後編 1
――『話聞いてください。(871)』
あの日以来、スレッドの書き込みは増えていない。
時に取り残されたように動かなくなったその文字が映るブラウザを消去して、ノートPCを閉じる。どうした訳か、このサイトを確認するのが毎朝の日課になっていた。
ベッドに寝転がり、先程来たメグのメッセージに返信を打つ。
ヒカル:『おはよう。生きてるよ』
メグ :『よかった』
:『勝手に死んだらダメだからねw』
ヒカル:『わかってる。君こそ、死ぬなよ』
メグの返信は早い。しかし、彼女とこうして会話をする内に、何となくペースというものも掴めるようにはなってきていた。
これが俺たち流の、「おはよう、元気か?」という朝の挨拶みたいなものだった。お互いが生きていることを確認する作業。後は気が向いたときに、基本はメグから話を振って来るのでそれを俺が聞く形だ。
既に俺が無職であり、家に引きこもっていることは伝えているため、向こうも好きなタイミングで話し掛けてくる。
一年前に彼女と初めて言葉を交わした日――メグの話を要約すると、彼女もまた引きこもりなのだそうだ。
原因は、ありふれた話だ。学校での虐めから始まる不登校。それを皮切りに引きこ起こされる家庭内での不和。両親の浮気、等々。
世間の関心からは無縁なところにあって、ニュースはもっと凄惨な事件を触れ回っている。メグの語るものは世の中に飽和していて、誰も見向きもしない、ありきたりな不幸のオンパレードだ。
そして、あまりにも救いのない話だった。
俺には慰めることも、励ますこともできなかった。「ああ」とか、「そうなんだ」とか、そんな適当な相槌しかしていなかった気がする。そりゃそうだ。顔すら知らない他人の不幸話を聞かされたところで、心に届く言葉なんか掛けられるものか。
俺はカウンセラーではない。ただの無職の中年だ。
幸いなことに、メグも俺にそこまでのことは望んではいなかった。本当に、ただ話を聞いて欲しかっただけ。赤の他人にだから、気兼ねなく話せることもあるのだろう。延々と垂れ流される彼女のメッセージは、夜明け近くまで続いた。我ながらよく耐えたものだと感心する。
そして、思い出したように『仕事大丈夫?』などと訊いてきたので、無職だから気にするなということを教えたのだ。
すると、彼女は驚くほどにそのことに食い付いて来た。『もっとおじさんのことを教えて』と言うので、彼女のことを一方的にとはいえ聞かされた手前、仕方ないので話すことにしたのである。
年齢や理由は違えど、引きこもり同士、何か分かり合えるものがあったのかもしれない……というのは、流石に妄想のし過ぎか。
とにかく、その一件以降、何故だか俺はメグに懐かれた。捨てられていた仔犬を構ったら、勝手に後を付いて来てしまって進退窮まったとでも言うべきか。独り身で話し相手がいることに否応はないし、一緒に住んでいるわけでもないので金銭的な負担もない。俺にデメリットは見当たらないので、今もこうして連絡を取り合っている。
まあ、正直に言えば、メグと話していて悪い気はしないというのが一番の理由なのだろうけれど。
メグと話している時だけ、俺は生きていることを実感できる。俺と話している間は、メグは自殺せずに済む。
誰かと関わっているという事実だけで、何かを成し遂げている気分になれるのだ。ある種の麻薬のようなものではないか。
メグと話していると落ち着く。俺はどっぷり両足の付け根まで、彼女に嵌っていた。
果たして正常な判断ができているのか……そんな事を考える意味すら、もう判らない。
◆
その日は、夏の台風が接近していた。引きこもりの俺には関係のない話だが、夜中には直撃の進路をたどっているらしい。
ちらりとカーテンの隙間から空を眺めてみると、既に分厚い鉛色の幕に閉ざされていた。ときおり強風に煽られる玄関のドアも、さっきからガタガタと鳴りっ放しである。
特殊な天候の影響もあってか、この日のメグはいつもに増してお喋りだった。やれ道路で騒いでいる子供を親が慌てて家に連れ戻しただの、こんな日に犬の散歩をしている人が通っただの、彼女は自分の家の前の出来事を事細かに実況してくる。
随分とはしゃいでいる風ではあったが、彼女が何かを切り出すタイミングを計り兼ねているかのような、そんなぎこちなさも感じていた。
夜になると、いよいよ弾丸のような雨が窓を打ち鳴らすまでになっていた。メグとの会話は途切れていたのだが、そろそろ日付も跨ごうかと言う頃、スマホが震えた。
メグ :『そういえば、おじさんの誕生日って明日だね』
ヒカル:『誕生日?』
メグ :『前に教えてくれたじゃん』
ヒカル:『そうだっけ?』
メグ :『そうだよ』
:『それでさ、何か欲しいものとかある?』
もしかすると今日一日何か言いたげにしていたのは、この事だったのだろうか。誕生日など教えた記憶はなかったのだが、とりとめのない会話の中でそういったこともあったのかもしれない。
というか、言われるまで気付かなかった。
この年になると、時間の流れの速さについて行けない部分もある。けれど、気に掛けてもらえているという点は、純粋に嬉しかった。
ヒカル:『欲しいものね。職とか……いや、お金かなぁ』
メグ :『うわ、夢がないねw』
ヒカル:『引きこもりだしな。物欲なんてないよ』
メグ :『そうなんだ。でも、わたしにはあるよ。欲しいもの』
ヒカル:『へえ? 何?』
メグ :『言ったら、プレゼントしてくれる?』
ヒカル:『いや、俺の誕生日の話だった気がするんだけど』
メグ :『細かいことは気にしないでw』
:『で、プレゼントしてくれる?』
どうやら本題はそこにあるようで、メグは二度目の質問をしてきた。どことなく、画面越しに急かすような空気を感じる。
まあ、聞くだけなら構わないか……と内心で苦笑しつつ、返信した。
ヒカル:『何? と言っても、会えもしないのにプレゼントなんて出来ないだろ』
メグ :『それは大丈夫』
:『わたしが欲しいのは、おじさんだから』
:『おじさんに、会いたいの』
その文字を目にした瞬間、喉の奥が引きつった。
キーを打つ指先が微かに震え、何度か打ちミスを訂正する。時間が掛かったが、その間にメグからのメッセージは来なかった。
ヒカル:『冗談だろ?』
メグ :『違うよ』
:『会いたいの』
:『ダメ?』
そんな要求は、これまで一度もされたことはなかった。いや、メグからそれとなくほのめかされたことはあったが、俺が避けていたのだ。
いくら俺が引きこもりなことを知られているとはいえ、直接顔を合わせる自信はこれっぽっちもなかった。会えばきっと幻滅される。人前で笑顔など、どうやって作ればよいのかも忘れてしまった。
ヒカル:『どうして会いたいんだ?』
メグ :『わたし、おじさんのことが好き』
:『だから、このままじゃ駄目だと思うの』
その『好き』が、どういう意味なのか聞く勇気はなかった。しかし、仮に異性に対するそれなのだとしても、幻想だろう、そんなもの。
俺とメグの関係は、引きこもり同士が傷を舐め合っているだけだ。言ってみれば、無人島に二人取り残されて、相手が一人しかいないからどうしようもない状況みたいなものでしかない。
たまたま話し掛けたのが、俺だったというだけだ。
スマホから発せられる光が網膜を衝き、思考を鈍らせる。
メグ :『パパとママは離婚するんだって』
:『どっちに付いて行っても引っ越すことになる』
:『だから、そろそろ潮時なんだよ』
ヒカル:『潮時?』
メグ :『そ。こんな引きこもりの生活、終わりにしたいの』
:『ねえ、おじさんは、わたしと話してて何か変わった?』
そして、そんなこっちの胸中を見透かすかのように、メグからのメッセージが積もっていく。
メグ :『おじさんにとっては、ただの暇潰しなのかもしれない』
:『でも、わたしは変わったよ』
:『いつもそばにいてくれた』
:『おじさん、引きこもりだし』
:『いつ話し掛けても答えてくれる』
:『嬉しかった』
:『こんなこと言うと怒られるかもだけど、おじさんが無職でよかったよ』
:『おじさんと会えて、わたしは幸せを感じた』
:『だから、最後にお礼を言いたいの』
:『ちゃんと、おじさんの顔を見て、ありがとうって言いたい』
:『そしたら、前に踏み出せると思う』
最後――その言葉に衝撃がなかったかと言えば、嘘になる。心臓を鷲掴みされたみたいに、一瞬呼吸が止まった。
だが、終わるときもいずれ来るのだろうと、他人事みたいに気付かぬ振りをしていた自分がいたのもまた事実で。
それでも、彼女の一言一言は、そんな俺のくだらない心の予防線を打ち砕くには十分な威力を持っていた。
メグは、現状から抜け出そうともがいている。
自惚れてもいいのなら、それは俺の責任とも言える。何も成し遂げたことのないちっぽけな俺が、一人の少女に与えた小さな影響。
その他大勢に向けられた聞こえの良い言葉ではなく、俺個人に向けられた言葉に、心が揺れないわけにはいかなかった。
ヒカル:『そこまで考えてくれているとは思わなかった』
:『分かった。会おうか』
メグ :『本当?』
ヒカル:『俺はイケメンじゃないし、期待に答えられないと思うけどな』
メグ :『大丈夫だよ。そんなことw』
:『じゃあ、最後に確認させて』
:『おじさん。わたしと一緒に、踏み出してくれる?』
一緒に。
俺も踏み出せるのだろうか。
この底なし沼のような生活から、這い出すことが出来るだろうか。
ヒカル:『ああ。俺も踏み出してみるよ』
今更格好つけたって仕方がないけれど、この子に恥じない大人になろう。泥臭くても、這い上がって見せる。
宣言すると、目の前が不意に明るくなった気がした。この子にだけは嘘は吐けない。だから、もうやるしかない。
メグ :『ありがとう。本当に嬉しい』
:『お誕生日おめでとう』
言われて気が付けば、もう日付を跨いでいた。その瞬間を見逃してしまったが、きっと、今日ほど特別な誕生日はないだろう。
ヒカル:『ありがとう。その言葉が、何よりのプレゼントだ』
メグ :『もう、何言ってるの』
:『プレゼントは、これからだよ』
:『じゃあ、今から会いに行くね』
返事を打とうとする最中に続けて送られて来たメッセージに、指が止まった。
今から?
何度か読み返したが、文面は変わらない。
今からって、どういう意味だ。