前編 1
生きている事と死んでいる事の境目なんて、実は結構曖昧なのかもしれない。
四十を超えて、そろそろ人生の折り返しも過ぎようかという頃になり、朝になるとそんな風に思うことが増えてきた。
部屋に時計はないため、スマホで時刻を確認する。午前七時、きっかり五時間は寝たことになる。
窓の方を見ると、一度も洗濯をしていないベージュのカーテンの裾から微かに漏れる朝陽が、埃の積もったフローリングを目立たせていた。
どうやら、今日の天気は晴れのようである。
抗いがたい二度寝の誘惑を振り切って身体を起こし、気怠い感覚を引き摺りながら洗面台へと向かう。リビングへ出ると、篭った熱気が剥き出しの肌を撫で、頭が一瞬ふらついた。冷房の効いた部屋から出るこの瞬間に、今が夏だということを思い出す。
生温い水で顔を洗うと、少しは目が覚めてきた。鏡に映る自分の顔は、いつも無表情だ。
寝癖で乱れた頭、中途半端に伸びた髭、何年も消えない目の下の隈。自分でもとんだ酷い顔をしているものだと呆れるが、それもすぐに過ぎ去る感傷だった。
今の自分は、たぶん死んでいる方に近い。
冷蔵庫にある買い置きのゼリー飲料を片手に部屋へと戻れば、冷えた空気に支配されて死の感覚が近くなる。それは暑くて汗をかくという、生きるための代謝から全力で逃れる行為なのだと思う。
ベッドの上に放置していたスマホを拾い上げると、チャット用のアプリにメッセージが届いていた。
メグ:『おはよう、おじさん。今日も生きてる?』
その会話を始まりに、今日も俺は生きていることを実感する。
◆
きっかけは、およそ一年前。ちょっとした思い付きで、夜中にある単語をネットで検索してみたことだった。
――自殺掲示板。
無職を長年やっていると、急な不安に胸が押し潰されそうになったり、精神が不安定になったりすることが度々ある。家賃の振り込みだとか、電気代だとか、ATMから金を下ろす度に目減りする貯金額に気が滅入ることなどしょっちゅうだ。
専門学校を出て就職した先のIT企業は、今にして思えばブラックだったのだろう。三十を超えるまで働いたが、そこが俺の限界だった。
身体が先だったのか、精神が先だったのかは判らない。きっかけは些細なことだったのかもしれないが、仕事を辞めると決意させたのだから、当時の自分にとっては重要な出来事があったのだろう、きっと。
とにかく、使う暇もなく貯金だけは溜まっていたので、しばらくのんびりするさと思っていたら、あっと言う間に時は流れた。
数少ない付き合いのある友人たちとも疎遠になり、実家にも年末くらいにしか帰らない。恋人? そんなものを探す前に職を探せという話だ。
しかし、一度引きこもりの生活に嵌ると、抜け出すのは容易ではない。「なあに、まだ金には余裕がある。ゆっくりやればいいさ」などといつまでも言い訳じみた思考が頭を曇らせ、やるべきことを見失ってしまう。そうして、一日の大半が過ぎた頃になってようやく気が付いたように焦るけれど、やっぱり何もできないまま一日を終えるのだ。
こうなると、もはや自分が生きているのか、死んでいるのか判らない。腹は減るが、食事さえもルーチン化している。心から美味いと思う物を食べたのは、果たしていつの頃だっただろうか。
そうして、そんな風に無感動に過ごすうちに、先の『自殺』という言葉が思い浮かんだのだ。
別に願望があるわけではない。だが、ときおり思うのだ。このまま死んでしまった方が、いっそ楽なのではないのかと。
テレビのくだらないバラエティ番組で笑うこともある。映画を観て、小説を読んで感動することもある。けれど、そんな感情も寝て起きれば忘れてしまう。心がフラットな状態になり、まとまりのない思考が頭をぐちゃぐちゃにするのだ。
だから、興味本位だったのだ。たまにニュースなどで見る、自殺志願者を募っているサイトが、どういうものなのか。
検索のトップに表示されたリンクを深く考えずにクリックし、注意書きも流し読みで掲示板へとたどり着いた。
結論だけを言うなら、特にそれを見たからと言って心動かされることはなかった。
スレッドは多く立てられているが、たいていタイトルは「死にたい」とか、「生きる意味」とか、「軽々しく死にたいなんて言うな」とか、似たり寄ったり。共感も反発も、書き込みの内容は推して知るべしだ。
何かを期待していたわけでもないのだけれど、ここに書き込んでいる奴の何割が本気で死にたいと思っているのか疑問だった。
まあ、あれだ。推測でしかないけれど、本当に追い詰められた人間はこんなところに書き込む余裕すらないに違いない。ここはその一歩手前の奴らが、吐き出すことを目的としている。そんな雰囲気だった。
匿名である以上断定はできないが、年齢層、性別もばらばらだ。学校に行っていると書き込んでいるものもいる。子供がこんな場所に書き込みをするとは世も末だと、別な意味で不安にもなりかけたが、そんなことを言う資格も俺にはない。
何と言うか、場違い感が半端じゃなかった。
少なくともここに書き込んでいる人たちは、何らかの苦しみを抱えて、それを吐き出そうとしている。だが、俺にはそれがない。ただ安穏と無為に過ごしている自分が、ふとした気の迷いで紛れ込んで良い場所だとは思えなかった。
後はいつも通りだ。寝て起きれば、ここで見たこともすっかり忘れて、またもとの日々に逆戻り。そう思ってブラウザを閉じようとしたとき、視界の隅っこにその文字は映った。
――『話聞いてください。(871)』
そのスレッドは、一覧から埋もれるように最後尾にあった。その割には、書き込み数が871件と凄いことになっている。少しばかり興味を惹かれる自分に内心呆れながらも、最後だと思ってクリックした。
内容を見て、思わず背筋がぞっとした。そこに書かれていたのは、異常なものだった。
『名前:メグ 20XX/07/XX 00:00:32
誰でもいいんでXXXに連絡ください。話聞いてください。
IDはXXXXXXXXXXです。 』
たったそれだけ。しかし、871件の書き込みが、全てその内容で埋め尽くされていた。
時間を置いて何度もこの『メグ』という人物は書き込みをしているようだった。それも何日にも渡っている。
書かれている『XXX』とは、チャット用に配信されているスマホアプリの名称だ。俺のスマホにもインストールされているが、使った記憶は遥か昔だ。
ディスプレイの向こう側で、延々とこの書き込みを行っている誰かがいる。冷静になってみると不気味を通り越して滑稽でさえあったが、削除もされていないし管理は杜撰なのか。
誰からの返信もなく、注目もされず、いないもののように扱われている『メグ』。
明らかに異常で、出会い系か何かの迷惑行為と考えるのが自然な流れだ。関わると碌なことにならないと、頭では正常に判断できている。
けど、変な奴ならば切ればいいだけの話だ。
そう……これは、ちょっとした思い付きから始めた興味本位のこと。このまま終わるのも惜しい気がした。
マウスから離した手にスマホを握る。ドクリと、久し振りに自分の心音を聞いた気がした。