1123のお返し
瑠花は、ぼんやりとその窓を見ていた。今は誰もいない、その部屋。何度見ても、いつまで待っても、誰も帰って来ることはないその部屋は、すでに3年その状態が続いている。
瑠花の部屋の窓から、わずか1メートルほどしか離れていないその窓は、今日も無言のまま。
それでもただ毎日、その窓の向こうにいるはずの彼を想い描く。
「今日、お隣お引越しみたいよ」
お母さんが、リビングの窓からトラックを見ている。先月お隣のおじさんおばさんが引っ越してから、ずっと空き家だった。
瑠花は近くの小学校に通う5年生。
「子供がいるみたい。学習机運んでいるわ」
「お母さん、そんな見てなくても、あとでわかるんじゃ……」
「まあね。でも気になるじゃない?」
確かに気になる。お友達ができたら嬉しい。
しばらくすると、トラックの去っていく音が聞こえる。
柔らかいフカフカのお菓子のような雲が、窓から見える。
「私、宿題してくる」
部屋に行くと、引っ越してきたお隣さんの窓をつい見てしまう。
そこには、瑠花と同じくらいの男の子の姿が見えた。じっと見ていると、目が合ってしまい、慌てて逸らす。
(これじゃあ、お母さんと一緒じゃない)そう思うと、妙に恥ずかしくなる。
だけど、その男の子は窓に近寄り、
「今日引っ越してきた風間太一、5年」
そう言うと太一は、ニッコリする。
「よろしくな、お隣さん」
「あ……」
瑠花も窓に近寄る。
「私は、渡辺瑠花。同じ5年」
「同じ学年か!? よかった~」
よかっ……たんだ。そうか。
「よろしくね」
「オレのうち、転勤多いから、あちこち行ってるんだけど、近所に同じくらいの年の子が住んでたことなくてさ」
「ここはきっとそんな心配ないよ。通りを挟んだ向こうにも、小学生住んでいるうちあるし」
「そうなんだ! 楽しみだな~ところで瑠花」
(いきなり呼び捨て?)
「何?」
「お前、勉強得意?」
「まあ、それなりに……」
「何が得意?」
「えっと、国語とか社会かな」
「文系か…」
「オレ、算数苦手なんだよ。わからないとき教えてくれよな……あ、お母さんが呼んでる。じゃ、またな」
そう言って、開けた窓をそのままに、部屋から出て行ってしまう。
(話のしやすい子だな)それが第一印象だった。
クラスの男子じゃ、全く話さない子だっているし、意地悪い子もいる。
だけど、太一はそういう子たちとは違うような感じがした。
瑠花も、そういう子がお隣で、ちょっと嬉しいと思った。
宿題を終えて、階段を下りていくと、母が楽しそうに、バーベキューの準備をしている。
「今日、バーベキューなの?」
「瑠花、宿題終わったなら、あんたも手伝って。お隣さんがさっき挨拶に来てくれてね、意気投合しちゃって、今日一緒にバーベキューすることになったの」
「えっ!? そんな突然?」
「バーベキューなんて、みんな好きじゃない。引越ししたときは、晩ご飯とか大変なもんなのよ。お近づきにはいいと思ってね」
「ふ~ん」
そう言いながらも、さっきの太一のことを思い出していた。
太一は、野球少年で、とても活発な男の子だったけれど、明るくてすぐに仲良くなれた。
何でも話せる親友のように感じることもあったけれど、中学生になった頃、その気持ちは徐々に、恋心に変わっていった。
とは言え、瑠花にはそれを言い出すチャンスなどなく、小学生の頃と全く変わらない日々が続く。
「瑠花、今年は32個だった。去年より上回ったな」
とニヤつきながら、たくさんの包みを見せびらかす太一。
今日がバレンタインデーだってことくらい、瑠花だって知っている。
もう1ヶ月も前から、今年こそは太一に本気チョコを渡したいと思い、手作りしようかと頭を悩ませていた。
だけど、何度も何度も抱えたチョコの数を確認している太一を見ていたら、とても素直にはなれない。
(私があげても、あの中に埋もれるだけだ。太一のバカ)
「あ、そう言えば、今年は瑠花から貰ってないよな?」
よな?……って、貰ったか貰ってないか、覚えてないの?
「そんなにたくさんあるんじゃ、虫歯になるだけだよ。私からなんていらないじゃん。どうせ……義理だし」
そう言って窓を閉めようとすると、
「おい、待てよ」
真剣に見つめられ、思わず手を止める。
「康平たちと勝負してるんだよ。誰が一番貰うかって。だからさ……」
瑠花はカッとなった。
窓のすぐ横にある棚に手を伸ばし、置いてあった袋を掴むと、思い切り太一の窓めがけて、それを放り投げた。
「義理ですが、どうぞ」
そう言うと、今度こそ思い切り窓を閉めて、カーテンまで引いてしまう。
そんな瑠花の行動に、持っていたチョコをパッと離し、窓から入り込んできたチョコを受け取り、首をひねった。
「変なヤツ……」
そしてまた、チョコレートの数を数え始める。そんなバレンタインデーが中学いっぱい続いた。
(もう、ため息しか出ない……)
毎年2月が近づくと、この数合わせ参加バレンタインデーを思い出してしまう。
本当はバレンタインデーって、なかなか自分から告白できない女の子が、告白できるチャンスであり、チョコをあげるだけの日じゃないはずなのに。
今年はもうちょっとラッピングに凝ったり、メッセージカードを入れたりしてみようかな?
きっと自分の努力も足りなかったのだろうと、試行錯誤する。
今までこうやって、本気チョコが義理チョコとして太一の手に渡ったとしても、瑠花はそれでも少しは満足だった。期待されているのは嬉しい。ただ、報われないだけ。
(彼氏になってくれるかな?)なんて考えたこともあったけど、もしフラれた上に、今の関係が壊れてしまっては……という不安もあった。けれど今年は、この想いを伝えたいという気持ちのほうがついに勝った。
もうすぐ世の中は受験で、普通ならこんなことしている場合じゃない。けれど、別々の高校を受ける予定だし、ただのクラスメートでお隣さんの太一が、ただのお隣さんだけになると、共通の話題も一気に少なくなる。自分の知らないところで彼女ができちゃうのかな? と思い、焦る気持ちもあった。
(太一は好きな子がいるんだろうか?)今までそんなことは話したことがなかった。でも、今は彼女がいないことはわかっている。 彼女がいるなら、自分のことを包み隠せない太一のことだから、すぐに気がつくはずだ。
だから自分にも、少なからずチャンスはあるはずだと思っていた。
今年はメッセージカードに、「好きです」なんて書いちゃおうかな? なんて思うと、やっぱり恥ずかしい。
あの山のようなチョコの中に、どれだけの本気が入っているんだろう?
聞くことなどできなくて、ただ気になるだけ。
用意したカードを前に、何度もペンを手に取り、キャップを開けては悩み、悩んではまた閉め、ため息をつく。なかなか書き出せない本当の気持ち。
ただ「好きです」と書けばいいだけなのに、とても簡単に書ける言葉ではなかった。
カードを前に、ただ心臓の音だけが、ドキドキ聞こえてくる。
「あ~、ムリ。ヤッパそんなこと書けないや」
そのままうしろにパタンと倒れ、天井を見上げ、ふぅっとため息をつく。と、窓の外から声が。
「瑠花、いるか?」
ひょいっと体を起こすと、妙に元気のない太一の顔。
「太一? どうしたの?」
太一は、言いにくそうにして下を向いたまま。
「うん。実はさ……うち、引越しするんだ」
瑠花は、一瞬聞き間違いしたのかと思うほど驚いた。
「引越し?」
自分の顔が青ざめていくのがわかる。
「うん、うち転勤族だろ。しばらくは、引越しなしの転勤だったみたいなんだけど……」
「どこに行くの?」
「アメリカ」
「えっ? アメリカって、外国じゃん!! 太一、英語しゃべれるの? 英語、苦手だよね?」
「日本人学校に通うし、会話は自然と覚えるって」
「残れないの?」
瑠花は手が震えていた。
「オレまだ子供だし。親の決めた通りにしないと……それに、あっちに行けば、野球は今より勉強になるって言われたんだ」
太一は、小学生の頃から野球少年で、県内でも指折りのサウスポーピッチャーで、かなり注目を浴びる存在だった。将来は、「大リーガーになりたい」といつも言っていた。
「いつ、帰ってくるの?」
「そんなことはわからない」
「このまま、ずっと帰って来ないの?」
声が震え、自然と涙が溢れてくるのがわかる。でも、その涙を拭うこともできず、自分が子供である壁を感じてしまう。
どんなに好きでも、どんなに離れたくないと思っても、自分ではどうすることもできない、大人が決めたことに従うしかできない歯がゆいこの気持ち。
できることなら、今すぐに大人になりたい。この時ほど、瑠花がそう感じたことはなかった。
大人になれば、一人暮らしだってできるし、自分の生きたいように生きていける。自分の思いを通すことなんて、きっと簡単なはずだ。
「なんでお前が泣くんだよ。泣きたいのはオレの方だよ。そりゃあ、野球はやりたいけど、でも……」
どうすることもできない。太一も、不安と闘っているのだろう。こんな辛そうな太一ははじめて見た。
それは、中学3年生のバレンタインデー前日のことだった。
結局、カードには何もかけないまま、チョコさえも渡せず、中学3年生のバレンタインデーは終わり、直後太一は家族とともに、アメリカへ行ってしまった。
春になり、瑠花は志望校に入学することができた。
学校に少し慣れた頃、太一から絵葉書が届いた。自由の女神の写真。
「志望校合格おめでとう」ただそれだけの葉書。そして連絡は、その一度きり。
瑠花は、絵葉書を胸に、窓を見ながら、ただ涙をポロリと落として、自分の失恋をかみしめていた。
太一にとっては、ただのクラスメートの一人であり、たまたまお隣さんだっただけの、それだけの関係で、それ以上は何もないんだって、瑠花は思い知った。
それから3年が過ぎた。
高校受験の頃が、すぐ昨日のようだ。あの時は、太一のことで凄く悲しい思いをしていたのに、よく合格できたものだと、今にすると不思議に思う。
どうやって受験勉強を終え、合格できたのか、思い出すことできがない。
今は大学受験も終わり、本当なら一息つくところのはずだった。
やるべきことはちゃんとやる。でも、心は3年前のあの日に置き去りのまま、前に進むことはなかった。
だから今日も、太一の部屋の窓を見つめていた。
と、突然開くはずのないその窓がガラッと音を立てて開いた。
「おぅ、久しぶり」
瑠花は言葉を忘れてしまったかのように、目の前に立つ彼を見ていた。
目の前にいたのは、紛れもなく、ずっと思い続けて来た太一で。
太一は、別れたときよりずっと背が伸び、色も黒く、大人びた感じになっていた。ただの野球バカだった少年が、魅力的なスポーツマンになったようだった。
「おーい、瑠花? たった3年で、オレのこと忘れちゃったのか?」
言葉が出ないとは、こうこういうことだ。何がなんだか、わからなかった。
「……忘れたり……するわけ……」
そう、忘れた日は一度だってない。毎日、その窓に太一の面影を見ていた。毎日太一に話しかけるように、見つめていた。
会えなくなれば、この気持ちが薄れていくのかと思っていたけれど、そんなことはなくて、会いたいという気持ちは、どんどん募っていった。
けれどどうすることもできず、ただ、誰もいないその窓に語りかけていた。太一がそこにいて、瑠花の悩みを聞いてくれているかのように。
答えが返ってこなくても、本当は聞いてくれなくても、何か言ってくれるような気がして、ちゃんと瑠花の言葉を聞いてくれているような気がして。
どうしようもないバカだと思う日だってあったけれど、一人で部屋にいると、ついその窓を見つめてしまう。
だから今日だって、こうして窓を開けてみた。そしたら、そこにいるはずのない、太一がいた。
「あ、瑠花にプレゼントがあるんだ」
そう言って大きな包みを差し出す。
「何これ?」
「いいから、開けてみろよ」
紙袋を開けると、一気に甘い香りに包まれる。そこには、キャンディーやクッキーが溢れんばかりに詰まっていた。
「これが、アメリカのお土産?」
「バカ、違うよ。今日が何の日か忘れたのか?」
「今日? 確か……ホワイトデー?」
「そう、これはホワイトデーのプレゼント」
「何で? 今までお返しなんてくれたことなかったじゃん」
すると太一は、バツの悪そうな顔をして、
「オレ……ずっと、野球ばっかだったし、あんま女に興味とかなかったし。バレンタインデーとかも、ホントいっぱい貰って、チョコ食えたらラッキーくらいしか考えてなかった」
「……」
「でも、アメリカに行って、瑠花に会えなくなって、妙に寂しいなって思うようになったんだ。瑠花ならこんな時どうするか? オレがスランプの時、瑠花なら、オレにどんなこと言って励ましてくれるかって考えてた」
「スランプ?」
「そりゃあ、あっちはみんな力のあるヤツばっかだし、オレなんか……とにかく、オレは毎日瑠花のことばかり考えていたんだ」
「そんなに、会いたかったの?」
「オレは、お前が好きだ!」
「な、何? 突然? ……熱でもあるの?」
「なんだよ。オレがどれだけずっと悩んでいたか、瑠花にはわかんないだろうけど、オレが瑠花のこと好きじゃ、何かおかしいのかよ?」
「だって、直球過ぎ」
「ピッチャーだからな」
「太一のバカ」
「……なんだよ。オレ、フラれたのか?」
「違う。そうじゃなくて。私は、太一がその気持ちに気付く前からずっと、太一のことが好きだった。気が付かなかったのは、太一のほうじゃない。手作りチョコあげてたのに……」
すると、窓を飛び越えて、太一が瑠花の部屋に入ってきた。
「太一?」
ギュっと抱きしめられた。力いっぱい。
瑠花は、何もできずに、ただ抱きしめられていた。
「お前、柔らかいんだな」
「えっ?」
「お前がこんな柔らかくて、細っこいって今まで知らなかったよ」
「何、言ってるの?」
「だけど、これからはもっと瑠花のことを知りたい。友達じゃない、彼女としての瑠花のことを……」
そう言うと、太一は瑠花の顔を覗き込む。間近で見つめられると、妙な緊張を感じてしまう。
1メートルの窓越しだった距離が、数センチに縮まり、息がかかるような距離。
「返事は?」
「返事って?」
「オレの彼女になってくれるか?」
「うん」
(嬉しい)瑠花は、心からそう思って、笑顔を向ける。その瞬間、数センチあった距離がさらに縮まり、唇が塞がれる。
あんなにずっと想い続けていた太一からの告白とキス。瑠花は、ドキドキしていた。
(ずっと、太一のことを待っていてよかった)そう考えていた。
ふっと唇が離される。すると太一が凄く困った顔をしている。
「どうしたの?」
「やりたい」
「えっ!?」
「瑠花はしたくないか?」
「ちょっとそれ、ストレート過ぎでしょ?」
そして、そのまま後ろにあったベッドに押し倒されてしまう。
(太一ってこんな本能むき出しだったの?) とは言え、抵抗などできない瑠花は、彼の心を知った、たった数分後には、彼に全てを捧げることになった。
袋の中のキャンデーたち。会えなかった日数分の、1123個の思いがぎっしり詰まっていた。
~fin~