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エピローグ

お食事中の方は気を付けた方が良いかもしれません。一応。

「本当にいいんですか? 後悔しても知りませんよ?」


 再三となる質問を、大家は目の前の女性に行っていた。

 そよぐ春風に長い黒髪が淑やかに踊っている。まっすぐに佇立する小柄な後ろ姿は、楚々とした印象だった。

 自分の娘もこれくらい大人しく成長してくれればなぁ、などと、この春高校に入学する愛娘のことを大家が思い出していると、女性が振り返る。


「はい、ここがいいんです」


 顔の上半分は前髪で覆われ、下半分は白い大きなマスクをしているため、はっきりと素顔は見えない。しかし、この年季の入った木造の集団住宅ハイツを見つめる彼女の瞳は、情熱的に輝いていた。

 まるで夢見る少女とでも言うのだろうか。ちょっと変な人かもしれないなと、大家は薄くなった頭を掻きつつ、彼女に対する認識を少し改めた。

 マスク越しに女性の口元が緩く動く。きっと、微笑んでいるのだろう。何の迷いも感じさせない、晴れやかささえ感じさえる声音に、大家は諦めたように吐息した。


「ま、借りてくれるなら、こちらとしてもありがたいんですけどね。不動産屋から、ちゃんと話は聞いたんですよね?」

「もちろん。それに、わたしこの近所に住んでたんですよ。だから、事件のこともよく知ってます」

「……そうですか。なら、もう言いません。契約も済んでますからね」


 この新たな店子たなこは、高校を卒業して親元を離れての一人暮らしなのだと大家は聞いていた。家賃は安い程都合が良いのだろうが、自ら進んでこの事故物件を借りようとする若い女性がいるとは、想像していないことだった。


「それじゃあ、私はこれで。何かあったら不動産屋か私のとこに連絡してください」

「はい。ありがとうございました。これから、お世話になります」


 丁寧にお辞儀をして、女性は大家に背を向けて歩き出す。そこで、思い出したように首を振り向かせ、大家は最後の忠告にとばかりに彼女に声を掛けた。


「花田恵美さん。こんなことを言うのも失礼ですが、くれぐれもあんたは自殺なんてせんとってくださいよ」


 女性がぴたりと足を止める。ちょっとした冗談半分のつもりだったのだが、その背中の雰囲気に、にわかに大家は鼻の頭にむず痒さを覚えた。

 しかし、彼が取り繕おうと口を開く前に女性は振り返り、にこやかな声で言った。


「もちろんです。わたし、自殺なんて、今まで一度だって考えたことはありませんから」

「……なら、いいんです。変なことを言ってすいませんね」


 気のせいだったかと大家は胸を撫で下ろして、今度こそ女性と別れた。

 あの部屋で起きた事件から二年。記憶から消すにはまだ早かろうが、大家は少しでも明るい空気になれば良いと、願わずにはいられなかった。





 裏野ハイツ102号室。新しい住居のドアの前に立った恵美は、震える手で鍵を回した。

 この町を離れることになった後も、ずっとここが空室であることは確認していた。だから、一人暮らしをするなら絶対にここだと決めていたのである。

 ドアを開けると、ミントの芳香剤の匂いがした。家具など何一つ置かれていない清掃されたリビングの床に、窓から春の陽射しが差し込んでいる。

 玄関からリビングに上がった恵美はその窓際で膝をつき、愛おし気に床に指を這わせた。


 すっかり綺麗にされてしまって、何も遺っていない。

 けれど、ここには確かに、あの時のままの彼が()()()()()()()


 恵美はマスクを外して微笑むと、そっと床に口づけを落とした。


「これからは、ずっと一緒だね」


 返事をする者などいるはずもない呟きを零すと、恵美はその場で仰向けに寝転んだ。傍らに置いたバッグを漁り、両手に持ったのは二台のスマホ。

 右手には、自分専用の最新機種。もう片方は、型落ちして随分と古くなったものだった。最近では電池の消耗も早く、難儀している。

 けれど、これだけは変える訳にはいかなかった。

 恵美は降り注ぐ眩しさに目を細めながら、右手に持ったスマホのチャットアプリを起動する。



 メグ:『ただいま。おじさん、今日も生きてる?』



 恵美の左手の中で、黒ずんで汚れたスマホが震えた。

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