【起】
優しかった父が死んだ。
穏やかで、陽だまりのような人だった。大柄で人の良い、人懐っこい笑みを浮かべる人だった。
交通事故だった。夜中、酒に酔った運転手の乗っていた車と衝突した。父はその時、母に買い物を頼まれて車を走らせていた。その日の夕飯はシチューになるはずだった。
電話が鳴り、一報を受けた母と兄、そして私は、急ぎ足で市内の病院へ向かった。病院内の白い道が続く。気が動転している母の代わりに、兄が私の手を引っ張ってくれた。
父が横になっている部屋へ看護師に案内された。母に父を確認するよう医師が促す。父の顔を確認した母は、その場で泣き崩れてしまった。汗に濡れた兄の手が、私の手を握り返す。
私は、死というものがどんなものであるのか、見当もつかなかった。何故父は横になったまま動かないのか、ただ眠っているだけなのか、理由が分からなかった。死の感覚に浸り、悲劇に沈む母と兄が、どうして悲しんでいるのかも分からなかった。死というものがなんというものであるのか理解できないほど、当時の私は幼かった。これからも優しい父はいると思っていたし、明るい母もいると思っていた。活発な兄も、今までのように野球に打ち込むのだろうと思っていた。
初めて浸かった死の海は、当時の私にとって気味の悪いものであった。明るい性格がとりえの母が泣いている。唇をかみ締め、泣くのを我慢している兄。生まれて初めて目にする負の光景に、一種の気持ち悪さが胸から湧き上がった。
父が本当の意味でいなくなってしまったことを知ったのは、父の葬儀をした後だった。幼いということは罪だ。今の私はそう思う。父がいなくなってしまったことで、破壊されるものがあることすら、私は知らなかったのだ。
父が死んでから、母は酒に浸かるようになった。それが崩壊の合図だった。