五章-4
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ぼわ、と。
意識が、膨張した。
「・・・・・・ん」
水面に漂うような、淡い光の中で、紫音は薄目を開けて眺めていた。
薄い膜が張られている、そんな水面。紫音の意識は水中を浮遊していた。
水面を眺めている。水の中から、外の景色を眺めている。
気持ちが良い。
ずっと、このまどろみに浸かっていたい。紫音は薄い意識の中、ぼんやりと思った。
「・・・・・・紫音」
外側の世界から、自分を呼ぶ声が聞こえる。一体誰の声だろう。私を呼ぶのは、一体誰だろう。私はここにいたいのに。誰が私を呼んでいるのだろう。
「紫音」
不明瞭だった声は、今度こそはっきりと聞こえた。穏やかで優しい声だ。私はこの声が好きなのかもしれなかった。
ああ、あれは。
水面が紅く光り輝いた。紅玉のような瞬きを携えて、私を迎えに来たのだ。その光を見ていると、ここにいたい、という意思も薄らいでいった。
外に出たい。
その紅に触れたい。
最後まで兄の想いを知ることができなかった私の罪を壊してくれる、あの紅い色に触れたい。
私を慰めてくれたあの紅に。
私を助けてくれるあの紅に。
私は、縋り続けていたい。
嗚呼、なんて、綺麗な赤。
紫音は、無意識に、煌々と差す赤に手を伸ばしていた。
紫音の意識が覚醒した。
「・・・・・・・・・・・・」
薄目を開けると、暗い牢屋の、微かな電球の明かりが差し込んできた。紫音は呻き声をあげて完全に目を開く。
最初に飛び込んできたのは、鮮やかな赤。
そうだ。私が水中で見た赤はこの色だ。
その色は、驚愕で見開かれていて、どことなく面白い。
紫音は片方の手で支えられ、もう片方の手で右手を握られていることに気づいた。私の手を掴んでくれていたのか。だからこそ私は戻ってこられたのか。
「紫音・・・・・・!」
乾燥した、荒れた声だった。
心配、してくれていたのだろうか。こんな私を。兄を救うことも出来ないこんな私を。
紫音は無言で自分の左胸を触った。何かに刺されている、あの鈍い違和感は無かった。紺白が抜き取ってくれたのか。服は赤に染まっているが、心臓にまで達したと思われる傷口は跡形も無く塞がっているようだった。身が切り裂けそうな痛みも無い。
「え・・・・・・? 紺・・・・・・?」
思わず彼の名を呼んでいた。頭の中が突然冴えきっていた。一体何がどうなっているのか、説明が欲しかった。
「紫音・・・・・・!」
しかし彼は感極まっているのか、紫音を両手で抱きとめた。彼の首元に顔が埋まる。紺白の石鹸に似た、清廉な香りに酔ってしまいそうだった。意識した途端、熱気が顔に集中する。自分がこんな思いをしているなんて、彼には関係無いのだろう。
「ひゅうっ! お熱いねえ!」
階段側から能天気な声が聞こえてきた。顔をひょっこりと出して姿を現す。愛留だ。愛留はその整った顔をいたずら小僧のようににやりとさせ、紫音と紺白へ近づいてくる。紺白は紫音を抱き締めていた腕を解き、愛留へ振り返った。
「・・・・・・貴様か」
「やだなあ紺ちゃん! そんな険悪な顔しないでよ」
愛留はあははと笑ったかと思うと、口角を上げた表情で紫音に言う。
「それにしても、これではっきりとしたみたいだな」
「何が・・・・・・?」
「紫音の、番号の能力さ」
紫音は自分のこめかみを撫でた。間違いが無ければ、ここに、ぼやけて見えない数字が浮かんでいるはずだ。愛留は腕を組み、嬉々として言った。
「どうやら紫音は、〈再生〉の能力があるみたいだね」
「〈再生〉・・・・・・?」
「しかも〈破壊して再生する〉ことが可能みたいだ。君のお母さんを守ったっていう薄い膜のようなものも、空気中の物質を一度破壊して新しい物質を作り出して・・・・・・って感じでできたんじゃないかなーって思ってるけど」
「・・・・・・む、難しいです」
愛留は「すごいことだって!」と楽しそうにしているが、その様子を見ていた黒影は眉間に皺を寄せていた。
「・・・・・・貴様」
「おひょ? どうしたの? そんな怖い顔して」
紺白は暗く重い声音で愛留に言う。表情は敵意に満ちていた。
「紫音の能力を突き止める。それが目的か」
「んー・・・・・・」
「紫音の兄が脱走しても、何一つ慌てない。お前はこうなることを、初めから予期していたな」
「まあな」
愛留は飄々とした態度であっさりと認めた。何も悪いことだとは思っていないようだ。反対にはつらつとした声で認められた紺白は度肝を抜かれていた。
「俺ってさ、天才らしいからさ、他の人とちょっと倫理観とかっていうのがずれてるらしいよ」
愛留は頬を引っかきながら話す。
「気になることはとことん追求したいし、解き明かしたい。そういうタイプなんだよね」
紺白の目を見据えている愛留は、悪びれた様子も無く、しかしどことなく気まずそうにしていた。
「・・・・・・俺は貴様のことを一生理解できないだろう」
「ははは・・・・・・はっきり言うねえ」
「・・・・・・だが、しかし」
紺白は厳つい表情を少し曇らせ、自分に言い聞かせるように言った。
「紫音が刺されることを予期し、それを利用したのは許せないが、そういう考えもあるのは悪いことではないと思う」
愛留は一瞬驚いた顔をした。紫音は、紺白の凜とした姿を見て安心する。
この人は、そういう人だ。
自分が苦しんできたから、人を受け入れようとする、心根の強い人だ。
だから私はきっと、この人に惹かれたのだ。
紫音は殴り合いになるのではと内心ひやひやしていたが、紺白の一言が、紫音の心情を穏やかなものに変えた。
愛留も紫音と同じ心境だったらしく、驚いた顔をした後、穏やかに笑った。それはいつもの、にやけているような表情ではなかった。
紫音は紺白の手を借りて立ちあがった。紺白は床に置いた刀を拾い、階段の方へ目を向けた。
「・・・・・・それじゃあ、愛乃を助けに行きますか」
先へ進む愛留を目の先で見つめて、紫音も歩き始める。紫音の横には紺白が付き従っていた。
紫音は、胸に蟠っている「頼み」を言おうかどうか悩んでいた。
頼んでしまえば、優しいこの人のことだ、受け入れてくれるかもしれない。しかし、人に頼むには些か重い内容だ。紫音であれば、許諾はしないだろう。人に頼むには、あまりにも人道から離れすぎている。
だが、まごついている紫音に、紺白は気づいた。
「紫音、どうした?」
「あ・・・・・・・・・・・・」
紫音は逡巡した。言ってしまえば、楽になるだろうか。言わないほうが、いいのではないだろうか。紫音は口を閉じたり開いたりしたが、覚悟を決めて打ち明けることにした。
「あの・・・・・・紺」
「なんだ?」
紫音は目を一回瞑り、心臓を落ち着かせた。もう覚悟を決めるしかなかった。本当なら、そうならないことを願うのだが。
「一つ、頼みたいことがあるのだけど」




