【転】
私は、兄の帰りを待っていた。
中学生の兄は、小学生である紫音が帰宅する時間になっても帰ってこない。私は、機嫌が悪くなるとすぐ暴力を振るう母と、たまに私におかしなことをする男がいるマンションの一室で、一人息を潜めて兄の帰りを待っていた。
何よりも、昨日見た、あの兄の恐怖に塗れた目が私の心の中で引っ掛かっていた。
いつも母の暴力から守ってくれた兄。いつも優しく笑いかけてくれた兄。
そんな気丈な兄が取り乱すのを、私は初めて見た。
台所の角で、膝を抱えて待つ。私に手をあげる母は、今は部屋に籠もっていて居ない。あの男も外出しているため、台所には私以外誰一人としていなかった。壁にかけられている円形の時計を眺めやる。兄が帰ってくるまで後二時間以上もあった。兄は野球部に入っているため、帰りが七時近くになる。私は誰もいない台所で、はあ、と息を吐いた。
息を呑んで待つ、空虚な時間。私はこの時間が嫌いだった。私だけ置いていかれるような感覚。早く兄が帰ってきてくれたらいいのに。それだけを一心に願っていた。
暫くすると、かちゃ、という、扉が開錠された音を聞いた。
兄が帰ってくるにはまだ早い。またあの男だろうか。そう思っていたが、私の予想は大きく外れた。
ゆったりとした足取りで台所に顔を出したのは、間違いなく兄だった。
「お兄ちゃん・・・・・・?」
お兄ちゃん、お兄ちゃんだ。私は舞い上がる気持ちで立ち上がり、兄の傍に駆け寄る。
「今日は早いね。どうしたの?」
嬉しさで胸がいっぱいになり、兄に話しかける。しかし、私が兄の異変に気がつくのには時間はかからなかった。
兄の顔は青白く、この世の終わりが来たような色をしていた。
表情は硬く、ぴくりとも動かない。まるで仮面のようだ。色を失った兄の顔は、石のように凝り固まっていた。
「・・・・・・お兄ちゃん?」
呼びかけると、兄は教科書等が入った荷物をその場に落とすように下ろした。そのまま停止して動かない。どこか具合でも悪いのだろうか。私は不安になって兄の手を握ろうとした。
その瞬間、兄が私の手を捕らえ、無理矢理床に押し倒された。
「痛・・・・・・っ」
兄と全く体格の異なる私の身体は、簡単に悲鳴をあげた。それでも兄は私を床に押し付ける。ぎりぎりと手首を掴まれ、私は呻くしかなかった。
「なんで・・・・・・っ」
兄が蚊の鳴く声で言った。自分に言い聞かせるような。小さな声だった。
「なんでお前が・・・・・・!」
その声で、私の背筋が凍った。兄は、この人は、あの男と同じことをしようとしている。あの陰湿で、気持ちの悪い行為をだ。ぞっとした。私の世界が一気に崩落していく。今までずっと信頼し、身を寄せ合った兄が私の意思に反した行動をしようとしている。恐ろしい反逆が、私の目の前に迫っていた。
「いやだ・・・・・・っ」
必死になってもがくが、六つも違う兄に勝てるはずが無い。兄は容赦無く私の首元を掴み、締め上げた。ぐぅ、と喉が潰される音がする。空気が薄い。意識が白濁の渦へ呑まれそうになる。
呆けていく景色の中、兄の顔を仰ぎ見ていた。
眉間を寄せた、痛みに歪んだその顔。
目に涙をいっぱい溜めて、兄は荒れた声で願うように呟いた。
「なんでお前だけが愛されるんだ・・・・・・!」
兄の口角が不気味なほど持ち上がり、笑顔が形成された。
そこから、私の記憶ははっきりとしていない。




