一話
「佐吉っさ、今度のお祭りさ帰ってくるべ?」
「お松……それはちょこっと無理だべさ。年明けになるがもしれん……」
「……そったにいそがしかね? ……わがりますた。そんまでに佐吉さのふとんさ、仕上げておきますきゃ」
「お松……そっだなことはせんでいい。おっかさんにでもあげてくんろ」
「佐吉っさ……」
お松は、親が決めた許婚の佐吉を峠まで見おくりにきていた。
盆休みで奉公先から帰っていたのだ。
佐吉は今年、数えで十七歳になる。
江戸へ奉公に出て、すでに三年が経っていた。
働き者の佐吉は奉公先で大旦那さまに気に入られ、なかなか家に帰してもらえないようだ。
坊主っくりにどんぐりまなこの佐吉は愛想もよく、村でも人気者だ。
そんな佐吉と所帯がもてることを、お松はこどものころから幸せに思っていた。
お松も佐吉と同じ十七歳だ。
そろそろ村に帰ってきて自分と結婚して欲しい。
本人を目の前にするとなかなか女のお松からは言い出せなかった。
ただ黙って、松の木のようにじっと佐吉の帰りを待ち続けていた。
「お松……おらは『大見屋』の大旦那さまからすっげえ期待されてら。奉公はなまやさしいもんじゃね。すぐには帰って来やれね。辛抱してぐれ」
「佐吉っさ……からださ気いつけてけろ。おれ、待ってっがら」
「お松……元気でくらしてけろや。さえなら」
「佐吉っさ、佐吉っさ……」
お松は、佐吉が峠から見えなくなるまで手を振り続けた――。
――それから半年。
年が明けても、佐吉は帰らなかった。
もしや、なにかあったのだろうか?
お松は不安にかられながらも、ずっと佐吉を待ち続けていた。
「お松、いいかげん、佐吉のことはあぎらめろ。たぶん、いい娘ができたずら。あんだけいい男さ、江戸のおなごがほうっておかね」
「でも、佐吉っさは待っててぐれといったべ。おら、待っとるよ」
「したばって、佐吉は家どは連絡ばどりあってらぞ。佐吉のかあちゃんが、せがれは江戸で出世ばしたと村の人さ自慢してたんだ」
「……そうが」
そうこうしているうちに、お松も奉公へ出なくてはならなくなった。
父親が山で作業中に怪我をしたため、食べていけなくなったのだ。
だが、お松は村を出られることを半分たのしみにしていた。
江戸に行けば、佐吉っさに会える――!
そのことだけを考えながら、お松は江戸へと出発した。
長旅をへて、世話人と共に、お松は江戸に到着した。
村の外へ出たのは生まれて初めてのことだった。
佐吉っさもこんな風にびっくらこいたのかと、あらためて自分と佐吉の住んでいる世界のちがいに気がついた。
佐吉は広い世の中を知り、お松のつまらなさに、さぞやがっかりしたことだろう。
街道を行く旅人はみな、きびきびとして、ビン付け油で固めた髷は髪の毛1本も乱れていない。
女たちも一様にきれいで華やかだ。
乱れた髪をして、あちこち擦れた手垢だらけの絣を着ているお松のような者はひとりもいなかった。
お松は佐吉に会うより先に、恥ずかしいきもちでいっぱいになってしまった――。
お松の奉公先は大きな絹問屋だった。
看板に『近江屋』とあった。
お松は佐吉と同じ名前の店に勤められることをとてもうれしく思った。
ニコニコしながら世話人の男と店先で待っていると、中から若い男が顔を出した。
お松よりも二つ三つ上だろうか?
真っ白い顔にほっそりとしたからだと、長い手足をしているかなりの美丈夫だ。
きれいに結い上げた髪に陽の光を受けながら、まぶしそうにこちらを見ると、暖簾を片手で持ち上げたまま話しかけてきた。
「おまえが今日から奉公に来た娘かい? お松といったかな」
「へい。若旦那さま。寒村の娘なんで何の教育もされていませんが、からだだけは丈夫ですからこき使ってやってくださいな」
「なんてことをいいやがる! おまえはとっとと奥で代金を受け取って帰りやがれ。お松、番頭に紹介してやるから入れ」
「へい、すいやせん」
「……へい」
お松は若旦那と呼ばれた男のあとについて店の中へ入った。
座敷の一段高いところに、番頭らしき初老の男が座っている。
若旦那が手招きすると、すっと立ち上がってこちらへやって来た。
「若さま、どうかなされましたか?」
「今日から奉公に来たお松だ。皆に紹介してやれ」
「よろしぐおねがいしますだ」
「これはこれは、若さまじきじきにご案内していただけるとは……申し訳ありませんでした。お松、まずはことばづかいをどうにかせねばならぬな。われわれの話ことばを普段からまねるように心掛けなさい」
「へい。わかりますたあ」
「おやおや……これは先が思いやられるな……」
「まあまあ、佐吉、そういうな。めんこい子じゃないか。年はいくつだ? 十二ぐらいかな?」
「わか……たしかお松は数えで十七のはずですが……」
「へい。もうすぐ十八になるんずや」
「……そうなのか? ずいぶんとちっこいが……」
そういうと若旦那は、いきなりお松の頭をぐりぐりとなでくりまわした。
「な、なんどいうごどばするんじゃか。やめでけろ!」
お松はびっくりして大声を出して暴れた。
「ハハハハ! 元気なおなごじゃ、気に入った! おれ専属の侍女にする。よいな、佐吉?」
「それはよろしいですが……そのような教養のない娘を……」
「なにをいっとるか! 気立てがよいのが一番じゃ! よし、お松、おれと来い。姉様の着物を分けてやろう。お前はそんな絣じゃなくて、小紋の花柄の方が似合う。たしか桜模様があったな……花見の季節は終わってしまったが……お松に似合いそうだ。あれにしよう!」
「わかさま……めずらしいこともあるもんだ。あのお方がおなごに興味を持つとは……。念のため、旦那さまのお耳に入れておこう……」
お松は若旦那に、裏庭にある大きな蔵へと連れて行かれた。
重そうな戸を開けると中は真っ暗で、真ん中の床に小窓から陽の光が差し込んでいた。
だんだんと目が慣れてくると、たくさんの行李が積んであるのがわかった。
若旦那はスタスタと中へ入っていき、奥の行李から桜模様の着物を取り出した。
「お松、なにをしている? こっちへおいで」
「へい」
「へいはやめた方がいいな。それでは男だ。『はい』にしろ」
「へ……はい」
「これを着てみろ。だぶん、似合うぞ。帯はこのうぐいす色の物にしよう」
「……はい。あの……ここでだか?」
「ああ。そうだ」
「おらにはいいなずけがおるんずや。おやめしてけろじゃ」
「なに? いいなずけがおるのか? なのに、なんで奉公になど出た? 嫁にいけばすむ話じゃろう」
「佐吉っさは事情があってまだ村に帰れねのだ」
「佐吉というのか? そいつも奉公に出ているのか?」
「んだ」
「おかしな話だな……まあ、いい。お松、おれは着物が商売だ。へんな下心などないから気にするな。さあ、着せてやろう」
若旦那はお松に、白の襦袢と桜の花の散った薄紅色の小紋を着付けてくれた。
「ほら、よう似合う」
「若さま……。襦袢ば着たのは生まれて初めてだ。ありがとうございだんだ。でも、こったらきれいな着物ば着て仕事ができね」
「今日はそのままでよい。長旅で疲れただろう。うまい蕎麦屋があるから連れて行ってやろう。足がどうせ汚れるから、新しい足袋と草履はあとでよいな。では、いこう!」
「あっ! 若さま……」
若旦那はまたスタスタと出て行ってしまった。
お松は脱いだ着物を抱えていそいで蔵から飛び出た。
「荷物はそこに置いておけ。カネばあが片付ける」
「カネばあ?」
「ああ。おれの乳母だ。身の回りの世話をしてくれている。お松もいろいろ教わるといい。さあ、いくぞ!」
「あっ! 待ってけろ!」
お松は荷物を蔵の前に置くと、若旦那を追っかけた。
――江戸の町はたいへんにぎやかなところだった。
まるで祭りと正月と結婚式がいっぺんに来たかのごとく騒々しかった。
お松はものめずらしさにキョロキョロしてしまった。
「お松! そんなに頭を振っていたら、めまいがして帰れなくなんぞ!」
「江戸は人が多すぎてまなこがまわるんずやね。こったらにがっぱどの人が毎日、出歩いてらんだんずな?」
「ああ。江戸は国の中心だからな。……お松は髪がずいぶんとみだれているな。そこの髪結いによっていこう」
若旦那が髪結いの店の暖簾をくぐると、すぐに女将が飛んできた。
「近江屋の若旦那、いらっしゃいまし。いつもご贔屓にあずかります」
「女将、この子を流行の髪型にしてやってくれ」
「あれ? この子はまた……あんたいくつだい?」
「へ……はい。十七になるんずや」
「これで、十七……少しねえさんっぽくするかい?」
「はやりのやつでいい。無理して大人っぽくする必要はないよ」
「じゃ、簡単なのにしましょうかね。おミツ! この子に島田を結っておあげ!」
「はい!」
店の中から、お松ほどの年齢の女が出てきた。
お松を座敷に座らせると、あっという間に美しい髪へと結い上げた。
「こりゃあ、べっぴんさんだね。髪が太くて真っ直ぐで黒々としとるわ。日に焼けてるだけで色も白いね。オシロイはいらないのかい?」
「ああ。いまはいいよ。お松、見違えたな」
「……はい」
「おやおや、髪が変わったら性格もおとなしくなったな!」
「お松さん、髪がくずれたらいつでもおいで。ただでなおしてやっから!」
「はい。ありがとうございだんだ」
「そういうときは、ただ『ありがとうございました』でいいんだ」
「女将さん、ありがとうございました」
「お礼だったら、若旦那にお言いよ。あたしらは銭っこもらってやってんだからさ」
「若さま。ありがとうございました」
「おれが勝手にやったんだから、礼なんていい。さあ、おなかが空いたろう。早くいこう! 蕎麦がのびちまう!」
「若旦那はほんんとうに蕎麦好きですね。まいどありがとうございました」
「おう! じゃましたな!」
「女将さんは良い方だす」
「お松も充分、おもしろいぞ。ふつう、おなごから往来で話しかけてきたりしないもんだ。家ではいいが、外では気をつけたほうがよいぞ」
「もべこわげありませんでした。今後は気ばつけます」
「まあ、どこかで誰かが見てるかも知れんからな。おまえは村から出てきたばかりだからわからなくて当然だ。いいなずけがいるならなおさら用心したほうがいい」
「はい」
「さあ、着いたぞ!」
お松は若旦那と一緒に蕎麦屋の座敷へ座った。
お松は、外食は初めてだったので、わくわくした。
「ずいぶんと静かになったな。蕎麦はきらいか?」
「大好きだ。こったらトコにきだのは初めてで緊張してるんだ」
「そうか。ふつうに食べればいいんだ。おれは『ざる』だが、お松は『おかめ』でいいな」
「はい。おらはよくわがねのでおまかせするはんで」
「それならそうしよう。うまいぞ」
若旦那が蕎麦屋の主人に注文すると、すぐに蕎麦が運ばれてきた。
お松はその速さにもびっくりした。
江戸というのは何もかもがすごい速度で進むものらしい。
「は~、おったまげた。これはなんておいしいんだんずな」
「そうか、そうか。よろこんでもらえてうれしいぞ」
「江戸の人はこったらおいしい物ば毎日食べてらんだんずな? おらもかっちゃに食べさせてやりたい」
「だったら、一生懸命はたらいてラクさせてやりな。それより……お松のいいなずけはどうしてるんだ?」
「佐吉っさは江戸へ奉公に来ていだよ」
「会いに行くのか?」
「いまのとこその予定はねじゃ。佐吉っさはいそがしから……」
「そうか……どこの店で奉公してる?」
「……よく……わからね……」
「あんまり根掘り葉掘り聞いてはいけないな。店がわかったらおれが連れてってやろう。さあ、蕎麦がのびてしますぞ、食べろ、食べろ。足りなかったら追加してやる!」
「こったらにがっぱど、食べられねよ」
お松はフーフーいいながら、蕎麦を口いっぱいにほおばった。
こんなにおいしい蕎麦は生まれて初めてだった。
江戸に来てよかったなと、お松はこころからそう思った。
「ふ~、食った食った! やっぱり『松井屋』さんの蕎麦はうまいぜ! 代金はここに置いとくよ」
「まいどありがとうございます。若さま、そちらの娘さんは?」
「今日からうちで働くお松だ。お松、松井の旦那にあいさつしな」
「はい。お松です。せんばお願いいたするはんで」
「はは。めんこいな。すぐにそこらの娘のように、江戸言葉をおぼえて生意気な話し口調に変わるだろうよ。お松! うちのおハナみたいになったらいけないぞ!」
「おとっつぁん! めったなことを言わんでください! おっかさんが亡くなってから、どんだけあたしが弟たちの面倒をみてきたことか。生意気なんじゃなくて、オトナなんです!」
「はいよ、はいよ。まったく、気ぃばっかし強くていけねえや。お松、くれぐれもあんな風にはなるなよ」
「はい。あっ! いや……」
「お松さん、おとっつぁんの言う事をまともにとらえちゃいけないよ。あたしがいなきゃ、この店は切り盛りできないんだから!」
「お松、気ぃつかうこたあないぜ! この親子はいつもこんなだ。旦那、うまかったぜ!」
「……うまかったぜ」
とたんに、店じゅうの人間が笑いだした。
「お松、おれの言葉はまねしない方がいいな。ふつうに『おいしかったです』でいいぞ」
「……おいしかったです。ごちそうさまですだ」
「はは。お松、おなかが空いたらいつでもおいで。お松に特別な蕎麦をつくってやるよ」
「ありがとうございました。若さまもありがとうございました」
「いいよ、いいよ! 蕎麦一杯でそんなに頭を下げられちゃたまんねえ。さあ、いこう。天気が良いから帰りは天神さんによっていこうや!」
「はい」
「若さま、またのお越しをお待ちしております」
「ありがとうございました。お松もまたおいで!」
ふたりはおなかがいっぱいになったので、遠まわりして天神さまへお参りすることにした。
祭日だったらしく、出店がいくつか出ていた。
「お松、ちょっとこっちへおいで」
「はい」
「ほら、この梅のかんざしが赤くて似合うんじゃないかい?」
「若さま……おらはこったらものば買う金はもっておりね」
「はは! おれが買ってやるんだよ。どれがいい?」
「そったらことば言われても……かんざしなんてさしたことがねじゃ……」
「やはり、赤がよくないか?」
「おにいはん。その娘はんは桜色のおべべを着とるから、かんざしはこの珊瑚がええほなへんかい? 天然もんではおまへんよ。人の手ぇでぇつくったもんやから、高くあらへんでっせ」
「そうか? お松はそれでいいか? ちょっとあててみろ」
「この鏡を見てごらん。おう、よう似おうてるや。まけておきまっせ!」
「それでは、これにしよう。お松、よいか?」
「はい……だば、こしたら派手なモンはおらには分不相応じゃ……」
「いいから、いいから。それでは、その桜色のかんざしをくれ。これで足りるか?」
「まいどおおきに。これでぇは、つり銭が足りなくなるぐらいでっせ。おまけにこっちの赤いのもつけておきまひょ。天神さまの梅の絵が描おってあるんや」
「おう、すまんな。どれ、お松、両方つけてやろう。こっちを向いてみろ。……おお、よく似合ってるな。なかなかいい細工をする。関西のモノか?」
「はい。モノは京都やねん。上品な作りでっしゃろ」
「そうだな。また、いいものがあったらよろしく頼む。じゃましたな」
「まいど! おーきに。市が立つ日はここにおるさかいに、ごひいきにしてみぃな」
「若さま、ありがとうございました」
「めんこくなったな。さ、帰るぞ」
お松は若旦那と『近江屋』へ帰った。
「佐吉、帰ったぞ」
「若さま、お帰りなさいませ。お松、荷物はカネばあが部屋に運び込んでおいたぞ」
「ありがとうございました」
「お松、もう江戸のことばになじんだのかい? なに、若いからすぐに覚えるさ。さあ、おまえは裏からまわって誰かに仕事を教えてもらいなさい」
「佐吉、お松のことはいいから。お松、水を持って来てくれ。足を洗おう」
「はい」
お松は裏の井戸で水を汲み、佐吉と足を洗った。
どろ水を捨てながら裏へまわり、井戸のそばでごぼうを洗っていた女にあいさつをして、中へ上がらせてもらった。
「あんたがお松だね。あたしはギンっていうんだ。ねえさんがひとりお嫁にいったから、それで人を増やしてくれたんだ。あんたの他にもうひとり、お岩って子もきたよ。何度か奉公にいったことがあるって言ってたから、その子にいろいろ教えておもらい」
「はい」
「おや、あんた、いがいと無口だね。番頭さんが元気のいい子だっていってたんだが……。まあ、仲良くやろうじゃないか。年は十七だったかね」
「はい」
「じゃあ、このごぼうを台所へ持っていっておくれ。煮物にするってカネばあが言ってたから」
「はい。わかりますたぁ」
「ああ。なまりかい。なつかしいねぇ。あたしもむかしは、そんな話し方だったんだよ。クニを思い出すねぇ。あんた、両親は?」
「とっちゃはケガで寝てでゃ。かっちゃは畑もでてでゃ」
「そうかい。たいへんだねぇ。がんばりまれ」
「へい……はい」
「そうそう、その調子。言葉なんて、すぐに慣れるさ! さあ、このごぼうを持っていっておくれ」
「はい」
お松はごぼうを受け取ると、煙の立ち上る台所らしき場所を目指して歩き出した。
暗い入り口から中をのぞくと、腰の曲がった老婆が釜の前に座っていた。
「すじょいせん。今日から世話になるお松ど申します。ごぼうば持ってまいりますたぁ」
「おや。お前がお松かい? こっちにおいで。ごぼうはその台の上にお置きよ。よく顔をお見せ。ああ。かわいらしい顔をしているな。若はこういった娘がお好みだったか。おまえ、その話し方はいけないよ。わしがなおしてやろう。手はこうやって前で合わせて……そうそう、女は女らしく上品にな」
「荷物ばありがどうごしござじょいした。よろしぐおきゃがいいたします」
「ああ。よろしくな。今日はいいから、部屋でゆっくりおしよ。おい! お岩! お岩はいるかい?」
廊下の奥からバタバタバタバタと走ってくる音がした。
「……ハアハア、カネばあ、なにかご用ですか?」
「用がなきゃ呼ばないって。この子は松。あんたと同い年だね。部屋に案内しておやり」
「はい!」
「よろしぐおきゃがいいたします」
「こちらこそよろしくね。お松ちゃん、こっちよ!」
お松はお岩に手を引かれて奥の日当たりの悪い小さな部屋に通された。
「日当たりは悪いけど、なかなか快適よ。のらねこのみーちゃんがくるの。ときどき、にぼしをあげるのよ。どうぶつは好き?」
「たげ好きじゃ。じょい、みーちゃんはでゃだな?」
「うふふ。いまはいないと思う。大抵、午前中か夕方くるのよ。あとで見にいこうね」
「はい!」
「あたしはすぐにもどらなきゃいけないんだ。お松ちゃん。寝てなよ。夕飯のときに起こしてあげる。そこのせんべいぶとん使って。ゆっくりしてなね」
「ありがとう……ございました」
「ふふ、仲良くしようね。じゃあ、またあとで!」
お岩はいそがしそうに出て行ってしまった。
おギンやかねバアと夕飯のしたくをするのだろう。
お松は疲れたので眠ることにした。
小紋はしわになるといけないので、脱いで襦袢だけになってふとんに横になった。
今日はいろいろありすぎて、すぐに寝入ってしまった。
「お松、お松、かぜをひくよ!」
「……へい……かっちゃ……おら……」
「そんなあられもない格好で抱きつくもんじゃないよ」
「……!」
気がつくと、お松は若さまに抱きついていた。
自分が襦袢一枚なのに気づき、あたふたした。
「その小紋では働きにくかろうと思い、あたらしい紬を持ってきたんだ。これなら、綿に見えるし丈夫だから、人の目も気にならないぞ」
そういうと、若さまは紺の地に細い線の入った地味な着物をお松に着付けた。
「若さま……これほどよぐしてもらって、おら、ほんにもうしわげない。ありがとうございました」
「よい、よい。おれが好きでやってるんだ」
そのとき、バタバタと廊下を走る音がして、サーッと障子が開けられた。
「あっ! すんません。若さま……」
「ああ、お岩。いま、お松を起こしてたんだ。夕飯だろ? おれは行くから、案内してやれ」
「はい」
「お松、たくさんお食べよ。うちはよそとちがっておかわり自由だ。お岩、カネばあに言って、明日の朝はみんなに卵を一個ずつ付けてやれ」
「はい。お松ちゃん。いこうか」
「はい。若さま、ありがとうございます」
「もう、江戸ことばに慣れたじゃないか。その調子で明日も気張れよ!」
そんな風に、お松の江戸第一日目は終わった。
のらねこのみーちゃんに夕飯の残りをねこまんまにしてあげた。
とても楽しくて、夜、ふとんに入ってからやっと佐吉のことを思い出したぐらいだった。
佐吉のことを忘れたのは、彼が奉公に行って以来はじめてのことである。
佐吉っさんに会いに行こうかどうしようかと迷いながら、お松は眠りについた。
だが、意外にも、佐吉との再会のときはすぐにおとずれた――。