道ならぬ
恋をした。
狂おしく、ただ一度。
* * *
兄は春のようなひとだった。
物静かで人当たりがよく、大きな声などひとつも出さない。かと言って存在感が薄いかといえばそうではない。不在であれば誰もがすぐそうと気付く。そしてやって来るのを待ち望む。そんなひとだった。
幼くして母を亡くした私は、忙しい父に代わってその兄に育てられたようなものだった。彼はいつも穏やかな陽射しのように、そっと私を見守ってくれていた。
年が離れたいたとはいえ、その時分は兄もまだ子供だ。わがままを言いたい事だってあっただろう。でも私は兄が嫌な顔ひとつ見た事がない。なんとも出来過ぎた子供で、きっと強く自分を律していたのだと、今ならば想像がつく。
線の細いひとだった。
まぶたの裏に浮かぶその微笑は、どれも儚げな印象ばかりがある。元々体の強いひとではなかったのだ。
そして私はそんな兄に、とうとう甘えるばかりだった。
冬の夜の斎場は、冷え切って寒い。
人気が絶えているのもあるだろう。一緒に泊まる事になった兄嫁は、布団の中で穏やかに寝息を立てている。
強い人だった。
兄の葬儀一切の手配をただひとりでやってのけて、疲れた顔など少しも見せない。確かに悲しみは滲ませるけれど、弱さもまた、そこにはまるでなかった。
兄を春とするならば、兄嫁は夏のような人だ。苛烈に春を退けて、その後を引き継いでいく。
ふたりの間には子がなかった。
幸運なのか、不運なのか、私には量りかねる。
ただ言えるのは、彼女は兄がいなくとも、一人で立って独りで歩いていけるだろうという事だ。
いい人だとは思う。
けれど兄の選んだ人というよりも、兄を選んだ人という印象が、最後まで拭えなかった。
これまでの伝に沿うならば、私は冬であるだろう。
春に近しいようでいて、その実もっとも遠く、しんと冷え切っている。
明け透けに情の強い子だと言われた事もある。何事も自分の感覚にかたくなで、強く覚えた事は決して忘れない。表情に乏しく、感情を表さない。私はそんな人間だった。
情が無いのではない。起こった心のうねりを自分の中で凍らせてしまう。それが私の性分だった。誰に習ったのでも倣ったのでもなく、天然自然に備わった性質だった。
氷結は、しかし忘却を意味しない。
火が燃え盛るには燃料をくべる必要がある。けれど凍りついたものは、それ以上何も必要としない。凍てついたうねりは抱いたその時の鮮烈さのまま、ずっと私の中にある。
ほんの一時だけ燃え上がる炎よりもずっと熱く、熱量を保ったまま、いつまでも。
だから私が情動に基づいた行動を取れば、その落差の分だけ、周囲はそれを突飛とも奇異とも見るのだろう。
そんな激情から、一度だけ兄と手をつないだ事がある。
隣で宿題を見てもらううち、はっと気付いたら私は私の手の中に、彼の手を捉えていた。兄はいつも通りの優しい瞳で、私のする事を見つめていた。
私はその目を真っ直ぐに見返して、視線を絡めたまま、指を絡めた。
体温が交じり合う。冷たい私の指先が兄のぬくもりを吸い取って、ふたりの温度が混じり合う。兄の肌はさらさらとすべらかだった。鼓動は早鐘のようで、誤魔化せずに吐息が乱れた。
本当はどれくらいだったのかは判らない。
私にとっては永劫に等しい時間だけ、ふたりはそのままでいた。
そして。
それ以上はなく、それからもなかった。
やがて兄は、私と父に結婚を告げた。
この慕情は二度と面に表さず、凍りつかせておこうと、その時に決めた。
幾度目だろう。
私は花籠で飾り立てられた、兄の褥へと赴く。化粧を施してもらった所為か、その顔に苦しみの後は見えない。死して後にも己を律しているようで、私はその穏やかさがひどく悲しい。
「人はね、自分の一番愛した季節に死ぬんだよ」
ふと過ぎったそれは、兄の言葉だ。
父の葬儀を終えた後、兄はそっと呟いた。今と同じく、冬の事だった。
「母さんの季節は冬だって、そう父さんは言っていた」
仏壇の上に遺影をおいて、それから彼は振り返る。
仏間の障子越しに、小春日和の淡い陽射しが差し込んでいた。
「母さんの事はあまり覚えていないけれど、冬なら分かる。孤高で、強くて静かで寂しくて。暗い場所で一生懸命頭を背伸びをしているようで」
──どこかお前に似ているね。
ぽんと私の頭をひと撫でして、兄は寂しく笑う。
そんな兄の死に顔を見つめて、私もまた寂しく笑う。
そして思う。
恋を、した。
狂おしく──ただ一度。
だから。
私はきっと、春に死ぬ。