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【承】

「また母さんに殴られたのか?」

 学校から帰ってきた兄から心配そうな声が漏れる。私はその唇の動きをじぃ、と見つめていた。

 肯定も否定もせず、私はただ口を縛って呆としていることしかしなかった。兄はその沈黙を肯定と取ったのだろう。辛そうに顔を歪め、目元に痣の残る私の頭をぐいと抱き寄せた。

 父が死んで、母が酒に浸るようになってから数ヶ月、母は何も抵抗の出来ない私に暴力を振るい続けた。痛くて辛くて、死んでしまいそうな衝撃だった。母の悲鳴とよく似ていた。

 私よりも六つ年が上の兄は、元より活発な性格のためか、母への暴力に真っ向から反発した。ぐしゃぐしゃに弱りきった母には筋肉もついてきた兄を力で捩じ伏せることなどできなかった。その分の悲鳴が、私に降りかかってきていた。

 しかし私は兄を恨むことなど決して無いだろう。こうやって優しく抱きしめてくれるのだから。

 学校から帰ってきて真っ先に私の元に駆けつけてくれる兄。彼は明朗快活な姿と声で私を慰めてくれた。私とは違う、輝きに満ち溢れている人だった。

 母は今、隣の部屋で死んだように眠っている。正真正銘、この狭い部屋の中で私達は二人きりだった。

 

 きぃ


そこへ、侵入した扉の開く音。

兄は歪んだ顔を更に捻じ曲げ、扉の開いた先に立っている男を睨み上げた。

一ヶ月前、母が突然連れ込んできた男だった。細い体躯にひょろりとした首。顔の造形は整っていて、鼻筋も通っているが、どこか不気味な雰囲気を醸し出している人物だった。突然家にやってきては、突然何も言わずに出て行く、仕事も何をやっているか見当もつかない男だった。

「・・・・・・・・・・・・」

 一つ、嫌な沈黙が降りる。

 兄はこの男に対して嫌悪感を抱いている様子だった。私の顔を自分の胸に押し当てながら、兄は恐々とした声色で言う。

「何の用ですか」

 兄の腕の隙間から、私は男を眺めた。私はこの男が苦手だった。痛くて理解ができなくてもやもやする、恐怖の対象だった。

 兄の腕越しに男と目が合う。男はにやりと、両生類のように滑り気のある笑みを浮かべた。

「別に」

 そう言って、男は部屋から出て行った。兄が胸を撫で下ろす音が聞こえる。


 しかし、私にとっての恐怖はこの場だけのものではなかった。



 夜、母も兄も寝静まった頃、決まってそれは行われる。

「おいで」

 男に誘われた私は、母も兄もいない、布の敷かれた部屋へ連れて行かれる。恐怖に身を凍らせ、逃げ出すことも叫ぶことも出来なかった。

 ぬるりとした両生類が、身体の中に入っていく感覚。例えて言うならそのような感覚だった。

 私は込みあがる吐き気を抑え、自分を蹂躙していく痛みと気味の悪い感覚に唇を噛み締めるしかなかった。

 私にとってこの行為は、恐怖そのものだった。

得体の知らない、両生類に似た何かに犯されていく感触に、胃が裏返った。

 私の下に敷かれた柔らかい毛布は、汗を吸い取るだけで、気持ち悪さを逃してはくれなかった。

 

そんなときは、ぼんやりと意識を空へ浮かべればいいのだ。

私の回避方法は、これしか無かった。何をされているか分からない、ただ恐れだけ覚えさせられるこの行為から逃れるには、こうするしか方法が無かった。

それでもいいのだ、夢さえ見ていられたら。

遠くに父親の姿が見える気がした。穏やかに笑う父の声。勿論それは、私の空想の他無いのだが。


父親の霞んだ姿が、空中に霧散した。

目の前に広がったのは、厭らしく笑っている男の顔。その先にある扉が、ほんの僅かだが開いている。男が閉じ忘れてしまったのか。


そして私は、扉の隙間から恐怖心の染みついた顔で凝視している兄と目があった。








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