つきまとう影
「あいつの武勇伝、知らないんですか?」
「武勇伝? 嫌でも耳にするさ」
でっぷりと、下に垂れてたぷたぷ揺れる二の腕。カボチャを妊娠していそうな腹。跳び蹴りをかましたら起き上がれないだろうなと勝手に想像する。
試してみたいが、カボチャ相手に前科がつくのも嫌なのでぐっと我慢。
「最年少の司法試験合格者から始まり、裁判では君を差し置いてしゃしゃり出て、裁判官に覚えられた。今度は例の事件にまで手を出して名を売ろうとする。野心の塊だな。出る杭は打たれるらしいが、あそこまで出すぎると打つ気も失せるわ」
やれやれとゴツい肩をワザとらしくすくめるカボチャ上司。
「ローシェンナ君も情けないね。先輩ならちゃんと調教してやらないと。部下は上司の命令に従うものだ。ヘマされたら尻拭いにつき合わされる。大人しくさせないと、とばっちり食らうよ」
フランソワは目つきの悪い眼を細めた。
「それとも、骨抜きにされちゃったのかな。ダメだよ。若い女の子だからって甘やかしちゃ。――――あの子ぐらいの年齢なら、まだ自分好みに育てられるかもしれないよ」
焼きたい。ライターで焼きたい。脂もたっぷり乗っていることだし、さぞ気持ち良く燃えてくれそうだ。
こんな腐りきった性根の持ち主は、ごまんといる。そんな奴と会うたびに舌打ちするような労働力は持ち合わせていないが、しかし今は5回くらい連続で打ちたい。
「…………俺はね、後輩は先輩を蹴倒すものだと思ってるんです」
巻きタバコの渋い風味が恋しくなった。図書室で堂々と吸うわけにもいかず、フランソワは話すことで気を紛らす。
「なんでもかんでも年上の言うことに従ってんじゃ、いつまでたっても一人前になれない。年寄りじみたことを言いますが、近頃の若い弁護士の連中は張り合いがありません。自分から何も言い出してこないし、先輩のやることなすことが全部正しいと思ってやがる。俺はそこが気に食わないです」
馬鹿正直な人間が自立しても、まともに仕事をこなせるわけがない。これまで何人もの後輩を育てて送り出してきたフランソワだからこそ、感じる不満だった。
「そりゃ教えることは大事ですよ? どんな風にやったらいいかってことは。でもそれだけです。あとは自分が責任を取れる範囲で勝手に動きゃいい」
先輩が教えてくれたことを土台にして、それを乗り越える。自分のやり方を見つける。一人前だと認められたいなら、そのくらいはしてほしい。
フランソワの放任主義には一応、理由があるのだ。決して面倒臭いからじゃない。断じて。
自分の教育方針を語りつくすのは初めてだ。しかもお腹らへんは無駄に柔らかいくせに、頭だけは固い上司に対して、である。
案の定、カボチャ上司が肉づきのいい喉を震わせた。
「勝手にさせた結果が2年前のアレだ。何も残らなかったじゃないか。むしろこちらに迷惑がかかった。それでもヴィリアーズ君は正しかったと?」
2年前のアレ。ヴィリアーズ。フランソワの顔色が変わる。胸の底が、すっと凍えていく。
「あいつがいつ迷惑をかけました? あいつはあいつなりの信念で、」
「娼館に入り浸って泥酔したあげくの凍死。これのどこが迷惑でないと? 弁護連盟に悪い評判が立ったのは君も存じてるはずだ。火消しに大変だったんだよ」
「っ。違うっ」
「じゃあ聞くがね。なんで君こそあの事件を受けなかったんだい? なぜロス君にまわしたのかな」
容赦ない追及が口を封じた。
息を吸うと、冷たい空気が肺に触れた。他はなんともないのに、胸のあたりだけ異様に寒い。
おかしい。
声が出ない。
「なにか………」
言いよどむ彼を遮り、男が代わりに語った。
「『何かあったはず』? なら証明すべきだ。わたしたちの本職だろう? あの事件はヴィリアーズ君と関係がある。新しい事実が見つかるかもしれないのにだよ」
興奮しているのか、声色が高まる。
「それをしないのは、怖いからじゃないのかい。君は認めたくないんだよ。単に遊び呆けた末の死だとしたら………うすうす認めているんだ。でもはっきりさせたくないから向き合わない」
主導権を握れた喜びか、上司の厚ぼったい唇がにんまり歪む。
「あの子にも面白い話があるよ」
立ちすくむフランソワに耳打ちする。
「弁護士になるまで、法学院にも通わないで、いかにして司法試験を通ったか。積もる話はいくらでもある。あの顔でもって審査員を誘惑した、とか………どれから聞きたい?」
君だって知らないでしょ? 言外の皮肉を汲み取り、顔が引きつった。
先輩のフランソワでさえ、彼女は謎めいた存在だ。家族のことも、弁護士になるまでの道のりも、ほとんど聞けたためしがない。訊きたくても答えてくれなかったのだ。
何か、後ろめたい過去があるのかもしれない。人間、誰しも秘密はある。無理に掘り起こす必要はない。
かたくなに口を閉ざすエメリーを見て、フランソワはそっとさせていた。
「うちの子の尊厳をけなさないでくれませんかね」
正直、気になる。
でも彼女の秘密を面白おかしくネタにするのは許せなかった。
「真実だとしたら?」
「真実でも名誉毀損は成立します」
「死者には嘘しか成立しないね」
カッと、頭に血が上った。
「アランはそんな奴じゃない!!」
「うるさいねえローシェンナ君。ここは図書室だよ。静かにしてもらわないと」
カボチャ上司はひるまない。口先で軽々とフランソワをあしらう。
図書室に張り詰める厳かな緊張感が、複数のひそひそ声で破られようとしていた。
どうやら2人の言い争いは、思ったより筒抜けだったらしい。
「にしても君、いい加減タバコをやめたらどうだね。煙たくてしかたない」
落ちくぼんだ目の上の太い眉がひそめられる。
「感傷に浸るのは勝手だがね、周りを巻き込まないでくれるかな。しかもまた量が増えたんだって?」
口さがない上司の小言はしつこく続く。
胸ポケットに入れた巻きタバコの箱を、上司の指が押した。
「命を削ってまで吸うことに何の楽しみがあるんだい? 身体が可哀想だよ。あの子にも叱られてるんだろう?」
フランソワは言い返さない。聞き流しているのか、反省しているのか。別のことを考えているのか。
「沈黙が証明になることもある。覚えておくといい」
言いたいことを洗いざらい吐けた上司は、もうどうでも良くなったようだ。
丸い体格を億劫そうに揺らし、彼の脇を通り過ぎる。
「過ぎたことは忘れなさい。過去は過去なんだから」
とどめを刺して。
フランソワは呆然と立ち尽くした。
「…………あったんだよ。決まってんだろ」
ほこりっぽい紙の匂い。無数の書物は沈黙を保ち、背の高い男を眺める。
あるはずのない視線を避けるように、フランソワはタイル張りの床に視線を落とす。
「アランは、そんな奴じゃない」
言い聞かせる声が、ひどく虚しい。




