第八話 中絶発言、そして− (前編)
叶伊織に対する俺の気持ちが、果たして本当に恋であったのかどうか。湊のいうように、俺はただ単に恋愛ごっこを楽しんでいただけなのか。
そういった事を悶々と考え続けて数週間。
結論から言えば、やはり俺は好みの外見を持つ叶伊織に勝手な理想を重ねていただけなのだろう。
恋の熱病は冷め果てて、俺の心には木枯らしが吹いていた。だけれども、残された傷だけは、本物の痛みを伴って俺の心を苛み続けた。
確かに言い方は酷かったけれども、彼女の指摘は妥当だったのだ。俺は叶伊織本人を好きであったわけではないのだから。
だとしたら、図星をさされた逆切れした俺が、叶伊織に対して放った言葉は、どう考えても不当なものだろう。
―――誰もあんたを好きになったりなんかしねぇよ
―――俺が変態の勘違い野郎だったら、あんたなんて、ただの社会不適合者じゃないかっ!
叶伊織の心無い指摘とは違う。それらは、相手を傷つけるためだけに放たれた言葉だ。
自分が負わされた傷を相手にも負わせねば気がすまなかった、俺の卑しい心根がそう叫んだのだ。
彼女の表情が俺の脳裏に焼きついて離れない。
俺が傷つけた叶伊織の表情。それが俺の作り出した幻影であるかどうかはこの際どうでもい。
一つだけ確かな事。俺は叶伊織に謝らねばならない。
許してもらえなかろうが、たとえ無視されようが、それが筋というものだ。
この決意は告白を決めた時以上の覚悟を要したが、実行には問題があった。
俺の勇気が足りなりなくて言い出せないでいるとか、きっかけが掴めないとか、そういうレベルの問題ではなく、それ以前の問題として当の本人が学校に出てこなかったためだ。
叶伊織は、俺を振った翌日は平気の平左な顔で登校してきていたくせに、それ以降ぷっつりと登校して来ない。
毎朝からっぽの斜め前方の席を確認しては、今日もまた欠席かと落ち込むのが俺の朝課になった。
病気か事故か。身内の不幸か。
そういう可能性で頭を満たしながら、俺は一人やきもきしていた。
まさか俺が言った言葉に傷ついて…なんて事はないよな? だってその翌日には学校きてたし。俺が原因だとしたら翌々日から欠席しはじめるなんて変だ。
しかし、ひとたび鎌首を持ち上げた疑念は、なかなか払拭できない。
まさかな、と思い続けて数週間。
まるで、それが俺に対する罰であるかのように叶伊織は学校を休み続けている。
普通なら仲のいい女子などに聞けばわかるのだろうが、残念ながら叶伊織にそんな人間はいない。女子に限らず、彼女に友達などいない。
彼女はクラスで孤立した存在だった。
叶伊織は俺自身を身をもって経験したとおり、お世辞にも人当たりが良い方ではなかったし、話しかけた人間を無愛想にあしらう事も少なくなかったので、あえて自分から彼女に声をかけるものは連絡事項を伝えるクラス委員くらいなものだった。
叶伊織自身も友人を作ろうとする素振りはなく、その硬質な美貌もあいまって、叶伊織の周りには一種近寄りがたい雰囲気があった。
だからこその、『孤高のクールビューティー』であったのだ。
叶伊織は…そう、言うなれば一匹狼だったのだ。
そして、一匹狼とは敵はいても味方はいない。そういうものだ。
兎にも角にも、そういう訳で俺は進展のない日々を続けていたわけだが、それはある日のホームルームの時間にやってきた。
「せんせーい」
「なんだ、清水?」
お忘れの方も多いと思うが、清水とは湊の苗字である。湊は俺の自称『大親友』であるばかりでなく、俺のクラスメートでもある。
「叶さんがずっと休んでますけど、どうかしたんですか?」
じめじめと悩むばかりの俺を見かねた湊の友情か、あるいは何の進展もない展開に飽きただけなのか、はたまた純粋な好奇心か。
理由はなんであれ、面と向かって担任に聞く勇気がなかった意気地なし俺が、心の中で湊に喝采を送ったのは言うまでもない。
「ああ、そのことか」
と言って頭をカリカリする担任。
「何も届けは出とらんしな。実をいえば先生も良くは知らないんだ」
なんということだ。担任ですら知らなかったのだ。
「それって職務怠慢ていうんじゃないですかぁ」
とクラスの一隅から声が上がる。俺も心の中でその意見にめいいっぱい賛同した。
担任は自己弁護の必要性に駆られたのか、この場で話すべき事でない事まで口をすべらした。
「電話しても繋がらないんだから仕方ないだろう」
「つながらないって?」
これは湊。
「電話番号を変えたか、回線を止められたか…」
そこで突如として己の職分を思い出したのか担任は、はたと口をつぐんだ。
「…と、とにかく、先生だって知りたいくらいなんだ。お前らの方が何か知っとるんじゃないか?」
と今度は方向転換を図る。
我が担任ながらなんとも無思慮かつ無分別な教師だ。叶伊織の欠席に関する情報が得られたのは嬉しいが、普通、生徒の個人情報をこんな風にクラスの前で話すものではないだろう。
「ええ?叶さんの欠席の理由?知らないよぉ。ねぇ」
「うん。知らな〜い」
「分かりませーん」
「ていうか、話した事ないしぃ」
そういう声が散発的に上がる中、一人の女子の声が一際大きく響いた。
「中絶手術だったりして」
俺は思わず上半身を180度回転させて発言者の顔を確認せずにはいられなかった。
どんな不良女子高生がクラスに紛れ込んでいたのかと思った。頭と底意地の悪そうな顔を予期していた俺は、そこにクラスの有名人の顔を見つけて、驚愕した。
発言者、相田 沙耶。
クラスの成績は上の下。決して馬鹿ではない。一見して、そこまで性格の悪気な顔をしているわけでもない。
むしろ器量はいい。すこぶるいい。
美女多し、と言われる三組の中で、叶伊織に次いで―――つまりクラスで二番目に―――顔がいいくらいだ。
もっとも叶伊織がキレイ系ならば、相田は小動物的なカワイイ系であり、タイプが違うから同列に論じることが出来るかどうかは疑問だ。
湊に言わせれば、二人の間には好みの差くらいしか開きはなく、むしろ総合点で言えば、圧倒的に相田の方に分があるらしい。
俺としては断然、叶伊織の方がいいと思うのだが……すくなくとも外見は。
俺のように好みが偏っていない日本の平均的男子には、守ってあげたい可愛い子ちゃんタイプの方が受けがいいそうなのだ。
小柄で明るくて、しょうしょう小悪魔的な感じがするのも、湊的見解でいえば男の庇護欲と征服欲を掻きたてるチャームポイントという事になる。
とにかく、クラスのマドンナ的存在が『中絶』の二字を口にした事に俺はぶったまげた。しかも言及されているのは俺のマドンナ…否、元マドンナ叶伊織なのだ。
一瞬、静寂を呑んだクラス一同だったが、やがてそこここからクスクス笑いが上がり、大きくなっていく。
「えぇ? 中絶? なにそれ、ホント?」
「ああ。それ知ってる。叶さんが、遊んでるって話ね」
「遊んでるんじゃなくて、エンコーじゃなかった?」
「ウソ!叶ってそうなの?」
集団の愚かしくも恐ろしいところは、こういうところだ。ちょっとした発言で、いともたやすく誘導され、勝手に盛り上がっていく。