束の間の
第2章
①
高校2年生の秋という時期は、人によって色々と評価が変わる。
難関大学への受験を決めているなら既に目標達成のため勉強を始めていてもおかしくないし、部活に青春を賭けているのならそろそろ部を引っ張る立場へと変わり始める頃だろう。
どちらでもなければ気の済むまで遊び尽くせるようなチャンスでもある。
しかしてこのクラスの生徒たちは、基本的にこの居心地の良いぬるま湯なモラトリアムをもうしばらく謳歌していたいというのが多数派のようだった。
「ねえねえ契、ちょっと話があるんだけどいいかないいかなっ」
朝8時、契が大体いつも通りの時間に自分の席に着くと、その前の席に座っていた少女がくるっと振り返って彼の机に両手を突いた。
快活、と表現するのがしっくりくるようなさばさばした笑みを浮かべる彼女は早く何かを話したくてうずうずしているらしく、どうしてだか右へ左へ小刻みに揺れている。
野々宮雪菜――契の幼馴染みの少女。
何かと空虚な契のことをいつも気にかけてくれていて、『契も一緒に入ろっ』と演劇部に誘ってくれたのも彼女である。彼女曰く『色んな人を演じたら、色んなことに出遭えるでしょ? そしたら契も何かに興味を持てるかも』と。
残念ながらそれは今のところ成果に現れてはいないが、契が雪菜に感謝していることに何ら間違いはない。
「ああうん、もちろん構わないけど」
待ち切れないと言外に語る姿に苦笑しながら頷くと、彼女は嬉しそうに口を開いた。
「実は部長から『次の公演どうしよーか?』って相談受けててさ、最近やってなかったし純愛モノをプッシュしてみたのね? そしたらやっぱり、ヒロインは誰なのってなるわけなのです。大事だからねヒロイン。恋愛メインならある意味ストーリーより重要だもん。そしてっ! そんなヒロインを演じられるのはただ一人っ!」
演技がかった言い回しに加えてジェスチャーまでしながら楽しそうに、そしてどこかいたずらっぽく微笑む雪菜。
実のところ、彼女は主役級の役を割り当てられたことがない。台本を覚えるための記憶力が足りない、とかそんなベタベタな理由ではなく、どうも素直が過ぎて本心以外の感情を表現できないらしい。
演技をするのは楽しい、だからどんな役でも彼女が演じると幸せ溢れる別人になってしまう。
そんな彼女がここまで嬉しげに報告してきたということは。
「じゃあ……もしかしてゆき」
「契しかいなーい!」
ドッキリを成功させた子供のように無邪気に笑う雪菜の瞳は、真っ直ぐ契を捉えていた。
「ぇ」
「満場一致だったんだから! 異議なんてないない! 他の部員にはまだ言ってないけどこれはもう決定事項みたいなものだよね~」
見当違いにも程がある。男が女の役を演じるというのはまあない話ではないが、契は中性的な顔立ちというわけでもないし、演劇部が女子部員不足に喘いでいるという事実もない。むしろ文科系クラブの常として男子の方が少ないくらいだ。
雪菜の屈託ない笑顔の裏に部長のニヤニヤした底意地の悪い表情が透けて見えた気がして、ひっそりと溜息を吐く。いや、これは決して気のせいなんかではないだろう。
「……二人で決めただけなら満場一致って言うより単なる悪ノリでしょそれ……」
「そうかな? でも部長がもうシナリオ書き始めちゃったって」
「うわあ」
インドア方面に関しては無駄に才能を余らせている部長のことだ、放っておくとものの一週間で推敲済みの脚本を用意してくる可能性すらある。そうなってしまえば契がいくら反論しても引き下がってくれはしないだろう。
「ちょっと行ってくる……」
止めなければ。手遅れになる前に。
不思議そうに首を傾げる彼女に一言断ってから契は席を立った。まだHRが始まるまでには少し時間がある。出来るだけ早く部長に釘を刺しておきたい――と、ごちゃごちゃ考え事をしながら歩いていたのが間違いだった。
「っ」
衝突。
教室後方からドアを抜けてすぐの廊下で通りかかった人とぶつかってしまった。お互いに軽くよろける程度の衝撃だったが、どういうわけか近くにいた他のクラスの生徒がざわつきながら距離を置くのが分かる。
さらには〝活動能力の低下を防ぐため〟なんていうもっともらしい理由をつけながら、その実留守番の寂しさを嫌って憑いて来ていたクロマが第一深層から悲鳴に近い声を上げた。
『ち、ちょっと何やってるの早く逃げなさいよ殺されちゃうじゃない!』
そこで初めて、契は自分がぶつかった相手を正面から見つめた。
少し俯き気味の顔。長い前髪に隠された目許は暗く、鋭く睨む視線は見るものを全て抉るよう。鍛え抜かれた体躯はそれ自体が純粋な凶器と言えるほどだ。いつどこで負ったのか、頬に走る一文字の傷跡が生々しい。一応皆と同じ制服を着用してはいるが、それはもう改造というのもおこがましいほどバイオレンスに手が加えられていた。
この高校で最も恐れられている不良――久我弘臣、その人だ。
その視線を真っ向から覗き込んだだけでクロマは竦んでしまい、あわあわと錯乱しながら手だけで何度も何度も契の制服の裾を引っ張っている。ちなみに平行異界からは直接触れられないので何の意味もない行動だ。
そして野次馬が遠巻きに息を潜めて見守る中、久我は契に近づくと……ぼそっとぶっきらぼうに呟いた。
「悪ぃな……怪我はねぇか」
相変わらず目付きは異常に、それこそ昨日の契を彷彿させるほどに悪かったが、その語調は本気で心配してくれているようであり。
実際、契の親友であるところの久我弘臣は、行き過ぎて少々お節介なくらい面倒見が良いのだった。
「うん、大丈夫。というかこっちこそごめん、不注意だった。……それにしてもすごいクマだね。また寝不足?」
「あぁ……不足と言うか、一切寝てねぇ。あいつら何時にも増して騒がしくてよ……」
久我は目付きの悪さの原因になっている濃いクマを軽く押さえながら、眠気を覚ますように何度か首を振った。彼の平均睡眠時間は二時間を割っているらしい。身体に影響が出るのも当然の話だ。
何となれば、久我は五人兄弟の長男なのである。それもかなり歳が離れていて、付きっ切りで世話を焼いてやらないといけないそうだ。気苦労は毎日深夜にまで及び、また久我自身が生真面目な性格であるために授業中に居眠りなども出来ない。その結果が今の指名手配犯のような人相だった。
ちなみに昭和の番長も真っ青になるくらいスタイリッシュに改変されている制服は裁縫好きの妹(小5)に勝手にやられたもの、頬の傷は飼っている猫と戯れた際に出来たもの。理由を知っていればむしろ微笑ましい類のものだった。
「……大変だね」
「まぁな……」
そういった事情はそれなりに広まっているため、少なくとも同じクラスのメンバーはもはや久我のことを不良生徒などとは思っていなかった。しかし流石に他所まで浸透してはいないようだ。仕方ないか。
そんな彼がふと思い出したように右腕につけた時計に目をやる。シンプルな文字盤の上の針が刺している時刻は8時25分。そこでちょうどHRの予鈴が鳴った。
「そろそろ入るか……そういやお前、何か用があったんじゃねぇのか?」
ドスの効いた、言い換えれば疲労で低くなった声にハッと我に返る契。
「……そうだった。ごめん久我、僕ちょっと」
「契ー? 何か急いでるみたいだけど脚本ならもうすぐ出来るみたいだよ? 楽しみなのは分かるけど大人しく待ってよーよー」
「……」
今さらのように教室から出てきて抗うことの出来ない最後通牒を突きつける雪菜にうな垂れながら、契は力なく自分の席に戻った。久我も特に疑問を挟むことなくその右隣に腰を下ろす。
まあ、何はともあれ。
――野々村雪菜、久我弘臣、小柴紗希。それに必要なら部長も入れて良い。
それが契の日常を構成しているほとんど全部だった。
②
『じぃーーー……』
1時間目、科目は生物。契の通っている高校では2年生から文理で授業選択があり、理科に関しては化学が必須、物理と生物が選択となっていた。例によって自分では決めようがなかったので、雪菜や久我に合わせてこちらに来ている。誤差程度ではあるものの、一応多数派の選択でもあった。
契と同じように消極的な理由で集まっている生徒が多いこの授業は、非常に単調だ。応用ともなれば別なのかも知れないが、少なくとも現段階では黒板の内容をノートに写すだけの完全な作業、いわゆる暗記モノである。教室の空気も何となく弛緩していた。厳しい先生でないためざわざわと私語が絶えない。
「……どうしたの?」
そんな中で、クロマが言葉通りじーっと契に視線を送っていた。机のすぐ前にしゃがみこんで顔だけちょこんと出している。何やら物言いたげな様子だ。契はさり気ない風を装って周りを確認してから、声を潜めてそう訊ねた。
対するクロマは少々力なく悄然とした調子で口を尖らせる。
『別にー。見てるだけじゃない』
「見てるだけなのに〝じー〟なんて効果音が口から出るのはおかしい」
『出るの! 悪魔だから!』
一瞬ムキになって怒鳴るも、またすぐに萎れて俯いてしまうクロマ。ただ退屈なだけというわけではなく、明らかに何か気にしているようだった。時折ちらっと上目遣いに契を窺う赤い瞳が逡巡に揺れ動いている。口に出して良いものか迷っている、のだろうか。
「どうしたの」
顔を近づけて、目と目を合わせて、先程より少しだけはっきりと。そのまましばらくの間固まっていると、やがて机の影に隠れた彼女は溜め息と一緒に小さく零した。諦めたように。
『わかんない……何か、不安になっただけ』
――ふと思った。
クロマは一人でこちらの世界にやってきたんだろうか?
悪魔は少数精鋭、と言うくらいだから、少ないながら同志はいる。しかしそれは常に行動を共にするような仲間ではない。連絡を密に取り合うような間柄でもない。契をあそこまで必死にスカウトしようとしていたのだから、クロマはおそらく単独で動いている。
異世界に一人で放り出される……それは想像を絶するほどに心細いはずだ。なにせここには彼女の居場所などない。味方はいない。敵ならいくらだっているのに。
しかし彼女はそんな弱音を吐くわけにはいかなかった。寂しいという感情を誤魔化し、気丈に振舞うしかなかった。
そうやって隠していた孤独を、契の〝日常〟に触れたことで知らずの内に思い出してしまったのだろう。
「……」
不安に襲われるクロマを心から安心させてあげられるような言葉を契は持っていない。そんな優しい魔法は使えない。……いや、口にするだけなら可能だ。演技は得意だから、クロマを騙し切ることなどおそらく造作もない。
しかし、どうしてか契はクロマを欺くことに忌避を抱いていた。そんなことは、したくない。
『――え?』
だから、何も言わずにクロマの頭を撫でた。こことは違う平行異界にいる彼女に直接触れられないことは分かっていたが、それでも構わず座標を、輪郭を合わせた。クシャクシャと気持ち乱暴に。そういう風に見えるように。
それはひどく不器用な意思表示だったが――感じられないはずの手の感触に、クロマは困惑するのも忘れ、気持ち良さそうに笑んでみせた。
③
「それでねそれでねっ、そのマジシャンが乗ってた車がいきなりドォオオンって爆発したの! もう木っ端微塵ってやつね。それで私びっくりして救急車呼ばなきゃーと思ったんだけど、っていうかすでにケータイ出して11まで打ってたんだけど、みんなが指差してるから振り向いてみたらいつの間にか車ごと後ろのステージに移動しててぱんぱかぱーんて怪我もしてなくて車も壊れてなくてもう全然意味分かんなかった!」
「意味分かんなかった割に元気だね……確かにあの手の大掛かりな脱出系マジックは派手だし、見てて楽しいのは分かるけど」
「え!? もしかして契も出来るの? 見たい見たい」
「期待してくれてるとこ悪いけど、出来ない。というか今の返しをどう取ったらそうなるの」
「……お前ら、食事中くらいはもう少し静かにしろよ……全部食ってから喋りゃいいじゃねぇか」
――昼休みに入り、契はいつもの面子で机をくっ付けあって食事を取っていた。
給食が出る高校というのもあるのかも知れないが、少なくともこの学校では弁当持参もしくは購買、食堂を利用するのが基本だ。みんな思い思いに場所を移って仲の良い人と一緒にテーブルを囲んでいる。
クラス内、特に女子の勢力分布が見え隠れしていたりしてなかなか面白い光景だ。
久我の言葉に大きく頷いて、可愛らしい弁当箱からふりかけのたっぷりかかった白米を口いっぱいに詰め込む雪菜。契もそれに倣っておかずを消費していく。卵焼きやからあげなど定番のものばかり詰め込まれているが、その味付けは目を見張るほどのものだった。その辺のレストラン程度には引けを取らないだろう。
「うま……」
「……世辞はいらねぇからさっさと食え」
その呟きに反応したのは久我だ。彼の手には契のものと全く同じ弁当箱が握られている。
そう――契の弁当を用意してくれているのは久我なのだ。
入学して早々の頃、契は学食ユーザーだったのだが、それには弁当持参の雪菜が『一緒に食べられないじゃん!』とずっと文句を言っていた。そして〝いつもぼーっとしている契のことを放っておけない〟という思想に共鳴して仲良くなった久我に相談したらしい。
『いつも学食とか栄養バランス的に考えて有り得ねぇ……正気かお前。明日から俺が作ってきてやる。あ? 良ぃんだよ、現状でも三つ作ってるんだから四つに増えたところで大した手間でもねぇ』とは、その日中に久我がつき付けた台詞である。ちなみに初めて交わした会話だった。
膨大な借りが出来てしまっていること――あと久我と契に何やら怪しげな視線を向ける女子が決して少なくない数存在していること――以外は純粋にありがたいので、いつか何かで返さなければと思いつつも、厚意を拒否することは出来ずに契はそれを甘受し続けていた。
「あ、そう言えば」
今日の内に訊いておきたいことがあったのを思い出して、空になった弁当箱を片付けながら口を開く。隣で腕を組む久我、そして満腹の多幸感に浸ってびたーんと机に突っ伏している対面の雪菜の興味がしっかり向いたところで、
「急なんだけど。二人は悪魔の噂ってどう思ってる?」
一瞬の沈黙。視線を交錯させる二人。
「悪魔って……なんかみんなの願いを叶えてくれるーみたいな人だっけ? メルヘンチックが止まらない感じかな?」
「……いや。それは流石にもう人間じゃねぇだろ。そういうオカルトの類じゃなかったか」
案の定、というか、その反応は鈍かった。自分の感覚がズレている可能性を疑って他の人の〝悪魔観〟を探ってみたのだが、どうやらそう大差ないようだ。一応クロマにアイサインを送ると、何やら神妙な頷きが帰ってくる――『続けて?』ということらしい。いや、クロマは喋っても大丈夫なのだが。
いつの間にか雪菜はノートを取り出し、楽しげに何か描いていた。やがて出来上がったメルヘンチックに装飾過多な、一昔前の魔法少女(変身後)のような生き物は、おそらくデフォルメされた悪魔のつもりなんだろう。何故かやたらと可愛い生き物だった。
ペンを頬に当て、彼女は小首を傾げる。
「でもでも、ただの噂にしては結構リアルだよね。なんだっけ、政府の天使軍だっけ? 悪魔をやっつけるチームみたいなのもあるって……あれ? じゃあ悪魔って悪者? あんまりメルヘンじゃない? 本当は怖い何たらってやつかな?」
「まぁ、悪の魔ってくらいなんだからそうなんじゃねぇか字面的に。それに確か、ただで望みを叶えてくれるような都合良いモンでもなかっただろ」
「そっかー……残念」
むーと口を尖らせながら似非魔法少女の頭の横にシグマ――驚愕、みたいな表情の演出だと思う――を付け加える雪菜。すぐ後ろから覗き込んでいるクロマがすごく微妙な表情を浮かべていたがこの状況でフォローは出来ない。
でも、と唐突に雪菜が顔を跳ね上げた。反射的に避けようとしたクロマがすっ転んだものの以下同文。彼女は動きがオーバーだからなかなか距離感の把握が難しいのは分かる。
「もしかして契、その噂に興味あるんだ?」
「え? まあ、うん。多少?」
質問の意図が分からず歯切れの悪い返事を返す契に、雪菜は先程までの拗ねた様子が嘘だったかのように笑顔を浮かべる。花が咲いたような、と評するに相応しい満面の明るい笑顔。
「契が自分から何かに関わろうとしてるの初めて見たから……ちょっと嬉しい、かも」
「それは――」
違うとも、そうかも知れないとも言えなかった。
いや、雪菜から見れば全くもってその通りなのだから、返事として正しいのは後者だろう。しかしそういった建前の問題ではなく、本音の部分で契はその答えを出すことができずにいた。
今回のことだって冷静に言ってしまえばクロマに巻き込まれただけであって、自分の意思ではない――そのはずなのに、どこかでそれを認められない。味わったことのない不思議な感覚。
迷った挙句に苦笑めいたぎこちない表情を浮かべると、何故か嘆息を零した久我が静かに口を開いた。
「……聞いた話だが、1つ上の学年に〝天使軍の一員でもあるエリート〟を自称してる胡散臭ぇ奴がいるらしい。それ自体は十中八九妄言だろうがわざわざそう名乗るってことは少しはその手のことに詳しいんじゃねぇか」
「あ、それ私も知ってる知ってる! 変な……じゃなくておかしな? 不思議な? 奇特な? 珍妙な? むむ……個性的な! 個性的な先輩だよね!」
雪菜がポジティブな形容を見つけるのにこれだけかかるとは相当変わった人物らしい。ともかくそういうことなら要チェックではある。虚言か否かは平行異界を覗き込んでみればすぐに分かるだろう、ある程度なら深いところに居ても思念感知で探れる。
……別に悪魔の噂について詳細を知りたいわけではなく。
もちろん、次の標的というわけだ。