三話
「お松! お松! ほら、来てみい!」
「……はい」
お松は仕方なく、暖簾のうしろから佐吉と若旦那のいる往来へと進み出た。
「お、お松! な……なしてここさに……いるだ!」
「佐吉っさ……」
「こんなところじゃなんだな。おれの部屋にいこう」
お松と佐吉は『近江屋』の裏手にまわり、誰にも気がつかれないように若旦那の部屋へと移動させられた。
「単刀直入に聞く。大見屋の婿殿はお松とこの先、どうこうする気はあるのか? ないのか?」
「……はい。あの……なにがのんだか……。お松、おめぇー、なじょして……こさ?」
「おい! おれはおめぇに聞いてんだ! 江戸っ子は気がみじけえんだ! はっきりこたえろ!」
「はい! おらは所帯ば持っているんで、お松の面倒はみきやれません」
「だとよ! お松、どうする?」
「はい……何んぼすらど言われましても……わたしは佐吉っさばずっど待ってたはんで……。佐吉っさ、わたしも偶然、こちきや奉公さきたんじゃ」
「お松、あきらめてぐれ。『大見屋』さんの大旦那さまとお嬢さまに気にさ入られて、そのまんま……。おらの意思だばねんだ。断りきれのぐて……」
「したら、かっちゃたちにはのんて言ったらいいんだが?」
「おらのとっちゃから話しておいでぐれさ言ってあら」
「……んだったんだ……わたしだげが知きやながったんだ……」
なにも知らずに、佐吉をずっと待っていた自分のふがいなさに、お松は泣けてきた。
江戸に行けば佐吉に会えるとばかみたいに浮かれていた自分が、いまさらながらにみじめである。
佐吉はとっくの昔に田舎娘など見限り、金持ちの町娘と所帯をもっていたのだ。
「お松……そう、泣くな。こんな不義理な男など、どうでもいいではないか……。あとはカネだな。佐吉、いくらだったら用立てできる?」
「は? へい、あの……カネといいますと?」
「おい、おまえ! 寺の鐘のはなしをしてるんじゃないんだよ! カネだ、金! お松の実家に払う迷惑料だ!」
「は、はい! ……あの、払わないとだめですか……?」
「あたりまえだろう! 人、ひとりの人生がかかってんだ! おまえのことをこのお松はずっと十七年間、待っていたんだ! その想いを踏みにじって逃げようなんて、おてんとうさんが許しても、この梅太郎がゆるさねえ!」
「わかりました……おねがいします。すぐに金は用意しますから『大見屋』さんにはぜったいに言わないでください。わたしも必死でここまできたんです! 失いたくないんです!」
「まったく……そんなで女遊びしてるのかい? 根っからのスキモノかね? まったく……まあ、いいや。『大見屋』にはだまっておこう。今後、このことでゆすったり、商売に使ったりはぜっていしねえ。そのかわり、おまえさんも男なら、いさぎよくお松の実家に大金をはらいな! 約束をたがえたりしたら、ゆるさねえからな!」
「はい。わかりました。必ず、お松の両親に金を送ります。使いをやってたしかめてもらってけっこうですから。必ず実行します!」
「わかればいいんだ。お松、最後になにかいってやれ!」
「佐吉っさ、からださ気ばつけて。元気でいてけろ」
「おい! お松! そんなことじゃなくて! なんかあんだろ!」
「若さま。わたしは佐吉さんばずっど待ってじょいした。もう待たねでぐれどいうだば、そうするまでじゃ」
「そうか……まあ、いい。お松がいいなら。それじゃあ佐吉、すぐに手配しろよ。行け」
「はい。若旦那さま、失礼しやす……」
佐吉は逃げるように帰って行った。
「カネばあ! 表に塩を撒いておけ! なに? 塩が高くてもったいない? なんだってんだヨ!」
「……若さま……ありがとうございました」
「……ああ、いいんだ。おれも余計なことをしちまったかもな……あれでよかったのか? もっと話したきゃあ、おれが場をとりもってやるぞ」
「いいんじゃ。こい以上は話しても無駄じゃかきや。どごで、梅太郎さまいうのはどこの神さまのお名前だが?」
「……それはおれの名だ。天神さまの飛び梅からとったそうだ。田舎くさくてきらいな名じゃから、人には呼ばせん」
「んだでしたか……すじょいせんでした」
「だが、お松になら呼ばれてもいいぞ。そうだ! ふたりだけのときは梅さんと呼べ。いいな」
「……はい。……梅さん」
「おお。おめえが呼ぶとなかなかいいな! 梅と松で竹がいないな。こどもが生まれたら竹蔵という名にしよう」
「梅さんは所帯ばもつ予定があらんだが?」
「……もちたいとおとついから考えはじめた」
「んだんじか。梅さんだばオドゴ前で気性もやさしいはんでしい良いお嫁さんがもらえるでっしょ」
「……おまえがきてもいいぞ」
「ご冗談ば。からかわねでけろ」
「冗談じゃないんだが……」
ぱたぱたぱたぱた――。
「若さま! 朝食の用意ができました。お松がどちらにいるか知りませんか?」
「ここにおる。そうじゃ! すまんがお岩、おれとお松の朝めしをこの部屋に運んでくれ。事情があって、今日はお松とここで食うから」
「はい。わかりました」
「あっ、お岩さん! わたしの分は自分で運びますかきや!」
「ええよ、ええよ。おギンさんと運ぶから。お松ちゃんは若さまの相手をしていてな」
「ありがとうございます」
「お松、この手ぬぐいで涙を拭いて、庭でも見てごらんよ。牡丹の花がきれいだろう」
「ほんどけなすきゃ。わたしの村はこしたら華やかの花は咲いてじょいせんでした」
「そうか。お前の村にもいってみたいなあ。おれは江戸から出たことがないんだ。山のくらしはどんなだ?」
「雪が深ぐて大変じゃが、雪解け水がっこが飲めるぐらいのころの景色はそりゃあきれいじゃ」
「そうか……ますますいってみたくなったな。そうじゃ! お盆休みはおれと一緒に里帰りしようじゃないか」
「そしたらわげには……」
「よし! 約束じゃ! 一緒に里帰りしような」
「若さま……」
お松はたちまち楽しい気分になった。
まさか若さまをあんな山奥の村に連れていけるわけがないが、そんなことがあったらとっちゃもかっちゃもぶったまげるだろうなと、想像するだけでおかしくなるのだった。
そのあとお松は、お岩たちが運んでくれた朝めしを若旦那とふたりで食べた。
『近江屋』は主人も下働きも同じ物を食べるそうで、若旦那のお膳もお松のものと同じ内容だった。
お松がたくあん漬けが好きだと知ると、若旦那の分もぜんぶ、お松にくれた。
お松もお礼に、若旦那が好きなごぼうの煮物を分けてあげた。
食べさせてくれというので、お松の箸で食べさせた。
いままでで一番おいしい煮物だとよろこんでいた。
お松は不思議に思い食べてみたが、昨日の味付けとなんら変わらなかった。
むしろ、お松の故郷の塩のきつさにくらべ、江戸のは少し薄味だなと再確認した。
とたんにかっちゃの味が恋しくなり、その日の夜はカネばあに、少し料理の味付けを濃くしてくれと頼んだ。
「まあ、この娘はあきれるよ! そんなことをいってきたのはあんたが初めてだ。今晩だけだよ? あんたのおっかさんは塩をどれぐらい入れる? 最近、値上がりしたから使いづらくて……若さまにはナイショだよ?」
ブツブツいいながら、蕗と竹の子の煮付けをしょっぱくしてくれた。
番頭さんあたりから文句がでていたが、その他の人たちからはおおむね好評だった。
おどろいたことに、若旦那の父親である旦那さまがことによろこんだ。
お松を店の奥に呼んで、寂しくないかと心配してくれた。
「お松も北の生まれか……わたしもそうなんだ。江戸に丁稚奉公にきて、そのまま所帯を持った。この店は奉公先の主人からゆずられたものだ。こどもがいなかったからかわいがってもらったんだ。最近は年で、塩っ辛い物は医者から止められておる。たまにはいいもんだの。カネばあに怒やれてすまうがな」
「はい」
お松にとって佐吉とのことはとても辛いできごとだったので、夜、ふとんの中で思い出すたびに泣いていた。
だが、『近江屋』の人々がとてもやさしく接してくれたので、江戸の暮らしに不自由はなく、あっという間に二ヶ月と半年が経っていた。
いつしか佐吉のことも忘れ、たのしく毎日を過ごしていた。
特に若旦那がお松に目をかけてくれて、しょっちゅう、食べ物屋や天神さまに連れて行ってくれた。
ねこのみーちゃんに、若旦那の分のご飯もいっしょにあげてくれた。
おギンたちの話によると、若旦那はこどものころからからだが弱く、家にじっとしているような若者だった。
最近よい薬ができて元気になり、積極的に商売に関与するようになったそうだ。
「若さまがこどもが欲しいって言ってたのかい? めずらしいねえ。お嬢さまのことがあってから、結婚はしないって豪語してたのに……」
「おギンねえさん。お嬢さまって若さまのお姉さまですか?」
「ああ、そうさ。さくらお嬢様はそりゃあべっぴんさんでね。上品なお方だったよ。あたしたちにもやさしくしてくれてね。みんな、大好きだった」
「大きな商家へ嫁いんだでございましょう?」
「ああ。だが、そこの息子がぼんくらでね。女遊びはするわ。賭け事はするわで、家をつぶしちまったんだよ。女郎と逃げちまってさ……さくらお嬢様はそれでも旦那をずっと待っていたんだが……からだを壊しちまってね。『近江屋』へ帰ってきたときにはもう手遅れだった。それいらい若さまは、おれは結婚なんぞしないと言っておられるんだわ。『近江屋』さんは、奥様も早くに流行り病で亡くなっているからね……」
「若さまも年ごろでお寂しいんでしょうかねえ?」
「そうだろうよ。あたしも亭主を亡くしてだいぶ経つから、そろそろ再婚したいよ」
「そんなもんですかねえ……」
お松はおどろいた。
あの小紋の持ち主にそんな悲劇があったとは――。
「お松、あんたも所帯がもちたきゃ、番頭さんにたのんでいい人を紹介してもらってあげるよ。江戸にはいい男がいっぱい、いるからねえ」
「わたしは……今はいいじゃ」
「そういわずにさ! 気がむいたらいつでもいいよ」
「はい……ありがとうございます」
「おギンさん! あたしは?」
「あんたは、自分でみつけられるだろう? 前の店のことはきいてるよ」
「へへ……まあ、それはそれで……あっ! 番頭さんにお使いたのまれてたんだ! いってきます!」
「まったく……あの子は……まあ、お松、男には気いつけなよ」
「……はい」
だが、それからしばらくして、お岩が男と失踪してしまった。
なんと相手は、向かいの店の婿旦那、お松のもと許婚の佐吉だった――。