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【結】


「・・・・・・?」

 夜、ふと目が覚めた。

 夜特有の静寂が、部屋を包み込んでいる。普段通りの暗闇。しかし、普段と違う異様な空気が辺りを漂っていた。私は眠気で落ちる瞼を擦り、寝台から足を下ろした。

 寝る際、兄と同じ部屋を使っているが、兄が使っている寝台には兄はいなかった。まさか起きているのだろうか。枕元にかけてある時計に目を凝らすと、時計の針は深夜二時をまわったところだった。

 夜闇に慣れきった目でぼんやりと空を眺める。兄と共同で使っている箪笥が視界に入った。

 兄は、一体、どうしてしまったのだろう。

 今日の夕方、兄は私に、あの男と同じことをした。私にはその行為の意味が分からないが、暴力と似ていることだけは理解できた。圧倒的な力で弱者を捩じ伏せる、暴力。弱者を屈辱の色で染め上げるにはそれだけで十分だった。

 それでも私の中にあるのは、兄に対する信頼と、少しの心配だった。今まで優しかった兄が豹変してしまったのは、何か理由があるに違いない。そうでなければ、私の心は悲鳴をあげそうだった。私は兄が私を抱き締めてくれるように、兄を心の拠り所としていたのだった。

 私は裸足のまま、床に足の下をつける。眠気に苛まれる足を引きずって、台所へ繋がる扉へ向かった。

 扉の隙間から、台所の明かりが見える。電球独特の、無機質な光。やはり兄は起きているのか。私はドアノブに手をかけ、鈍い動作で扉を開けようとした。

 むわ、と。

 濃い鉄の匂いが鼻を擽った。嗅ぐだけで汗が噴き出るような、嫌な匂い。寝着が鉄の香りを吸い込んで重たくなった気がした。この扉を開けてはいけない。そんな予感が、胸の内でぐるぐると踊る。ドアノブが汗で濡れていた。

 だが、確かめないわけにはいかない。この先に何が待ち受けているのか見届けなくてはならない。私は強迫観念に近い考えを脳内で回転させ、ドアノブを捻った。ドアノブを握る手に力を込め、異質な匂いへの恐怖を誤魔化す。


「・・・・・・!」


 扉を開けると、真っ赤な液体の中心に立つ兄の姿がよく見えた。

 右手に包丁を持ち、兄は無言のまま天井を見ていた。床には男がうつ伏せになっている。背中から胸の辺りを何度も刺されたのか、赤黒い穴が照明に照らされていた。

湖のように広がった血溜まりに、もう一つ、形を失ったものがあった。

冷蔵庫に背中を預け、何かが座り込んでいた。首を傾け、全身の力を抜いている。否、首があらぬ方向に曲がっている。

首が、裂けている。

首についた傷は深く、首を半分ほどまで断ち切っていた。赤と黒の混じった肉は、鮮明に首下を飾っている。照明に照らされた油がぎらぎらと反射していた。骨がごっそりと削れ、尖った先端が露出している。無機質な照明が、この世界を現実離れした不透明なものに変えていた。

「お、母さん・・・・・・?」

 お母さん。お母さんだった。姿形は変わっていたが、それは紛れも無い母だった。白目を剝いて空を睨んでいる母は、既にこの世のものではなくなっていた。

 呆然と。

 私は呆然と、立ち尽くすしかなかった。まだ幼かった私が、その姿が何を意味しているのかも、理解していなかった。一体、何が起こっているのだろう。それがとてつもなく恐ろしいことなのだと、まだ十にも満たない私には知る由も無かった。

「よお、紫音」

 先ほどまで、私と同じく立ち尽くしていた兄は、ねっとりとした声で私に話しかけた。兄は私を見ていない。兄は背中を向けて、どこか現実味の無い世界の中心にいた。

「お兄ちゃん・・・・・・?」

 兄の全身は赤く色づいていた。寝間着に使っている白い半そでのTシャツが、真っ赤に染まっている。あんなに綺麗な白だったのに。何故こんなにも汚れているのか。

「なあ、紫音」

 息の詰まる音が聞こえた。兄は泣いているのか。泣かないでほしい。兄には笑っていてもらいたい。

 兄は途中まで振り向いた。唇が、今にも泣き出してしまいそうなほど歪んでいる。しかし、笑っていた。不気味な弧を描いて、兄の唇は笑みの形を作っていた。

 真っ赤な湖が、足元で波紋を立てる。兄の表情が映って見えそうな気がした。


「俺を     」



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