002 深き森の中
深い深い森の中、その奥を極彩色が一瞬だけ支配した。
しかし誰も気づかない。
深い深い森の中、光はどこにも漏れなかった。
「ああ、驚いた……」
その森の中で、私は自由に身体を動かせることに満足している。
私はつい先ほどこの世界に召喚された。
召喚主のことはもう忘れた。
いや、忘れられないほどに強烈ではあったのだけれども。
召喚される前に、私は召喚主のことを薄い繋がりを辿って調べてみたのだ。
そして見てしまったのだ。
私の価値観とはまったくそぐわない、まるまると太った着飾った豚を。
その豚から流れ込んでくる力は私の身体を作り変えていった。
それがこの世界に私の身体を適合させていると理解できたから、まだ受け入れることができた。
しかしその豚は私を支配しようとしていた。
隷属させようとしていたのだ。
もちろんそんなことを認めるわけがない。
未だ極彩色の空間を漂っていた私の身体は、すぐにその豚との繋がりを断ち切ることに成功した。
そうしてうねりをかき分けて、気づいたら森の中に現れていたというわけだ。
……正直なところ、私にもよく理解できているとはいえないだろう。
豚に召喚され、姿を見られる前に逃げ出し、そして気づけば森の中。
今はそれだけ分かっていたらいいだろう。
「しかし、これからどうしたらいいのかしらね……」
当初の目論見通りに、世界を渡ることには成功した。
なにせこの森に生えている植物はどれも見たことがないものだ。
自慢ではないが、今まで長く生きてきただけあってそれなりの知識は蓄えている。
その私でも見たことのない植物ばかりなのだから、やはりここは元いた世界とは別なのだ。
今の私は普段着──というには少しばかり豪奢な作りのものだから、森を歩くには適していない。
だからといって森の中に潜み続けるのかと言われると、それもどうかと考えてしまう。
そもそも私が異世界に来たのだって、人生をやり直す為なのだ。
あのつまらなかった日常を捨て、今度は人と共存する人生を歩んでみたいと思ったからなのだ。
幸いなことに、豚のおかげでこの世界に人がいることは確信できた。
ならば、まずは人と出会うことを目的とするべきか。
必要もないのに毎日狩りを行っていたおかげで、今の私は数年食事を撮らなくとも全く問題がないぐらいには腹も膨れている。
見知らぬ森の中だが、一年もさまよえばどこかにたどり着くだろうと信じてその一歩を踏み出した時だった。
「……驚きました。お婆ちゃんの言ったとおりです」
木陰からの声に振り返ると、そこには可愛らしい少女の姿があった。
歳は十くらいだろうか。
私と対象的な、未だ未成熟な身体をした少女がこんな森の中に現れるなんて驚きだ。
「あなたは?」
「わたしはヘルダです。お婆ちゃんにあなたを迎えに行くように言われました。ついてきてください。お婆ちゃんの家まで案内します」
少女──ヘルダは言いたいことだけ述べるとすぐに身を翻してしまった。
もちろん迷わず付いて行く。
なにせ初めて出会った人なのだ。
悩む理由はどこにもなかった。
森はもしかしたら思っている以上に広いのかもしれない。
森の中にあってこの場は薄暗く、上を見上げても背を伸ばす幹が広がるばかりだ。
そんな中にヘルダは暮らしているのだろうか。
……いや、暮らしているとも限らないか。
どうやって私を知ったのかは分からないけれど、たまたま近くを通りがかっただけかもしれない。
こんな森の中を移動する理由も分からないけれど。
「どこまで行くのかしら?」
「もうすぐです。あまり森の中を出歩かないように言われているので、そこまで遠くだったらわたしも探しに行きませんでした」
ということは、やはりヘルダはこの森の中に住んでいるのか。
見るからに不便そうなのに、こんな森の中に住んでいるなんて何か理由があるのだろうか。
わざわざ森に住んでいる理由か。
人目を避けるためだというのが本命だが、ヘルダの見た目は普通に見える。
ならば立場のせいか、それとも違う理由か。
しかしそれを問いかける前に、目当ての場所までたどり着いてしまう。
「わたしとお婆ちゃんはあの家で暮らしています。お婆ちゃんはもう動けないくらいに弱っているので静かにしててください」
森の中にあって、すこしだけ開けた空間。
小さな庭に小さな畑、そして小さな家だった。
その規模から考えると二人暮らしすら厳しいように思えた。
ヘルダが昔からここに一人で暮らしていたということはその幼さからはありえないので、もともとはそのお婆さんが一人で暮らしていたのではなかろうか。
ヘルダは迷わずにその家の中に向かっていく。
私も後を追おうとして……そして、庭に足を踏み出すことができなかった。
その理由は分からない。
けれどこの場所に足を踏み入れてはならないと思ってしまったのだ。
「……? どうしましたか?」
「どうやらそちらには行けないみたいなの」
原理は分からないけれど、理由はなんとなく分かってしまう。
森の中というのは危ない場所だ。
少なくとも危険な動物というのは数多く存在するのが当たり前。
ならば対策を講じるのも当然のことだ。
普通ならば柵で囲うのが当然の対策も、この場所には何もされていない。
ならば別の、見えない対策がなされているのだろう。
おそらくは人以外を寄せ付けないなにか。
もちろん原理はさっぱり分からないし、そんなことができるとも思えない。
でも事実として私は一歩を踏み出すことができないのだから、何かがされていると考えるのが当然だった。
「驚きました。見た目は人のようなのに、あなたは人ではなかったんですね。……少しだけ待っていてください。お婆ちゃんに話してきます」
驚いたのはこちらのセリフだった。
ヘルダは私が人ではないと分かったところで、その態度を変えることがなかった。
もっとも、そもそも友好的ともいえないけれど。
それにしても、やはりここには人以外を避けるなにがあるのは間違いないみたい。
これが異世界ならではの技術なのだろうか。
ヘルダはすぐに戻ってきた。
貧相な身体にはちょっと似合わない、飾られた首飾りを持って。
「これを身につけてください」
言われたとおりに首飾りを下げると、周囲から感じていた圧迫感はどこへやら。
この疑問も家の中に入ると分かるのだろう。
ヘルダをわざわざ迎えに寄越したのだし、話ぐらいはできると期待しておく。
その家の中──家というよりもむしろ小屋と言うべきか。
部屋の仕切りはもちろん無く、玄関からすべてを見渡せる作りになっている。
厨房からベッドまで、もちろんそこに横たわる老婆の姿も見えてしまう作りだ。
「お婆ちゃん、連れてきたよ」
「ああ……お帰り、ヘルダ。早かったのねえ……」
「お婆ちゃんの言うとおり、すぐ近くにいたから」
「そうかい……。ヘルダ、少し庭を見ていてくれるかい。私はこの方とお話があるからね」
「分かった」
一目見てわかる。
老婆の命はすでに風前の灯だ。
おそらくは、もう目も見えていないのではないだろうか。
さすがに今日明日で尽きるということはなさそうだが、それでもあと一月二月程度だろう。
そんな老婆がどうやって私の存在を知り、そして連れてきたのか。
老婆に対する興味は尽きない。
「たとえこの目が見えなくとも分かります。その命の輝き……あなたは異世界から招かれたお方ですね」
「……分かるの?」
「ええ……。私はエミリア。今はヘルダと一緒に静かに暮らしています」
「私はイルザ。あなたはどうして私を呼んだのかしら。何やらお話があるそうだけど。それに、どうしてこんな不便な場所で暮らしているのかしら」
老婆の──エミリア意識はしっかりとしているようだった。
「あなたを呼んだのは……あなたが困っているようだったから。そしてこんな私でも、あなたに幾ばくかの協力ができるから」
「協力?」
「ええ。……あなたは召喚されたばかり。右も左も分からないあなたに、私は知識を授けることができるのです」
それは、確かに願ってもないことだった。
目下の悩みはここがどこか分からないこと。
それ以上に、今は目の前のエミリアのことが気になっているけれど。
「まずは……ここに暮している理由からですね……。もちろん人目を避けてのことです。私にとって、街の中は決して過ごしやすい場所ではないからです」
「……」
「不思議ですか? ……そうですね。説明するのは少々難しいかもしれません。お手を拝借してもよろしいでしょうか」
布団の中からやせ細った腕が伸びてくる。
骨と皮だけの、老婆の腕に違いない。
「触ればいいの?」
「ええ。……手を重ねていただくだけで十分です」
手を重ねると、エミリアは焦点の合わない瞳を閉じたのだ。
私の手の温もりを感じようとしているのか。
老人の手という以外に私に感想はない。
「これで、何か分かるの?」
「ええ、もう十分……。あなたは私の知る限り、異世界から召喚された人たちの中でもとりわけ優れた力をお持ちのようですね」
触れただけで一体何が分かるというのか。
それよりも聞きたいことがあったのだが、私の言葉を遮ってエミリアは話し続ける。
「今のあなたには様々な疑問があることでしょう。その前にひとつだけ……あなたはどうしてこの森に現れたのでしょうか」
「……本来なら、どこかの地下室に現れたのでしょうね。でも逃げ出したのよ。その、私を呼び出した人があまりにも醜かったからついね」
「そうですか……。それではそのあたりから説明しましょうか」
これまでのことを知ることも悪くはないか。
そう思い、エミリアの言葉に耳を傾けていく。
私を召喚しようとした人はベルト姫。
どうして断言できたのかというと、異世界から召喚できる者は王族に限られているから。
そして、ベルト姫は唯一その醜さが各国に知れ渡っているのだとか。
ベルト姫は野心を持っている。
それはもう、一人では抱えられないぐらいに大きな野心だ。
全てを手に入れないと気が済まない性格のようで、この大陸全土を支配したいそうだ。
もちろん各国は抗うだろう。
ベルト姫のいるアデライド帝国は確かに大国だが、隣接してフルシャンティ王国とカノ王国がある。
どちらもアデライド帝国に匹敵するほどの大国だ。
普通に戦争をしたところで、周りの二国に協力されるとまたたく間に鎮圧されてしまうであろうことは分かりきっていた。
だからこその召喚だ。
召喚は特別なものだ。
異世界から招かれた者は、例外なく強大な力を持っているそうだ。
いや、世界を渡ったことで強化されるのだ。
その者に適した形で、この世界にを適合した形で強化されるそうだ。
その力でもって、二国を同時に相手取るつもりだったみたい。
私を隷属させようとしたのはその為か。
戦争の道具にされるなんてまっぴらゴメンだから、逃げ出したことは間違いではなかったみたい。
そうして逃げた私は、たまたま極彩のうねりが途切れた森の中に現れたということだった。
「森の中に暮している割には随分と詳しいみたいね」
「……ここにもたまには訪れる人がいますから。お話だけは色々と伺っているのですよ」
ふうん。
わざわざこんな森の中に、ね。
まさかヘルダが目当てという訳でもあるまいし、間違いなくエミリアに会うためなのだろう。
「それで、よければエミリアのことも知りたいのだけれど」
「ああ、ごめんなさいね。私がこの森に住んでいるのは、私の力が理由です。一目見るだけで相手の魔力を読み取ってしまい、触れるだけでその才能までをも知ってしまう忌まわしい力のせいなのです」
「……魔力?」
「ああ、ご存知ないのですね。……あら、でもあなたの才能からは、あなたが魔法を扱えるものだと思うのですけれども……」
魔力、それに魔法。
どちらも聞き覚えのない言葉だ。
でも私がすでに扱えると言われては、確かにピンとくるものがあった。
それは私が私という種族たらしめるものだから。
「魔法……魔法ね。例えばこんなことかしら」
ひとつ、見せてあげることにした。
エミリアの眠るベッドに腰掛けて、私がここにいることをしっかりと示す。
目が見えなくとも、ベッドの沈む感触からおおよその体重は予想できるはず。
ついでにエミリアの片手を取ってしっかりと握り込んだ。
触覚もエミリアにとっては大事な感覚だろうから。
そうして次の瞬間には、その感触に驚くことになるのだ。
「……あら?」
エミリアはどう感じているだろう。
ただ小さくなっと思うだろうか。
それとも柔らかい?
はたまた初めての感触だろうか。
エミリアの目の前にあった私の身体は、今は猫の姿に変わっていたのだった。




