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裁きの庭  作者: いずれけす
第三章 引き返すための黄金の橋
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手を差し伸べてくれた人



 エメリーが名ばかりの娼婦を始めて1年と半年後。新しいお客がエメリーを名指しした。


 洗って綺麗に乾かせば見事であろう金髪をぼさぼさに跳ねさせ、帽子で押さえつけた男性。身だしなみも崩れきっており、明るい若葉色の眼光が用心深くギラついていた。

 両脇には大量の書物。常連のお客とあまりに違いすぎて、異様に映った。


 27、8歳くらいだろうか。精悍な顔立ちの男性は、こちらの視線をものともせず両脇の荷物をドスンと下ろした。


 エメリーは無造作に落とされた本の一冊を手に取り、しげしげと眺めた。深緑の古びた表紙に金文字が描かれたその本は分厚くて、とても重い。

 ページを開いて、文字を辿る。小さく細かく詰め込まれた文体は言い回しが堅苦しく、何を伝えたいのかちんぷんかんぷんだ。


『気になるか?』


 お客を置いてけぼりにして見入っていたのに気づいたのは、そんな風に呼びかけられてから。

 椅子に座り、テーブル横のチェストに頬杖をついていた若いお客は退屈そうで、だけど瞳はさながら獲物を狙う猫のように真剣みを帯びていた。


『…………?』


 どう答えるべきか迷って、エメリーは無言でこっくり頷いた。

 エメリーの無言の答えを聞いて、男は床に座り込んでいた彼女を軽やかに抱き上げた。


『習ってみるか? 法学』


 唐突な問いだった。


『法を知れば、多くの人を助けられる。身に覚えのない罪で囚われた人間も、何かに悩む人間も。誰でも』


 エメリーが首を傾げたのをちゃんと見たはずなのに、男は平坦な調子で語る。抑揚のない声は、なぜだか熱がこもっているようにも聞こえた。


 エメリーは黙って男の言葉を反芻(はんすう)する。


 助ける? どんな人でも? なんでいきなりそんなことを。


 法って、何?


 まだ8歳だったエメリーが分かるわけもない。なのに男は大真面目な顔で彼女に選択を迫ったのだ。

 男はエメリーを椅子に降ろし、自らは身をかがめて彼女にじっと見入った。鮮やかな虹彩は険しく、真っ直ぐだった。


『もし誰かを救いたいって思うなら、俺が教える。お前が全部理解できるまで根気強く付き合ってやる。お前は賢いはずだ。エメリー。選べるだろ』


 まくしたてられて混乱した。彼の言いたいことはさっぱりだし、なんと答えればいいのか思いつかない。彼が何度も繰り返す『法』の一文字が頭に響くだけだ。


 法とは何者だろう。色んな人を助けられるほど偉いみたいだ。でもそれだけ。あとは、エメリーが選ばなきゃ絶対に分からないまま。

 たとえ選んだとて、法がどこへ導いてくれるのか。…………兄のいる場所まで、連れて行ってくれるというのか。


『…………誰でも、助かる?』

『そうだ』

『おにいちゃんも?』


 口をついて出た問い。もしかしたらと思った。

 もしかしたら。どこかへ行ってしまった兄を、取り戻せるかもしれない気がした。


『兄貴だろーが誰だってできるさ。お前がそうしたいって思うなら』


 お留守番だよと言われた。すぐ帰るからと微笑まれた。

 でも、その『すぐ』はいつ? いくら待ってもその日は来ない。


 ――――もう、待ってはいけない。待てない。


 忘れられるなら。諦められるなら。苦しまないでいられたのに。

 自分がそれを許さないから、こうして抱えて生きてきたのだ。


 エメリーは男を見返した。おもむろに男が無骨な手を差し出す。握り返したら、きっと、多分、この人が力を貸してくれる。

 けれど彼が兄を助け出してくれるわけじゃなさそうだ。兄を助けるのは法の役目で、その法とやらは、自分から近づかないと何もしてくれないようだ。


 できなかったことが、できるようになる。力を与えてくれる大きな存在。そんなものを自分が手懐(てなず)けられるのか。

 さすがにそこまでは考えなかったけれど、自分の見知らぬ世界に入ることに薄ら寒い怖さを感じた。


 胸を占めた、恐怖と希望。そこで急に小指の約束を思い出したら、会いたい気持ちの方が強くなった。

 会えないなら会いに行けばいい。簡単な話だった。そのための力をまだ持っていないだけ。


 彼についていけば得られるというのなら。


 ――――絶対に掴んでやる。今度こそ離すもんか。


 私は、兄を救うため。差し伸べられた手を取った。



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