。隣には、恋人がいたというのに」
「……え?」
信じられない言葉に次は思いが声になって出てしまう。どこからか喜びと焦燥が足音を立てて寄ってくる。
「ごめんね、君のことが好きなんだ」
謝罪と共に告げられた思いは一瞬でわたしの身を焼いた。降り始めた雪が、わたしに触れて溶けていく。
「……あ、あ…………わ、たし」
溺れる魚みたいに口から無駄に二酸化炭素がばらまかれてる。
「ほんとうにごめん。姉思いの君に、こんな、」
和実さんは苦しそうに、でも確かな目で、いつか見たあの強い眼差しでわたしを尚も焼いていく。
「…………ぁ、」
しんしんと降る雪が音を奪う。でもそれよりもそばにいた彼には伝わったようだ。
わたしの体に熱い体温が痛いほどに巻きついていたから。
わたしたちの未来はどんなものだろう。
恋に似た病に侵されたわたしたちは、それでも、ふたりで歩いていくのだと、そう思うのだ。
この茨が這った、この道を。
お読みくださりありがとうございました。