013 吸精の先
「ああ、イルザさん、イルザさんっ!」
確かに目の前のイルザには息があった。
身体を切り開かれ、その血の殆どを抜かれた状態にも関わらず、イルザはまだ生きていたのだ。
しかしこのままではいずれ息絶えることは明白だ。
「血が、血を止めないと……」
身体を切り開かた相手に、何をしたら治療になるというのか。
エミリアは治癒魔法を使えない。
そもそも魔力はこの数年で減っていく一方だ。
例え魔法を使えたとしても、今のイルザを治せるはずもなかった。
「ああ、ヘルダまで……」
遠くでは倒れているヘルダの姿もある。
いつの間にかエフィーダとビダルの姿は消えていた
残されたのは瀕死のイルザ、気を失ったヘルダ、そして老婆だけ。
この状態でできることは限りなく少なかった。
「まさか、まさかこんなことになるだなんて」
イルザに街へ向かうようにと進言したのはエミリアだ。
ならばこそ、この事態はエミリアが引き起こしたことに他ならない。
少なくともエミリアはそう考えた。
「なんとしてもイルザさんだけは救わなければならないなりません」
しかし、どうするべきなのか。
ただの軽傷ならば森の薬草を添えたらいい。
重症ならばリタ姫を頼るもいいだろう。
だが目を離すことも危ぶまれるぐらいの重体ならば……最後を看取ることしかできないのだ。
「それでも、なんとかしなければならないのです」
せめてもう少しだけまもとな才能があればと思わずにはいられない。
しかしエミリアができることは、見ることと結界を張ることだけだ。
どちらもイルザを助けるものとはならないのだ。
そう、確かにエミリアの才能は無意味だった。
「……でも、イルザさんの才能なら」
そしてエミリアは思い出した。
イルザが備えていた三つの才能。
変幻、格納、そして吸精。
吸精についてもどのようなものかは既に聞いていたのだ。
触れたものの生命力を糧とする才能。
ただ触れるだけでなく、快楽を伴うとより効率的になるという悪魔のような才能のことを。
『実践はできなくとも、どう強化されているのか予想だけでもしておいたほうがいいでしょうね』
『そうかもね。あまり言いたくはないんだけれど……』
もちろんヘルダには聞かせていない。
今後どうなるかはイルザとヘルダ次第だが、今のヘルダには早すぎる内容だった。
「……もう、あなたを助けるためにはこれしかないのですね」
そして、エミリアは命を投げ出す覚悟を決めたのだった。
まずは倒れているヘルダの様子を伺う。
ヘルダに傷はなく、おそらくは精神的ショックで気を失ってしまったのだろう。
これでもイルザには懐いていたのだ。
感情を表に出すことは滅多にないが、二年を一緒に過ごしたエミリアには良くわかっていた。
「可能ならば、もう少しだけあなたの成長を見ていたかったわね……」
顔に触れ、その寝顔を確かめていく。
触れられるのもこれが最後、その手は慈愛に満ちていた。
そしてイルザ。
こうしてみると生きているのが不思議なくらいだった。
しかも、核が無いという。
魔人だと思っていた相手が実はただの人だったのだ。
もちろん、イルザは人間ではない。
近いというとやはり魔物になるだろう。
しかしイルザは召喚された存在だ。
核を持つ魔物はこの世界の特徴であり、そして法則。
イルザが核を持たないのもまた当たり前のことだったのだ。
「イルザさん、聞こえますか? あなたに私の全てを捧げます。私はこの生に十分満足しています。ですから、遠慮せずにその傷を癒やしてください」
イルザの手を取り、優しく語りかける。
ヘルダを任せることに不安はない。
命を投げ出してまでもヘルダを逃そうとしてくれたのだ。
今後をイルザに託すことに、なんのためらいもなかった。
いや、一つだけ……。
「一度でいいから、あなたの顔を見てみたかった……」
イルザが庭の外にでかけた時に、一度だけヘルダから話を聞いたことがある。
ヘルダは誰よりもイルザを美しいと言っていた。
ヘルダが憧れているリタ姫よりもだ。
リタ姫の顔はエミリアも覚えている。
まだ今よりも小さかった頃に、国を立て直すのだとエミリアを訪れたリタ姫の姿。
何よりも国民のことを考えていた、優しさに満ちたリタ姫のことを。
「傷ついていても分かりますよ。でもやはり、この目で見てみたかった……」
片手でイルザの手を握り、もう片手でイルザの顔を撫でる。
造形美もここまでいくと恐怖すら覚えるぐらいだ。
触れるだけで分かる。
美男美女に産まれるというエルフのエミリアをもってして、イルザは美しいと言わざるを得なかったのだから。
「ああ……これが最後なのですね……」
触れていく先から力が抜けていくのが分かった。
もしかしたらイルザには聞こえていなかったかもしれない。
本能で、触れた者を吸精しているのかもしれない。
けれどそれでいいのだ。
イルザとヘルダにはまだ長い人生が待っている。
年老いたエミリアのことは忘れ、二人で生きてくれるならそれほど嬉しいことはないのだから。
そうしてエミリアの身体は消え去った。
後に残るのは、主を失った衣服だけだった──。
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優しい、優しい声を聞いた気がした。
私を慈しみ、どこか心配するような声だったと思う。
そして温かいものが流れ込んできたのだ。
それは知らないもののはずだ。
少なくとも今までに感じたことのないなにか。
それは私の身体中を駆け巡り、隅々まで至ったことだろう。
「私、は……」
目を開くと、雲と青空が広がっていた。
背中の感触からは、私の身体が大地に倒れていることが伝わってくる。
「どうして、生きてるの?」
男と戦ったことは覚えている。
最後に腹を貫かれたことも。
死を覚悟したのは初めてのことだったけれど、同時にこんなものかとも思ったのも確か。
なんだかんだで長くを生きたのだ。
どこかで私は満足していたのかもしれなかった。
ただ一つの心残りは……。
「……本当に生きてるのね」
身体を起こしたことで、これが夢でないことは理解できた。
しかし、どうして身体に傷一つ残っていないのか。
それにこの服。
眠る私に誰かが服をかけてくれたようだったのだ。
一体誰が私に服をかけるのだというのか。
しかも僅かな温もりを感じられる不思議な服を。
とりあえず服は格納した。
誰だか知らないが、私のために服をかけてくれたのだから。
ほんのすこしだけ落ち着きを取り戻し、そして気づいた。
ヘルダも私と同じように、すぐ近くで眠っていたのだ。
「本当に、何があったの?」
立ち上がるが、やはり身体に違和感はない。
近づいて確かめるがヘルダもただ眠っているだけの様子に見える。
まさか直前までの記憶が夢ということもあるまいし。
何が起きたのかを知りたくてたまらなかった。
「とりあえず、ヘルダをこのままにしておくのはいけないわよね」
相変わらずヘルダの身体は軽かった。
そのヘルダを持ち上げたところで、今いる場所が見慣れた庭だと気づいた。
「エミリアなら、何か知っているわよね」
いくら考えても自分では分からないのだから、ここはエミリアに尋ねたらいいのだ。
エミリアは何でも知っている。
この不思議な出来事にも、きっと説明がつくはずだ。
そう信じていた。
「……エミリア、いないの?」
しかし、家に入ってもエミリアの姿はどこにも見えない。
そもそもベッドがもぬけの殻なのだ。
エミリアは動くことも難しかったはずなのに、そんな身体でどこへ行ったというのか。
ヘルダをベッドに寝かせ、私はエミリアを探しにいく。
しかし家と庭、どこを探してもエミリアの姿は見当たらなかった。
そもそも今日はいつなのだろうか。
私はエミリアの言ったとおりに、一日で帰ってくることができたのだろうか。
もしかしたらエミリアは、帰りの遅い私とヘルダを探しに行ったのかもしれない。
そうなると迂闊に動くことはできないだろう。
エミリアは何よりもヘルダを大事にしているのだ。
ヘルダを一人で残していくわけにもいかなかった。
ヘルダが起きるまで、覚えている出来事を思い出していく。
私を襲ってきた男は一体何だったのだろう。
理由はなんとなく分かっている。
なにやら魔人と勘違いをしているようだった。
魔人が人の姿をしていることは聞いていたが、まさか私を魔人と間違えるなんて思わなかった。
街中では魔人だと言われることはなかったから、ただ見た目だけで判断したわけでもないだろう。
やはり魔力が原因なのだろう。
私の魔力は人よりもかなり多いらしいから、私の魔力を感じられる人にとっては魔人のように見えるのかもしれない。
でも結論付けるには早いだろう。
まだ私はまだ魔人を見たことはないのだから。
そもそもの原因は、勘違いさせる要因となった魔人にある。
それも、人を攫っているだって?
私は攫うようなことはしない。
その場で襲ってその場でお別れだ。
餌なんていくらでも転がっているのだから、連れ去って何度も味わう必要なんてないではないか。
一つの味を何度も楽しむよりも、いろんな味わいを楽しみたいのだ。
まあ、その魔人がどうして人を攫っていたのかは知らないけれど。
ただ、できることなら一発ぐらいは殴りたかった。
それとあの男と女も気になる。
私よりも明らかに強かった男。
その男と一緒にいるのだから、女も只者ではないのだろう。
私は強いのではなかったのか。
召喚された者はいずれも強者なのだと聞いている。
その中でも私は別格だったはずだ。
それなのに、あの男は私よりも強かった。
その男のことを考えた時、いきなり脳裏に言葉が浮かんできた。
「──到達者?」
それは、間違いなく初めて聞いた言葉のはずだ。
それなのに、なぜか頭の中に知識があった。
気味が悪く、気持ち悪くてたまらない。
どうしてこうも分からないことばかりが起きてしまうのか。
それでもありがたいこともまた事実ということが許せない。
到達者、つまりは絶対的強者。
到達者は長い時間、一つの物事に身を捧げ続けたことで至ることのできる極地であるらしい。
到達者に寿命はない。
到達者は人に興味がない。
一つの物事に身を捧げた結果、そのものになるのだそうだ。
もちろん人の姿から変わるわけではない。
ただ、人の意識から到達者の意識へと物事の捉え方が変わるというだけだ。
今の世で一番有名な到達者は判別のアンシェル。
彼は常に公平であり続け、その結果到達者へと至ったそうだ。
その行動はもちろん判別することだけに費やされている。
驚いたことに、討伐者ギルドはアンシェルの協力あってのものらしい。
討伐者証にはアンシェル独自の技術が用いられているのだとか。
それとお金も。
アンシェルの加護のお陰で贋金とは無縁なのだそうだった。
本当に気持ちが悪い。
私は一体どうしてしまったというのだろう。
あるいはこれも召喚されたからこその知識なのか。
今すぐエミリアに相談したいのに、その行方は依然として知れないままだ。
「ねえヘルダ、早く起きて……」
今まで一人きりで過ごしていたからか。
心の弱さを実感している真っ最中の私は、まだ目覚めないと分かっているにも関わらず眠るヘルダの頬を撫でてしまう。
その温もりを感じたかったのだ。
そうして触れて、そして気づいてしまった。
いや、もしかしたら初めから気づいて無視していたのかも。
私の中に情報が流れ込んできたのだから。
その瞬間理解した。
理解させられてしまったのだ。
この情報はヘルダから流れてきたものだ。
間違いなくヘルダの才能だったのだ。
「地の魔法……?」
思わず私自身に意識を向けた。
傷を案じるのではなく、そのもっと奥深く。
やはり私自身からも、情報は得ることができたのだった。
変幻、格納、吸精。
これらは初めから持っていた私の才能だ。
火の魔法。
全く身に覚えのない才能だった。
そして──識別、結界。
それは、間違いなくエミリアの才能だった。
この時、私は全てを理解した。
この訳の分からない知識もまたエミリアのものなのだ。
エミリアが最後に見た光景が蘇る。
エミリアの最後の覚悟が伝わってくる。
到達者を前にした疑問。
私を見た絶望。
ヘルダに訪れる希望。
もう認めるしかなかったのだった。
エミリアは私を救うために、その身の全てを投げ出していた。
私に捧げていた。
ああ、なんということだろうか。
あの服の温もりは、エミリアが最後まで私に寄り添っていた証だったのだ。
思わず服を取り出し、そしてぎゅっと抱きしめた。
瞳からは涙が止まらない。
まさか、私が悲しむことがあるなんて。
きっと初めて経験するからだ。
ここまで優しくされたのは初めてのことだったのだ。
命を投げ出してまで私を救おうとするだなんて。
受け入れる為には今しばらくの時間が必要だった。
イルザが目覚めるまで、私はひたすらに涙した。




