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待ち人来たらず  作者: M38
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二話

 お松は皆と一緒に早起きして、食事の前にひと働きした。


「お松、店の前に水を撒いておくれ。往来の人にかけるんじゃないよ!」

「はい」


 お松は井戸から手桶に水を汲み、店先で水を撒いた。


 いい天気だ。

 江戸は朝からにぎやかで、大勢の人がいそぎ足でどこかに向かっている。

 朝日に照らされたその光景がとても珍しく、夢の世界にでも迷いこんでしまったような気分になり、お松はその様子をぼうっとしながら眺めていた。


「お前さん! 帳簿を忘れているよ! これがないと取り立てが出来ないじゃないか!」

「おお、すまねえ、すまねえ。これがないと証拠を突きつけらんねえな。ありがとよ」

「寄り道せずに、気をつけていってらっしゃいよ。むこう横丁の旦那はクチが上手いから、誤魔化されないようにしておくれね」

「あいよ! いってくらあ」


 お松はとっさに、暖簾の陰に隠れた。


 お前さんと呼ばれた男こそ、お松のいいなずけの佐吉だった――。


「おや、お松? もう、水は打ち終わったのかい? なら、奥で朝めしを食べておいで」

「は……はい。佐吉っさ……」

「おや、おや。わたしはたしかに佐吉だが、番頭さんでいいんだよ。どうした? なんだか元気がないようだが。どこか痛いのかい?」

「ちがでゃ。だば、朝めしは要んね。やすませてけろ」

「大丈夫かい? カネばあに言っておくからお松は奥でお休み。呼びにいくまで寝ていなさい」

「はい」


 お松は手桶を片付けると、自分の部屋に戻った。

 たたんだふとんのそばに座りこむと、自然に涙が流れてきた。


 佐吉は奉公に行っているはず。

 なぜ、真向かいの店で所帯を持っているのだろう――。



 しばらくすると、廊下を急ぎ足で来る者がいた。


「お松! どうした? どこか加減が悪いのか?」

「若さま……んねっ、わんつか食欲がねだげじゃ。気さしねでけろ」

「……入らしてもらうぞ」


 障子を開けて若旦那が部屋に入ってきた。


「……どうした! お松! だれかにいじめられたか?」

「……んねっ。んねっ。なしてもありません」

「なにもなくはないだろう……朝めしを持ってきた。食事だけはきちんと、とらないとだめだ……なにかあったんだろ? お岩を寄越すから話を聞いてもらえ」

「……はい……ありがとうございます。いただきますだ」

「ちゃんと食えよ」


 それだけ言うと、若旦那は部屋から出ていった。

 お松は食欲がないので、ねこのみーちゃんに自分の朝めしを分けてやった。

 しばらくすると、お岩がやってきた。


「お松ちゃん……食欲ないの? 大丈夫?」

「ごちそうさまでしただ。心配かけてもべこわげありませんでした。すぐさ仕事さどりかかりますかきや」

「いいって、いいって! カネばあが話を聞いてやれってさ。なにかあったんでしょ? 若さまのこと?」

「ぜんぜんちがでゃ! お岩さん……実は……」


 お松は同い年のお岩に、佐吉とのことを話した。


「……じゃあ、前の店の若旦那がお松ちゃんの幼馴染でいいなずけの男なのね?」

「んだ……まちがいねえ」

「こんな偶然……この話、カネばあたちにしても平気?」

「……仕事やすんじまったから、正直さ全部はねしますだ。かまじょいせん」

「お松ちゃん、かわいそう……今日は休みなよ」

「んねっ。話ししたやすっきりしたはんで、すぐさ行って働きます」

「じゃあ……行こうか! からだを動かした方が気が紛れるかもね」

「んだ。今日もよろしぐたのむっきゃ」


 お松は台所へ行き、カネばあたちの手伝いをした。

 お岩からはなしがいっていたようだが、誰も何もお松に聞かなかった。

 その心づかいにお松は感謝した。


 夜になって皆が寝静まった頃、お松は台所のかめから水を飲んでいた。

 雲ひとつない月夜で、風も生暖かい。


「お松、水を飲みにきたのかい?」

「若さま……はい」

「おれにも汲んでおくれよ」

「はい」


 若旦那はお松の汲んだ水を飲むと、月を眺めながらお松に質問をした。


「お松、向かいの店の若旦那は本当におまえのいいなずけなのかい?」

「……はい。佐吉さんでまちがいないだ」

「おまえ、これからどうするんだ? 佐吉に直談判するのかい?」

「そしたらごどはできません。佐吉っさんも事情があらど思でゃし……」

「おまえは……そんなことだから佐吉にいいようにされたんじゃないか!」

「ばっても……佐吉さんはたげ働きもはんで人気があっだかきや……」

「そんなことは関係ないだろ! ……とにかく、お松は佐吉とはいいなずけではなくなったのだな?」

「それば……かあちゃんや佐吉っさの両親さきいてみねどわがんねはんで……」

「おれが明日、佐吉に直接きこうか?」

「やめでけろ! おらがそのうちききますかきや……」

「……そうなのか? できるのか? ……まあ、いい。もう寝ろ。明日は遅くまで寝ていてもいいぞ。おれが許す」

「ありがとうございます。だば、いづまでも皆さんさ甘えてはいきやれません。きちんど働かせてけろ」

「まあ、がんばりすぎんようにな。男は他にもいっぱいるぞ。気にしすぎるなよ。おれも寝るとするか。おやすみ」

「おやすみまれませ。今日はありがとうございました」



 お松は若旦那が廊下の角を曲がるまで、あたまを下げ続けた。


 中庭の池で鯉がパシャンと跳ね、水面に映る月がゆらゆらと歪んで見えた。


 

 翌日も朝から快晴だった。

 空の青さと対照的に、お松の心はもやもやと晴れなかった。

 店先で水を撒こうと手桶を運んでいたら、いきなりうしろから来てそれを持ち上げる人間がいた。

 若旦那さまだった。


「若さま! それはおらが……」

「おまえはいつまでも『おら』ではかっこつかんな。わたしといってみろ」

「わた……し……お岩さんたじはあたしどいってでゃが……」

「あいつらみたいな下町言葉もいいが、おまえはおれ付きの侍女だからな。すまん。そういっておきながら下働きばかりさせている。朝めしを食ったらおれの部屋へ来て掃除をしろ」

「はい。だば、その手桶はわ……たしが運ぶがら……」

「よい、よい。おれにまかせておけ!」


 若旦那は手桶を持ったまま、大股でスタスタと歩いていってしまった。

 お松との身長差がかなりあるので、走ってもなかなか追いつけなかった。


 店の前まで行くと、若旦那はもう、ひしゃくで通りに水を撒いていた。

 お松は声をかけようとしてためらってしまった。

 向かいの店から、ちょうど佐吉が出てきたからだ。


 ピシャッ!


「おい! のんてごどばすらんだ! 着物が濡れちまっただろ!」

「おや……これは、これは。申し訳ない。『大見屋』の婿さんじゃないですか? そんな派手な裏地の羽織りを着て、朝早くからどこに出かけなさる?」

「『近江屋』さんの若旦那さんですかい……。なんでまた、水撒きなんか……」

「水なんて誰だって撒けるからな。おれが撒いたってかまわんだろ。それより、あんたいつ婿にきなすった?」

「はあ……3ヶ月前に。そちらにもあいさつにいきやしたが、おぼえておりませんか?」

「ああ! そうだったな。丁稚奉公でそのまま婿に入ったんだったな。『大見屋』のお嬢に気に入られてな」

「はい。大旦那さんにたいへんかわいがってもらいまして、そのまま……」

「あんた、何年、勤めなさった?」

「はい。だいたい、三年と半年ぐらいでしょうか……」

「そうか……それではおめぇ、他に約束した女はいなかったのかい?」

「……そんな女がいたら、こちらのお嬢様と結婚なんてしませんよ」

「へー、そうなのかい? あんた、吉原じゃ、ちょっとした有名人らしいじゃねぇか。そのなまりだと、東北かい? クニにいいなずけとかはいなかったのかい?」

「若旦那はほんとうに人がわるいな……。男はみんな吉原に行くじゃないですか。付き合いですよ。それに……い、いいなずけ……なんて、いません。ひどい寒村なんで、おなごがいないんです」

「そうかい……だってよ! お松!」



 お松は暖簾のうしろで飛び上がってしまった。


 いまさら、佐吉っさに会いたくない――。

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