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後編 2

 エアコンが何かを詰まらせたみたいに、急に低い唸り声を上げた。身を竦めて見上げるが、素知らぬ顔で冷風が送り続けられてくる。

 これが第六感というやつなのか、腹の底で虫がざわつく様な痒み。さっきまでの高揚感が一挙に反転し、何か途轍もなく、嫌な予感に襲われた。

 冗談であってくれと願いながらも嫌な妄想は止まらず、スマホに視線を戻す。


 その瞬間、手首に電撃のような怖気が走り、俺はスマホを取り落した。


 引っ込めた手の甲がベッドに直撃して、痛みに一瞬頭が真っ白になる。擦りながら落とした視線の先で、床に落ちたスマホに映し出されている画像を直視してしまった。

 メグから送られて来た画像は、赤い膜に覆われていた。

 たぶん、撮ったときにカメラのレンズが汚れていたのだろう。だが、問題はそんなことじゃない。


 赤い染みが広がるベッドの手前に置かれたデジタル時計が、俺の誕生日を表示している。

 そして、ベッドの上では女の子が仰向けに横たわっていた。丁度横から撮っている感じで、全体像ははっきりとしないが、あの制服と奇妙な覆面マスクは見覚えがある。

 祈るように胸の上で重ねられた両手が何かを掴んでいる。それは真っ直ぐに彼女の胸に伸びていて、不格好なオブジェみたいに突き立っているのだ。

 顔だけが横向けられていて、写真の中の覆面と目が合う。

 全身に、鳥肌が立った。


 何だこれは。

 何が起きている!?


 ヒカル:『これは何の冗談だ!?』


 返事はない。


 ヒカル:『答えてくれ!』

    :『冗談が過ぎるぞ!』


 返事は、ない。

 その画像を遠ざけるように、何度も呼びかけてみるが、一切返事は帰って来ない。

 いてもたってもいられなくなって立ち上がった瞬間、光が消えた。

 遠くで、雷が落ちる音がする。

 停電だった。エアコンが停止し、徐々にじめっとした蒸し暑い空気が肌にまとわりついてくる。急激に雨粒が窓を叩く音が煩くなり、玄関の戸もガタガタと揺れを大きくしていた。


 ――いや、違う。


 確かに風の影響もある。しかし、明らかにそうでない音が混じっている。

 ドンドン、ドンドン、と。

 誰かが、ドアを激しく叩いている。

 現実リアルで誰とも関わっていない引きこもりの俺を訪ねる奴なんて、いるはずがない。

 ましてや、こんな台風の真夜中に。


 ヒカル:『メグ、君なのか?』


 送信すると、ドアを叩く音がピタリと止んだ。雨粒と、風と、ノートPCの排気音が静寂に響く。

 返事は、あった。


 メグ :『うん、会いに来たよ』

    :『開けて』


 催眠にでもかけられたみたいに、俺はスマホを握って立ち上がっていた。暗がりの中リビングを通り、玄関のドアの前まで来たところではたと足を止めて、スマホを見る。

 じゃあ、この画像に写っているのは誰なんだ。

 汗ばんだ手でスマホを握り締めると、一際大きな音を立ててスマホが震えた。


 メグ :『どうしたの?』

    :『そこにいるんでしょ?』

    :『おじさんの気配を感じるよ』

    :『早く、顔が見たいな』

    :『ねえ、早く』


 この薄っぺらいドアを挟んだ向こう側に、メグがいる。

 常識として考えるなら、目と鼻の先で雨風に曝されている少女が待っているのだ。今すぐにでもドアを開けて、まずは迎え入れてやるのが大人として取るべき対応なのだと思う。

 だが、嫌な妄想が血流にのって冷たく全身を駆け巡るのだ。

 開けるなと。全力で理性が訴えている。


 頭は正常に判断出来ているのか?

 俺は今、誰と話している?

 ドアの向こうにいる奴は、誰なんだ?


「おじさん、開けて」


 強風と雨音に紛れて、細い声が聞こえる。

 初めて聞いた、メグの肉声。真っ暗なリビングにやけに響いたその声に、俺は抗うことが出来なかった。

 喘ぐように息を零して、暑さに茹だった頭のまま、ドアの鍵を開ける。

 そして、ドアを押し開こうとした手を伸ばした瞬間、外側から思い切り引き開けられた。


 バケツをひっくり返したかのような豪雨が玄関から吹き込み、俺自身も、玄関も瞬く間に頭から水浸しになってしまっていた。

 だが、そんなことよりも、意識は別にある。

 ドアノブに手を伸ばそうとして前屈みになっていたため、俺の視線は足下に向けられていた。

 片手に握ったスマホの明かりに薄ぼんやりと照らされる玄関先は、ほとんど小川のような有様で、そこに一足のローファーが並んでいる。

 視線を上げていくと、黒いニーソックスが伸びていて、瑞々しい太腿を挟んで水を滴らせるチェックのスカートが視界に映る。


 俺の視線は凍り付いていた。


 ぐしょ濡れになったブレザーとシャツ。丁度腹の前で両手に構えられた、雨粒を反射して鈍色に光るナイフ。

 それが目の前に飛び込んで来たと思ったその時には、脇腹に強烈な熱と衝撃を受けていた。


 熱い。

 痛い。

 なんだこれはなんなんだこれは。

 何が起きた熱い何だこれ痛い何をされた痒い痛い熱い!!


「大丈夫」


 パニックになりかけた頭に、少女の声が響いた。彼女はするりと俺の胸へと身を寄せるようにして、さらに両手を深く押し付けて来る。

 肉が押し潰されるような嫌な刺激に、猛烈な吐き気がした。

 バタン! と風に煽られて玄関のドアが閉まる。その勢いに乗り、少女は雪崩れ込むような勢いで混乱の最中の俺をリビングの床に押し倒した。

 更にナイフが、腹の奥へと捻じ込まれる。


「……メグ、なのか」


 倒れた拍子にスマホは何処かへ転がってしまい、俺の腰に馬乗りになったらしい少女の姿は見えなかった。かろうじて輪郭らしいものは捉えられる程度で、正体は判らない。


「うん」


 短い返答。彼女の声は驚くほど静かで落ち着いていた。くぐもった様子もなく、今は例の覆面は被っていないのだろう。


「なんで……だ」


 喉からせり上がる鉄の味が口の中から溢れ出し、涎みたいに唇から垂れていく。

 首を傾げるように、視界の先で影が揺れる。俺の問い掛けの意味を判じかねているみたいだ。


「それは、なんでおじさんを殺そうとしているかって意味で良い?」


 ああ、やっぱりこれってそういうことなのか。言われてようやく実感した。

 俺はメグに殺されそうになっている。


「言ったじゃん。一緒に踏み出してもいいって」


 踏み出す……?

 それは、引きこもりの生活から外の世界に踏み出すってことじゃなかったのか。


「わたしね、一緒に死んでくれる人を探してたの」


 腹に圧力が加わる。ごふっと吐き出される息と同時に赤い雫が飛んだ。

 俺は、気付くべきだった。

 俺と話している間は、メグは自殺せずに済む。

 それは言い換えれば、彼女が会話を辞めようとすることは、死を決意した時だったということに。

 痛みだか悲しいんだか判らないが、目頭が熱くなってきた。


「嘘だったのか……幸せだって、言ったのに」


 結局、俺はこの子の何の役にも立っていなかったということか。一人で勝手に満足して、何かを成し遂げたような気になって、浮かれて。


「違うよ。おじさんに嘘は言ってない」


 メグの影か前に傾く。彼女の濡れて垂れ下がった髪が俺の頬に触れて、水滴を落としていた。


「幸せだから、死にたいんだよ」


 耳元で震わせた唇がそう告げたと同時に、頬を這い、俺のものと合わさった。麻酔を打たれたみたいに痺れ、搦められた舌の熱に蕩けるように感覚が失われていく。

 その間に、腹の異物感はなくなっていた。代わりに猛烈な熱さが溢れ出し、いっきに気を持って行かれそうな虚脱感に襲われる。


「生きていれば良いことある、なんて言うけどさ。裏を返せば、それと同じくらい不幸になる可能性だってあるんだよ。わたしは、間違いなく後者なの。だから、今の幸せのままに死にたいの。これから訪れる不幸に、今の幸せが上書きされるのが嫌なの」

 すぐ近くで囁かれているはずなのに、メグの声は何処か遠かった。

 生きているか死んでいるのか判らない。そんな生活だったけれど、やっぱり俺は生きているのだと、こんな時になって思うのは、そんなことだった。

 呼吸をして、心臓が脈打つ度に、噴水みたいに命が零れ落ちていく。何とか抑えようと手を当てているけれど、ぬるぬるとしてもう何が何だか判らない。


「何もしない者に幸運は訪れない。わかるよ。でも、わたしは、弱いまま救われたい」


 押し付けられていた身体が離れ、鋭い白い光がかざされる。メグは右手にナイフ、左手にスマホを持っていた。

 濡れて張り付いたシャツの胸元から下着が透けている。暗闇に浮かぶような唇は俺の血で真っ赤に染まり、妖艶な微笑みを刻んでいた。


「生きてる内に、救いなんてないから」


 スマホは徐々に上に持ち上げられ、彼女の顔の真横にまで達する。

 濡れそぼった黒い前髪の隙間から、見開かれた目が俺を見つめていた。


 その、彼女の顔を見て――俺は、救いがないのだということを、どうしようもなく理解した。

 腹に当てていた手が、力なく床に落ちる。

 ああ、もういいか。

 この子のために死ねるなら、それも意味のあることなのかもしれないなと、柄にもなく格好つけたことを思ってしまったから。


「ハッピーバースデー、おじさん」


 スマホを投げ捨てたメグの左手が、右手のナイフに添えられる。もう、彼女の素顔は暗闇に溶けていた。


「ありがとね」


 鈍色の凶器が振り下ろされる様を、俺は濁った瞳で見つめるしかなかった。

 不意に輝く雷光が、俺とメグの影を切り取る。遅れて鳴り響く轟音が、俺の最期の叫び声を掻き消していた。

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