前篇
中学一年の十月まで、団地で暮らしていた。五階建ての四階。向かいの部屋は空き部屋だった。ひとり暮らしをしていたお婆さんは、亡くなったと聞いていた。小学生の行動原理に説明をつけるというのも野暮。友だちと遊んでいて、向かいの部屋のチャイムを鳴らしてみる。理由のない、ほんの遊び。ないはずの反応を期待していたのだが、反応はあった。なんと、ドアをあけてお婆さんが出てきたのだ。子どもなりに「すいません」みたいなことを言ってお茶を濁し、家に逃げこんだ。
オチもなにもない、ただそれだけの話だ。心霊体験と言って思いうかぶ、私の記憶。あれは結局、なんだったのか。そもそも、お婆さんは幽霊だったのか。なにかの記憶ちがいで、お婆さんは死んだと思いこんでいたのではないか。合理的に論理的に、私は考えてしまう。
つまり、私には心霊体験がないのだ。霊感もなく、霊を見たことがないにちがいないと思いこんでいる。だからといって、霊の存在を全否定するわけではない。霊の実在を信じられないのなら、こんな仕事に就いていない。志望動機に嘘は書けない。
わが社の『映りこんだ闇の住人』は好評を博し、次回で記念すべきシリーズ100作めを迎える。私がチーフディレクターになってから、それは10作めとなる。
『映りこんだ闇の住人(略称・うつやみ)』は、視聴者からの投稿がなければ成りたたない。他人の褌を借りて、いかに巧みな相撲を取れるか……われわれの仕事は、それに尽きる。そこにディレクターの独自性や自己顕示欲はいらない。
二代目のチーフディレクターは、もともとドキュメンタリー志望であった。投稿画像がフェイクであり、なぜそんなフェイクをつくりあげるに至ったのか……その人間のドラマを深く掘りさげてゆく、そんなフェイク・ドキュメンタリーを『うつやみ』でやった。『うつやみ』で心霊ではなく、人間の深淵を描こうとしていた。視聴者は『うつやみ』にそんなものは求めておらず、それは数字に直結する。二代目はわずか三回で更迭。いまは映画監督として世界的な賞を獲り、大成している。
三代目は二代目に感化されたのか、やたらとやらせの演出を放りこむのを好んだ。投稿画像を基にストーリーを構築した、製作陣出演のフェイク・ドキュメンタリー。あるいはメタフィクション。
事務所のまえに烏の死体が置かれるが、それを警察に言わなかったり。
スタッフの依願退職を「観れば祟られる映像」編集作業中に死亡したという大嘘に変え、「これから件の映像をお送りする。視聴によって起こる霊障・災厄について、当方は責任を負いかねる」という警句を輝かせる。
それも最初のうちはよかったが、しだいにエスカレートしていった。私などは、発狂のすえ失踪。正気を取りもどして職場復帰したというストーリーを演じさせられた。熱心な視聴者から、私の身を案ずる手紙が来る。やらせの演出であったことなど明かせず、ただただ申しわけない気持ちでいっぱいになる。
そうした紆余曲折を経て四代目となった私は、方向性を回帰させる。投稿者へのインタヴューから投稿画像というシンプルな構成。シンプル・イズ・ベスト、けれん味にあふれた演出はいらない。企画起ちあげの初心に立ちかえったのである。数字が伸びたのも、それが理由であると自負している。
他人の褌で相撲を取ると言ったが、これはけっしてらくな仕事ではない。毎日のように膨大な量の画像が、視聴者から送られてくる。いまではパソコンなどのデータ画像が主流だが、いまだにビデオやベータや8ミリフィルムが送られてくることもある。遺品整理のときに出てきたそれを観てみると、映っていた……そういうケースは、稀ではない。採用不採用にかかわらず、それらすべてをデータ化する。これがじつに、骨の折れる作業である。期日まえは事務所に連泊することなどあたりまえ、休日出勤などざら。社長は数字しか見ないサイコパス、労働基準法の概念を持たない。過酷な職場は、スタッフの入れかわりも激しい。拘束時間に見あう給料ももらえていない。
私がこんな無慈悲な会社にのこりつづけているのは、この仕事を天職だと信じこんでいるからだ。たとえプライベートの時間が持てず、給料がよくなくとも……『映りこんだ闇の住人』には、それらのデメリットを覆すだけのやりがいがある。できあがった作品を家族と観ながら、酒を飲む。「これが父さんの仕事だぞ」と、息子に呈示する。妻は眉をひそめるが、息子はきゃっきゃとうれしがりこわがる。その時間が、私の至福である。