三章-2
待て、と追いかけてくる青花の声が聞こえなくなった頃、紫音はやっと地面に下ろされた。
「ここは・・・・・・?」
「俺の家だ」
俺の家、と称される場所は、杏色に塗られた、二階建てのアパートだった。建物自体は新しくないが、清潔感の保たれた杏色を見るに、整備の行き届いている場所だということが覗い知れた。
「別に入る理由も無い。帰るのなら送るぞ」
中性的な顔に似合わない低い男の声で黒影は話す。見た目と声の差が大きいところも愛乃と類しているなと、紫音はふ、と笑った。
紫音は首を横にふって、帰らないことを黒影に告げた。黒影は顔を渋くさせ、紫音に背中を向けて案内する。
アパートの二階に上がった。一番奥にある扉が彼の部屋へと通じる入り口らしい。黒影が先導して紫音を部屋へと招き入れた。
扉を開くと、整理整頓された玄関が待ち構えていた。
「お邪魔します」
紫音は靴を脱ぎ、踵を揃えた。人一人分の広さしかない台所を抜けると、彼の性格を体現したかのような部屋が紫音を待っていた。
「座っていてくれ」
紫音は台所へ向かった黒影から視線を外した。埃の見当たらない床に、灰色の絨毯が寂しそうに敷かれている。その絨毯の上に座ると、途端に疲労が紫音の全身を蝕んだ。
何故自分の家に兄がいたのか、母は無事か・・・・・・不安に駆られることが起きたせいで、紫音の精神的な疲労は大きくなっていた。疲れた目を、徐に動かす。
部屋の中央に卓袱台があり、その奥に寝台がある。寝台の上には、几帳面にたたまれた毛布が置かれていた。その風景は、殺風景を通りこしてどこか侘しかった。
しかし、その整頓されている部屋の中で、明らかに違うものがあった。
「本・・・・・・?」
一つの大きな本棚が目の前に聳えていた。その本棚だけが、整えられたこの部屋の中で唯一散らかっていた。本の上に本が幾つも積み重なっていたり、並べられた本達が雪崩のように崩れていたりしている。本棚に入りきらなかったのか、本棚の脇に重なった本があった。
紫音は勝手に読むのはまずいと思いながらも、自然と一冊の本を手に取った。
『誕生日占い』
学校で使っている英和辞典よりも分厚い見た目をしていたが、題名を見てその見た目との違いに紫音はふふ、と笑ってしまった。その本を手にしたまま、本棚に無造作に置かれた本の背表紙達を眺める。
『有名な武器事典』
『日本の伝説』
『花言葉』
中には小説や文庫も見受けられたが、本棚を占拠しているものはこのような本が多かった。雑学が好きなのだろうか。愛留の話していた黒影とはまた印象が違った。
「君は危機感が無さすぎる」
背後から声がかけられた。
紫音は慌てて持っていた本を置き、振り返る。ちょうど黒影が卓袱台の上に白いカップを置いているところだった。カップの中身は温かいココアだろうか。甘い湯気がたっている。疲れの残っている身体には染み渡る液体だった。紫音はありがたくいただくことにした。
「普通、知らない人の家にあがろうとはしないだろう」
「そうですね」
「なら何故、ここまで来た?」
紫音は彼を見据えた。彼は何を言っているのだろう。黒影の顔には、後悔の色が浮かんでいた。
黒影は、紫音をここまで連れてきたことを後悔しているのだ。
「あなたに、」
意外と掠れた声が出た。それでも紫音は続けようと思った。
「あなたに、興味があるから」
その言葉に嘘偽りは無かった。
初めて会ったときに感じた彼への関心は、紫音の胸の中で今でも輝きを放っていた。
黒檀のような長い髪の毛先をまとめ、憂いに満ちた紅の瞳を揺らす姿は、雨が降ったときの独特の湿り気が混ざった香りを纏わせていた。
「それは・・・・・・・・・・・・」
黒影は目を揺らしたまま口をそこで噤む。そして再び言葉を紡いだ。
「多分・・・・・・『番号』のせいだろう」
「『番号』?」
黒影は先程紫音が手にしていた『誕生日占い』を持ち、ゆったりとした動作でページを捲り始めた。
「これは俺の予測でしかないが・・・・・・、『番号』・・・・・・特に『永劫回帰』は、数秘術の影響を受けているようだ。これを見てくれ」
紫音は言われるまま、開かれたページに視線を落とす。
そこには、九までの数字について記されていた。占いの本らしく、主に性格について書かれている。
「【1】は意識・・・・・・【2】は感覚に影響を与える・・・・・・?」
「その他にも、【1】は男性、【2】は女性を表しているという見方もあるらしい。俺達は自分の『番号』を知ることができないが、俺が【1】で君が【2】だとすると、強く惹かれあうこともあるかもしれない」
そう言って黒影は、静かに溜め息をついた。
「君が俺を気にするのと同じで、俺は君を放っておけない。多分、このことについては、少なくとも『番号』の因果が関係しているのだろうと思う」
気まずそうに紫音から視線を逸らし、言葉を紡ぐ。
「本当はあの場で、君を始末するつもりだった」
「・・・・・・・・・・・・!」
再び目線を高くし、黒影は憂いの色を帯びた目を紫音に合わせた。
「しかし・・・・・・できなかった」
「どうして?」
純粋な疑問だった。何故彼は自分を殺さなかったのか。聞きたくないようで聞いてみたかった。
どうせならあの場で殺してくれても良かったのに。自分など何年も前から干乾び朽ちた死人と同じ状態なのだから。
紫音はそう思いながら、膝の上に置いた手を握り締めて問うた。
返ってきた答えは、意外なものだった。
「知り合いに、似ていたから」
言うのを躊躇ったのか、歯を食い縛りながら黒影は反芻する。
「似ていたんだ」
一瞬の、静寂。
耳が遠くなるほどの沈黙に、彼の葛藤や哀愁が詰め込まれている気がした。
その後に黒影は一人、溜め息混じりに微笑む。生真面目そうな硬い表情しか見てこなかった紫音は不意打ちを食らった。穏やかで優しい笑顔だった。そして、寂しい人なのだと思った。
私と同じだ。
「誰と・・・・・・似ているんですか?」
「姉だ。血は繋がってないが」
望郷の念に駆られているのか、黒影は僅かに目を細めて言う。黒影の言い方に、何かが引っ掛かる。
「似ていた・・・・・・ということは・・・・・・」
「・・・・・・そうだ。俺の姉は既に故人・・・・・・亡くなっている」
顔を強張らせ、黒影は告ぐ。
「銀とも白ともつかない髪の色、反射する桃色の目・・・・・・俺の姉と同じ色だ」
「そうなんですか?」
「ああ、多分、姉の『番号』が君に移ったのだろう。能力は違えど、『番号』の特徴がそのまま移行することはあるからな」
黒影は息を詰まらせ、姉の思い出を引っ張り上げているのかぽつぽつと話す。
「姉は『永劫回帰』であり、それ故に自ら命を絶った」
「故に?」
「今までの『永劫回帰』は皆、非業の死を遂げている。姉もその流れに逆らえなかったのだろう。俺も詳しくはよく知らないが・・・・・・」
黒影は哀しみの零れた声で続けた。
「ただ、姉が言っていた、「永劫回帰が集まれば災いが振りかかる」という言葉は覚えている」
「・・・・・・・・・・・・」
「それを信じ、俺は『永劫回帰』を殺すために動いている・・・・・・姉らもそれが理由できっと・・・・・・」
紫音は言葉を失った。
この人は、黒影は、姉を失った悲しみを誤魔化すために行動しているに過ぎない。どんな死に方をしたのかは想像もできないが、姉の、その些細な言葉を鵜呑みにして行動に移すのはあまりにも発想が危険すぎる。
「実際、前の『永劫回帰』の何人かは何を思ったのか自殺を図り、ある者は殺されている。そんな惨事を、俺は見てきた」
それだとしても、理不尽な話だ。前の『永劫回帰』と、今の『永劫回帰』は違う人達だ。再び惨劇が繰り広げられる可能性は一定ではない。彼の中で、以前の出来事と今が混同している。前の『永劫回帰』がそうだったとしても、今の『永劫回帰』には関係の無いことだ。そもそも、「『永劫回帰』が集まれば災いが振りかかる」という迷信めいたものを信じて『永劫回帰』を殺すことは理に適っていない。結局やっていることは人殺しだ。
しかし、彼がずっと独りだったとしたら。
彼がその惨状を目の前にして、悲しみを共有できる仲間がいなかったとしたら、自分を守るために意識が凝り固まってしまうことも有り得るだろう。
かつての自分がそうであったように。
果てしない暴力を受け続けた自分が、何も考えられなくなったように。
紫音は、思ったことを口に出さなかった。
自分は彼になれない。感情の共有もできない。そのことを知っていたから。
「私は、貴方が正しいとは思わない」
「・・・・・・そうだろうな」
「それでも、私は貴方を信じてみようと思う」
「・・・・・・・・・・・・!」
紫音は、驚いて目を見開く黒影を愛おしいと思った。
不意に笑って、紫音は言った。
「一目惚れ、なんです」