手を差し伸べてくれた人
エメリーが名ばかりの娼婦を始めて1年と半年後。新しいお客がエメリーを名指しした。
洗って綺麗に乾かせば見事であろう金髪をぼさぼさに跳ねさせ、帽子で押さえつけた男性。身だしなみも崩れきっており、明るい若葉色の眼光が用心深くギラついていた。
両脇には大量の書物。常連のお客とあまりに違いすぎて、異様に映った。
27、8歳くらいだろうか。精悍な顔立ちの男性は、こちらの視線をものともせず両脇の荷物をドスンと下ろした。
エメリーは無造作に落とされた本の一冊を手に取り、しげしげと眺めた。深緑の古びた表紙に金文字が描かれたその本は分厚くて、とても重い。
ページを開いて、文字を辿る。小さく細かく詰め込まれた文体は言い回しが堅苦しく、何を伝えたいのかちんぷんかんぷんだ。
『気になるか?』
お客を置いてけぼりにして見入っていたのに気づいたのは、そんな風に呼びかけられてから。
椅子に座り、テーブル横のチェストに頬杖をついていた若いお客は退屈そうで、だけど瞳はさながら獲物を狙う猫のように真剣みを帯びていた。
『…………?』
どう答えるべきか迷って、エメリーは無言でこっくり頷いた。
エメリーの無言の答えを聞いて、男は床に座り込んでいた彼女を軽やかに抱き上げた。
『習ってみるか? 法学』
唐突な問いだった。
『法を知れば、多くの人を助けられる。身に覚えのない罪で囚われた人間も、何かに悩む人間も。誰でも』
エメリーが首を傾げたのをちゃんと見たはずなのに、男は平坦な調子で語る。抑揚のない声は、なぜだか熱がこもっているようにも聞こえた。
エメリーは黙って男の言葉を反芻する。
助ける? どんな人でも? なんでいきなりそんなことを。
法って、何?
まだ8歳だったエメリーが分かるわけもない。なのに男は大真面目な顔で彼女に選択を迫ったのだ。
男はエメリーを椅子に降ろし、自らは身をかがめて彼女にじっと見入った。鮮やかな虹彩は険しく、真っ直ぐだった。
『もし誰かを救いたいって思うなら、俺が教える。お前が全部理解できるまで根気強く付き合ってやる。お前は賢いはずだ。エメリー。選べるだろ』
まくしたてられて混乱した。彼の言いたいことはさっぱりだし、なんと答えればいいのか思いつかない。彼が何度も繰り返す『法』の一文字が頭に響くだけだ。
法とは何者だろう。色んな人を助けられるほど偉いみたいだ。でもそれだけ。あとは、エメリーが選ばなきゃ絶対に分からないまま。
たとえ選んだとて、法がどこへ導いてくれるのか。…………兄のいる場所まで、連れて行ってくれるというのか。
『…………誰でも、助かる?』
『そうだ』
『おにいちゃんも?』
口をついて出た問い。もしかしたらと思った。
もしかしたら。どこかへ行ってしまった兄を、取り戻せるかもしれない気がした。
『兄貴だろーが誰だってできるさ。お前がそうしたいって思うなら』
お留守番だよと言われた。すぐ帰るからと微笑まれた。
でも、その『すぐ』はいつ? いくら待ってもその日は来ない。
――――もう、待ってはいけない。待てない。
忘れられるなら。諦められるなら。苦しまないでいられたのに。
自分がそれを許さないから、こうして抱えて生きてきたのだ。
エメリーは男を見返した。おもむろに男が無骨な手を差し出す。握り返したら、きっと、多分、この人が力を貸してくれる。
けれど彼が兄を助け出してくれるわけじゃなさそうだ。兄を助けるのは法の役目で、その法とやらは、自分から近づかないと何もしてくれないようだ。
できなかったことが、できるようになる。力を与えてくれる大きな存在。そんなものを自分が手懐けられるのか。
さすがにそこまでは考えなかったけれど、自分の見知らぬ世界に入ることに薄ら寒い怖さを感じた。
胸を占めた、恐怖と希望。そこで急に小指の約束を思い出したら、会いたい気持ちの方が強くなった。
会えないなら会いに行けばいい。簡単な話だった。そのための力をまだ持っていないだけ。
彼についていけば得られるというのなら。
――――絶対に掴んでやる。今度こそ離すもんか。
私は、兄を救うため。差し伸べられた手を取った。




