【終点】
その夜、俺は寝付けず、台所のテーブルを見つめていた。
無機質な電気の明かりに照らされ、ぼんやりとする意識の中立つ。
俺は、なんてことをしてしまったんだろう。
紫音に、なんてことを。少なくとも妹に与えるものとしては適切ではない。暴力を、力による屈服を与えてしまった。自分の中に蟠る苛立ちを、紫音にぶつけた。俺はその事実に対して一人、後悔と自責の念に追い詰められていた。
呆然と、醤油の瓶だけ置かれたテーブルを眺め始めてからどのくらい経ったのだろうか。一時間か、それよりも長いか。自分を許せない気持ちが、首の裏側に重くのし掛かっていた。
かたん、
扉の開く音がした。母と紫音は既に別々の部屋で寝ている。男が帰ってきたのだろうか。
台所に入ってきたのは、例の如く男だった。
細く、ひょろりとした体型。蛇のような男だと思う。生白い、うねった蛇。俺はこの男が大嫌いだった。突然母が連れてきた男。それだけでも吐き出しそうな嫌悪が湧き出た。
「・・・・・・・・・・・・」
俺はその男と目も合わせなかった。こんな夜遅くに帰ってくるような奴だ。何をやっているのかも明かさない。そんな人間を信用できるわけが無かった。
男は俺を眺めていた。見ていなくてもにやけているのが分かる。胃が重くなるような感覚に捉われた。
早く、早くどこかに行ってくれ。
そう願っていたが、男は立ち退かず、俺に話しかけてきた。
「・・・・・・あの娘、怪我が早く治るよな」
「・・・・・・・・・・・・!?」
俺は言い返すことができなかった。こいつは、何を言っているんだ。
確かに紫音は昔から怪我の治りが異常なほど早かった。しかし、それで困ったことは無かった。この男は、一体何を言いたいんだ。
「おかげで、乱暴をしても、何も気にせずに済む」
「・・・・・・・・・・・・!」
この屑野郎、この屑野郎、この屑野郎・・・・・・!
俺は悔しさのあまり手を握り締め、睨み上げた。手の平に爪が食い込み、痛みが伴う。俺は歯噛みした。
「この屑野郎・・・・・・!」
「おや? それは君が言えることかな?」
息が止まった。
なんだ、こいつは、何が言いたい?
「見てたぜ。君があの子に酷いことしていたの」
俺はその言葉を聞いて、目を見開くしかできなかった。
男は冷蔵庫を開け、半分まで減ったペットボトルを手に取る。飲み物の種類が何なのか、把握する余裕が、俺には無かった。
「君も俺と同じさ」
そうだ、俺もこいつと同類だ。
どうしようもない、屑野郎だ。紫音を力で屈させ、彼女の貞操観念さえも奪った。自分はこの男と同じ、どうしようも無い人間だ。
だからこそ、俺はこいつが許せなかった。
視界が怒りで赤くなった。一気に頭の上に血が上る。テーブルにコップを置き、飲み物を入れている男の背中が見える。俺はキッチンテーブルの下にある引き出しを開け、包丁を一本取った。
こいつを殺さなければ、紫音への暴力は止まらない。
以前から考えていたことだった。まだ中学生で、社会的に弱い自分では、家を飛び出しても紫音を養えない。この暴力に塗れた日々を変える方法が、何も思い浮かばなかった。
醜い大人達を殺す、それ以外は。
自分が高校生になってからでもいいのではないだろうかと思っていた。高校生になればバイトもできるようになる。紫音と二人で家を飛び出して暮らすのもいいと考えていた。
しかし、その前に紫音が死んだら。
紫音が度重なる暴行で死に絶えたら、それこそ意味が無いのだ。自分も、紫音にいつ手を出すか分からない。あの母親の血が混じっている俺が、今後紫音に暴行を加えない、なんて保障は無い。
だったら、俺がやるしかない。
包丁の刃が、照明に照らされ鈍く光った。明かりは、刃に溶けると鋭さが無くなる。
俺は柄を持ち、男の背後に立った。
「ん・・・・・・?」
男が違和感を持ったらしく、振り向こうとする。振り向く前に俺は包丁の柄を強く握り、男の左胸、心臓を狙って突き刺した。
ごりごりごり、
固い骨、肩甲骨が邪魔をする。男は突然の痛みについていけていないのか、動かない。もう少し右だったか。包丁を抜き取って再度刺し込む。
男も二回刺されて我に返ったのだろう。男は悲鳴をあげ、痛みに呻いた。しかしもう遅い。俺は男の背中を何度も刺した。
男が絶叫する。
「う、うわああああ!」
俺は無我夢中で包丁を振りかぶる。何度も。何度も。
「ああああああああああああ」
何度も。
「あああああああ」
何度も。
「あ・・・・・・あ・・・・・・・」
何度も。
男が声をあげなくなるまで、俺は振りかぶり続けた。
血で柄がうまく持てなくなるまで、振りかぶり続けた。
落ち着きを取り戻す頃には、男は既に息絶えていた。同じ箇所を刺していたため、傷口が抉られ、赤い肉の塊が丸見えだ。
ぬらぬらと。
血は意外と、脂ぎっている。電気の明かりが反射する。ちかちかと電気が瞬くその光景は、なんだか現実味が無かった。
「ひっ・・・・・・」
声が、聞こえた。母親の部屋の方からだ。そちらへ目を向けると、一人の女が腰を抜かしていた。
「せ、青花、なにやって・・・・・・」
俺は包丁を握る手に再び力を込め、母親に近づいた。その首を求め、母親の頭を掴もうとする。
しかし母は四つん這いになって俺の前をすり抜けた。てっきり後ろに下がるものだと思っていたため、俺の動きが止まった。
「誰か、助けて・・・・・・!」
ヒステリックになった声で、母はそう叫ぶ。男の血で満たされた床を引きずるようにして這っていた。
嗚呼、この女は。
この女は、俺が怖いのだ。実の息子である俺が怖いのだ。
だから、そんな恐怖に塗れた目で俺を見るのだ。
冷蔵庫の縁に手をかけ、力の入らない足を必死に立たせようとしている。俺は母に近づき、冷蔵庫に母の頭を押し付けた。
「・・・・・・・・・・・・っ!」
恐怖のあまり悲鳴すら出なくなったようだ。可哀想な母。どうしようも無い母。実の息子に包丁を向けられ、恐怖に塗れて死ぬのだ。
「・・・・・・さようなら、母さん」
それが最期の言葉だった。俺は母さんの頭を冷蔵庫に押し付けたまま、首元を包丁で突き刺した。
「がっ」
鈍い声が母の口から漏れた。分厚い肉が包丁を寄せ付けまいと阻む。にちにち、と肉が密集する音が聞こえた。包丁を思いっきり抜くと、血が勢いよく吹き飛ぶ。自分の白いTシャツが更に赤く染まる。男の血と母親の血。その両方に俺のシャツは彩られた。
母親が白目を剝いて死んでいる。気を失っているのか、どうなのか分からない。俺にできるのは、母親の首を抉る、それだけだった。
ずちゃ、ずちゃ
粘質な音が、台所に響く。
ずちゃ、
男にしたそれと同じように、何度も何度も振りかぶった。何度も上に腕をあげ、首に差し込む。
ごっ、
何か固いものに当たった。骨だ。包丁の先端が骨にあたり、削れた。既に母の首ががくんがくんと項垂れている。俺は我に返り、母親の頭から手を離した。
「はあ・・・・・・」
やりきると共に、疲労感が身体に降り注いだ。俺のやるべきことはやった。謎の達成感が、胸に落ちていた。
呆然と無機質な電気を見上げる。どうして、こうなってしまったのだろう。確かに俺達は、幸せだった。そんな日が、あった。父親が生きていたあの時までは。俺達は、もっと幸せで会っても良かったはずだ。何も悪いことはしていないはずなのに、こんなのは、あまりにも酷いではないか。
泣きそうだった。不安で不安で、どうしようも無かった。それでも、俺がやってしまったことに代わりは無かった。これが現実だ。俺は腹を括った。
かちゃ、
背後から音が聞こえた。俺はそちらへ目を向けようとはせず、ただ照明を眺めていた。
「お、母さん・・・・・・?」
紫音の、弱々しい声が、耳に届いた。
「よお、紫音」
「お兄ちゃん・・・・・・?」
「なあ、紫音」
俺はやっと振り向くことができた。こんな姿を、見せたくなかったなあ。
紫音の髪と瞳の色味がすぅ、と無くなっていっていた。ああ、もしかして、この子は。
何故神様は俺達に試練だけを与えるんだろう。もっと優しくしてくれてもいいのに。
彼女はきっと、これから大変な思いをすることになるだろう。人間として、『番号』として、彼女は生きていかなければならない。それでも俺は彼女に言いたかった。頼みたかった。
きっと彼女にしか、俺を救えない。
「俺を、」




