第九話 中絶発言、そしてー (後編)
叶伊織、援助交際説。
湊に聞くまでは噂のウの字も知らなかった俺は、クラス内にもその手の噂が存在する事に衝撃を受けていた。
「俺も聞いたことあるぜ。叶が頼まれれば中年男とデートするって」
「でもって妊娠、中絶? ダメじゃん。ちゃんと避妊しないと」
「ふけつ―!」
湊の方に助けを求めて視線をやるが、湊は我関せずとばかりに、窓の方に目を向けている。
騒ぎの発端となった相田沙耶も、最初の発言以来つつましく沈黙を守っている。そのポーカーフェイスから何を考えているかは読み取れない。
「オレ、今度頼んじゃおっかな。叶さん、オヤジ専じゃないっしょ」
「むしろ金だろ、金」
「手術台は男持ちってか」
「やだ。あんた達。やめなさいよ。叶さん、可哀想じゃない」
「可哀想なのは、お腹の赤ちゃんじゃん」
「あ、あ〜〜え〜」
そこで、担任が咳払いをする。
「キミタチ、キミタチ。その手の話題に興奮するお年頃なのは分かるが、いい加減な噂で人を貶めるような事を言うのはヤメマショウ」
何がヤメマショウ、だ。
この教育実習を済ませたばかりのような年若い担任は、生徒受けを狙っているのか、単に最初から精神年齢が高校一年生と同じレベルなのか、ふざけているのか何なのか分からない注意の仕方をする。
妙にくだけた喋り方といい、友達感覚で生徒に接して「わかる」先生を気取りたいのだろう。
結果、生徒が増長する。
「違いま〜す。中絶について真面目に議論していたんで〜す」
「先生は中絶についてどう思いますか? 賛成派? 反対派?」
「う〜ん。赤ちゃんにも人権はあると思うけど、母親の事情もあるからなぁ」
そこで応じるなよ、担任!
あんた一昔前に、ニュースを騒がせた、どっかの中学の葬式ごっこ・自殺事件の教師と、ぜんぜん変わんねぇぞ。
生徒と一緒に悪乗りでしてどうすんだよ。こういう時こそ毅然と生徒をいさめて見せろよ。卑しくも教師だろ。
「先生は賛成派にも反対派にも一理あると思うな」
クスクス笑いが、さざ波のように広がっていく。
「たとえば、ほら。母親がレイプの被害者だったり、未成年だったりすると」そこでどっと笑声が沸きあがる。「やっぱり産むのは難しいと先生は―――」
-−−バン!
と場違いに大きな音がクラス中に響き渡り、担任は黙った。笑いもやんだ。
俺が机に両の拳を叩きつけて、立ちあがった音だった。
「叶伊織はっ!」
俺は叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「遊んでなんかいない! 援助交際もしていない! 中絶もしてないっ! 彼女のことを何も知らないくせに、よってたかって勝手な事ばっか言ってんじゃねぇよ」
「あ、いや、先生は―――」
俺は一指し指をびっと担任につきつける。
「あんたが一番悪い! 本来なら止める立場にあるくせに、なに尻馬に乗って、えげつないこと言ってんだよ。てめぇら、みんな、叶伊織に謝れよ……謝れっ!」
感情のままにまくしたて、肩で息をする俺。
気づけば、クラス中の視線が俺に集まっていた。
その鳩が豆鉄砲をくらったような視線の群れのただ中にあって、俺の高ぶりは、ゆっくりと冷えていく。心臓の音が小さくなっていく。
静寂が戻ってくる。
耳に痛くなってくる。
俺は教壇に立つ教師につきつけた人差し指を、所在なさげに下ろした。
担任は、それで我に返ったのか、また咳払いをした。
「あ、その、なんだな…そういうつもりはなかったんだけど、先生も脱線して無神経な事いっちゃったみたいだな、うん。高橋、ごめんな。叶にも悪いことしたよ、うん」
また咳払い。
「じゃ、叶のプリント、けっこう溜まってて…クラス委員に持っていってもらおうと思ってたんだけど。やっぱ仲のいいお前に持ってってもらう事にするわ。頼むな、高橋」
−ーーこうして俺の叶伊織に対する気持ちはクラス中の知る所となったのであった。
と同時にこれが、俺が今現在、叶伊織宅の玄関に立っている理由でもある。