二話
お松は皆と一緒に早起きして、食事の前にひと働きした。
「お松、店の前に水を撒いておくれ。往来の人にかけるんじゃないよ!」
「はい」
お松は井戸から手桶に水を汲み、店先で水を撒いた。
いい天気だ。
江戸は朝からにぎやかで、大勢の人がいそぎ足でどこかに向かっている。
朝日に照らされたその光景がとても珍しく、夢の世界にでも迷いこんでしまったような気分になり、お松はその様子をぼうっとしながら眺めていた。
「お前さん! 帳簿を忘れているよ! これがないと取り立てが出来ないじゃないか!」
「おお、すまねえ、すまねえ。これがないと証拠を突きつけらんねえな。ありがとよ」
「寄り道せずに、気をつけていってらっしゃいよ。むこう横丁の旦那はクチが上手いから、誤魔化されないようにしておくれね」
「あいよ! いってくらあ」
お松はとっさに、暖簾の陰に隠れた。
お前さんと呼ばれた男こそ、お松のいいなずけの佐吉だった――。
「おや、お松? もう、水は打ち終わったのかい? なら、奥で朝めしを食べておいで」
「は……はい。佐吉っさ……」
「おや、おや。わたしはたしかに佐吉だが、番頭さんでいいんだよ。どうした? なんだか元気がないようだが。どこか痛いのかい?」
「ちがでゃ。だば、朝めしは要んね。やすませてけろ」
「大丈夫かい? カネばあに言っておくからお松は奥でお休み。呼びにいくまで寝ていなさい」
「はい」
お松は手桶を片付けると、自分の部屋に戻った。
たたんだふとんのそばに座りこむと、自然に涙が流れてきた。
佐吉は奉公に行っているはず。
なぜ、真向かいの店で所帯を持っているのだろう――。
しばらくすると、廊下を急ぎ足で来る者がいた。
「お松! どうした? どこか加減が悪いのか?」
「若さま……んねっ、わんつか食欲がねだげじゃ。気さしねでけろ」
「……入らしてもらうぞ」
障子を開けて若旦那が部屋に入ってきた。
「……どうした! お松! だれかにいじめられたか?」
「……んねっ。んねっ。なしてもありません」
「なにもなくはないだろう……朝めしを持ってきた。食事だけはきちんと、とらないとだめだ……なにかあったんだろ? お岩を寄越すから話を聞いてもらえ」
「……はい……ありがとうございます。いただきますだ」
「ちゃんと食えよ」
それだけ言うと、若旦那は部屋から出ていった。
お松は食欲がないので、ねこのみーちゃんに自分の朝めしを分けてやった。
しばらくすると、お岩がやってきた。
「お松ちゃん……食欲ないの? 大丈夫?」
「ごちそうさまでしただ。心配かけてもべこわげありませんでした。すぐさ仕事さどりかかりますかきや」
「いいって、いいって! カネばあが話を聞いてやれってさ。なにかあったんでしょ? 若さまのこと?」
「ぜんぜんちがでゃ! お岩さん……実は……」
お松は同い年のお岩に、佐吉とのことを話した。
「……じゃあ、前の店の若旦那がお松ちゃんの幼馴染でいいなずけの男なのね?」
「んだ……まちがいねえ」
「こんな偶然……この話、カネばあたちにしても平気?」
「……仕事やすんじまったから、正直さ全部はねしますだ。かまじょいせん」
「お松ちゃん、かわいそう……今日は休みなよ」
「んねっ。話ししたやすっきりしたはんで、すぐさ行って働きます」
「じゃあ……行こうか! からだを動かした方が気が紛れるかもね」
「んだ。今日もよろしぐたのむっきゃ」
お松は台所へ行き、カネばあたちの手伝いをした。
お岩からはなしがいっていたようだが、誰も何もお松に聞かなかった。
その心づかいにお松は感謝した。
夜になって皆が寝静まった頃、お松は台所のかめから水を飲んでいた。
雲ひとつない月夜で、風も生暖かい。
「お松、水を飲みにきたのかい?」
「若さま……はい」
「おれにも汲んでおくれよ」
「はい」
若旦那はお松の汲んだ水を飲むと、月を眺めながらお松に質問をした。
「お松、向かいの店の若旦那は本当におまえのいいなずけなのかい?」
「……はい。佐吉さんでまちがいないだ」
「おまえ、これからどうするんだ? 佐吉に直談判するのかい?」
「そしたらごどはできません。佐吉っさんも事情があらど思でゃし……」
「おまえは……そんなことだから佐吉にいいようにされたんじゃないか!」
「ばっても……佐吉さんはたげ働きもはんで人気があっだかきや……」
「そんなことは関係ないだろ! ……とにかく、お松は佐吉とはいいなずけではなくなったのだな?」
「それば……かあちゃんや佐吉っさの両親さきいてみねどわがんねはんで……」
「おれが明日、佐吉に直接きこうか?」
「やめでけろ! おらがそのうちききますかきや……」
「……そうなのか? できるのか? ……まあ、いい。もう寝ろ。明日は遅くまで寝ていてもいいぞ。おれが許す」
「ありがとうございます。だば、いづまでも皆さんさ甘えてはいきやれません。きちんど働かせてけろ」
「まあ、がんばりすぎんようにな。男は他にもいっぱいるぞ。気にしすぎるなよ。おれも寝るとするか。おやすみ」
「おやすみまれませ。今日はありがとうございました」
お松は若旦那が廊下の角を曲がるまで、あたまを下げ続けた。
中庭の池で鯉がパシャンと跳ね、水面に映る月がゆらゆらと歪んで見えた。
翌日も朝から快晴だった。
空の青さと対照的に、お松の心はもやもやと晴れなかった。
店先で水を撒こうと手桶を運んでいたら、いきなりうしろから来てそれを持ち上げる人間がいた。
若旦那さまだった。
「若さま! それはおらが……」
「おまえはいつまでも『おら』ではかっこつかんな。わたしといってみろ」
「わた……し……お岩さんたじはあたしどいってでゃが……」
「あいつらみたいな下町言葉もいいが、おまえはおれ付きの侍女だからな。すまん。そういっておきながら下働きばかりさせている。朝めしを食ったらおれの部屋へ来て掃除をしろ」
「はい。だば、その手桶はわ……たしが運ぶがら……」
「よい、よい。おれにまかせておけ!」
若旦那は手桶を持ったまま、大股でスタスタと歩いていってしまった。
お松との身長差がかなりあるので、走ってもなかなか追いつけなかった。
店の前まで行くと、若旦那はもう、ひしゃくで通りに水を撒いていた。
お松は声をかけようとしてためらってしまった。
向かいの店から、ちょうど佐吉が出てきたからだ。
ピシャッ!
「おい! のんてごどばすらんだ! 着物が濡れちまっただろ!」
「おや……これは、これは。申し訳ない。『大見屋』の婿さんじゃないですか? そんな派手な裏地の羽織りを着て、朝早くからどこに出かけなさる?」
「『近江屋』さんの若旦那さんですかい……。なんでまた、水撒きなんか……」
「水なんて誰だって撒けるからな。おれが撒いたってかまわんだろ。それより、あんたいつ婿にきなすった?」
「はあ……3ヶ月前に。そちらにもあいさつにいきやしたが、おぼえておりませんか?」
「ああ! そうだったな。丁稚奉公でそのまま婿に入ったんだったな。『大見屋』のお嬢に気に入られてな」
「はい。大旦那さんにたいへんかわいがってもらいまして、そのまま……」
「あんた、何年、勤めなさった?」
「はい。だいたい、三年と半年ぐらいでしょうか……」
「そうか……それではおめぇ、他に約束した女はいなかったのかい?」
「……そんな女がいたら、こちらのお嬢様と結婚なんてしませんよ」
「へー、そうなのかい? あんた、吉原じゃ、ちょっとした有名人らしいじゃねぇか。そのなまりだと、東北かい? クニにいいなずけとかはいなかったのかい?」
「若旦那はほんとうに人がわるいな……。男はみんな吉原に行くじゃないですか。付き合いですよ。それに……い、いいなずけ……なんて、いません。ひどい寒村なんで、おなごがいないんです」
「そうかい……だってよ! お松!」
お松は暖簾のうしろで飛び上がってしまった。
いまさら、佐吉っさに会いたくない――。