事の始まり
巻きタバコの煙が室内に充満する。窓を開けているはずなのに酸欠になりそうだ。
ジャンは痛み出した頭を押さえ、これで何十回目かになる懇願をした。
「君しかいないんだよ。だから頼む、引き受けてくれ!」
「やだ」
ジャンの必死な態度もむなしく一蹴される。しかしすでに敗北し続けて打たれ強くなった彼はめげなかった。
目の前の立派な両袖机の椅子にゆったりとくつろぐ同僚に殺意を感じつつ、顔をかち合わせる。
ジャン自身はこれでも怖いツラを作ったつもりなのだろうが、元々たれ目で見るからに押しの弱そうな彼がどう頑張ったところで恐ろしさは感じない。フランソワは知らん顔で肺に巡った紫煙を吹き流した。
「そもそもなんで俺が負け前提の弁護をしなきゃなんねぇのさ」
「負けなければいいんだよ!」
「お前な。じゃあテメェがやれや」
「僕にそこまでの技量があると思う?」
悪びれずあっさりととんでもないことを言い返したジャンに言葉を失った。
何も言えなくなったフランソワは、聞かなかったことにしようと机の上に散らかった書類の束へ目を転じた。ジャンが抱えてきたものだ。どの紙にも、裁判所の検閲を通ったというハンコが押されている。
フランソワは順番もめちゃくちゃになった紙の中から、『再審決定』の文字がでかでかと書かれた一枚の書類を掻き出した。
いきなり希望に満ち始めたジャンを視界から押し出して、フランソワは文章に目を通す。フランソワの目の色が少しだけ変わった。
「ほお。あの事件を仕切り直すのか」
「そう。前々から言われてたヤツ」
「だとしても今更すぎんじゃねぇか」
再審が決まったのは、10年も前、この国を揺るがせた貴族の集団毒殺事件だ。そこで弁護連盟から、被告人の弁護をする法廷弁護士を選出してほしいという。
「当時16歳の男の子が死刑判決を受けたからね。あの事件が深刻だったことは確かだけど、それでも不自然でしょ? 今更って言っても、刑はまだ執行されてないし、被告人にとっては汚名を晴らせるチャンスなんだよ」
この事件の再審は、昔から訴えられてきたものだ。有罪の判決自体に疑いがあると。弁護連盟のお偉いさんが言い出し、法廷弁護士たちに呼びかけていた。
しかしその仕事を引き受けた法廷弁護士の顔は次々と変わり、いつしかやりたがる人間がいなくなった。
つい立ち消えになったと思い込んでいたのだが。誰かさんが再審まで漕ぎ着けたらしい。ご苦労なことだ。
けれども。
「無理ってんだよ。他にも依頼が溜まってんだ。別の奴に頼め」
最近のならともかく、10年前の事件の弁護なんて、どうしろというんだ。当時の証拠だって検察が全部回収しているだろう。この紙からは、再審の理由も定かでないし。
「手あたり次第あたってみたよ。でもみんな、事件名を聞いただけでフランソワみたいに逃げた」
「逃げたっておま……」
お前もその逃げた人間の一人だよと怒鳴りたくなったが、「大人の対応」と自分に言い聞かせてこらえる。
代わりにフランソワはピタリと合わせた両手を唇に当てつけた。
このまま誰も被告人の弁護をしないとなると始末が悪い。裁判官の中で最も偉い最高法院長が適当に誰か指名してくる可能性がある。もし自分が選ばれたら地獄だ。絶対に嫌だ。断る。
どうにか回避しなければ。
ぐるぐる悩み抜いた末、フランソワの頭にある名案がひらめいた。
「………ジャン。ほんとに全員の法廷弁護士に頭下げに回ったのか?」
「いや? 何人かは、まだ」
法廷弁護士の中には交流のない人も、苦手な人だっている。ジャンは、そうした人たちは後回しにしていた。もうフランソワだけが頼みの綱だったのだ。
「ふーん。ならあいつに押しつけよっか」
何を思いついたのか人の悪い笑みを浮かべたフランソワが、もたれかかっていた椅子から背中を離す。
ピピ、とジャンが反応した。フランソワの襟首を掴んで引き寄せる。
むせるような煙の匂いなど気にならなかった。
「アテがあるのか!?」
「あ、ああ。一応」
殴ってきそうな勢いのジャンをひとまず落ち着かせ、フランソワは引き出しを開けてお目当てのものを取り出した。
今年、新たに法廷弁護士になった者たちの名簿リストだ。
薄っぺらい紙をぞんざいに広げ、ある名前を指差す。
「この春まで2年間、俺と組んでた見習いだ」
ん? 見習い? 司法修習生のことか?
ジャンの笑顔が固まる。
嫌な予感がした。
「今は法廷弁護士。こんなでっかいのが初仕事になるけど、いい経験だろ。やらかしても大目に見てもらえる」
そして的中した。
「…………言いたい放題だけどフランソワ………人の命かかってんだからね……」
死刑が確定された裁判なのだ。もし再審をやっても判決を逆転できなければ、弁護連盟の名に瑕がつく。被告人も助からない。この事件が冤罪だったらの話だが。
げんなりと肩を落とすジャンを見かねたか、フランソワは立ち上がり彼の頭を乱暴にかき撫でた。ジャンが上目遣いに目を合わせると、にっと白い歯をキラつかせる。
「冗談だって。あいつならやってくれる。この俺が助けられたくらいなんだからな」
軽い調子の請け合いは、確信と自信で満ちていた。