第六話 団欒の食卓
晩御飯の味なんて、これっぽっちも分からなかった。
家族と一緒に食卓を囲んでいる手前、機械的に箸を動かして食い物を口に運んでいる訳だが、飲み込む度に喉がつまりそうな感覚におそわれる。
「いやぁ、やっぱ、おばさんの料理はうまいなぁ。もう毎日食べに来たいくらい」
「あら、湊くんこそ口が上手いから、おばさん作り甲斐があるわぁ」
湊と母親の能天気な会話を聞いていると、さっきの湊とのやりとりが嘘のように思えてくる。
「お世辞じゃないっすよ。ホントです。ほら、オレって一人暮らしだから、お袋の味に飢えてるっていうか」
つい先程、あそこまで口汚く人の事をののしっておいて、よくここまで豹変できるものだ。
それに答えて「もう湊くんだったら、毎日食べにきてもらっても構わないわよ」とか言っている母親も母親だ。
「葉なんて何出しても反応なしなのよ。果てには母親の手料理より、マックで食べる方がいいとかいうのよ」
「そいつぁ、ほら、今あるものの有難みに気づけないというヤツですよ。失って始めて気づく…本物の幸せはいつも身近にあるってアレ、なんて言いましたっけ?」
「幸せの青い鳥、じゃないか?」
口数の少ないウチの親父まで会話に参加させるとは。
恐るべし、清水湊。
「そうそう、それ。さっすが、おじさん」
そこで意味もなく笑い声を立てる三人。そんな様子を横目に見ながら、俺は人知れず溜息をついた。
なぜか腹を立てているというよりは、いたたまれない気分だった。俺の脳裏は、俺を素通りしていく家族の団欒ではなく、先刻の湊との会話でいっぱいだ。
あながち叶伊織の援助交際疑惑のためだけではなく、あの時の湊が普通の様子ではなかったためだ。
―――『汚い』って、大上段にかまえて見下して
―――本当の叶なんてこれっぽっちも
―――その『汚らしい』事をしてる彼女の気持ちなんて
俺は、ちらりと俺の隣で喋り続ける湊を盗み見て、思う。
本当は、そこに入るべき主語は、『叶』じゃなくて、『彼女』でもなくて、『オレ』じゃなかったのか?
―――お前はオレの言う事より、てめぇを『気持ち悪い』呼ばわりした女の方を信じるわけだ
ひょっとして俺は、湊を………きずつけた?
「だ、からぁ。ホントだって。おばさん、美人だって。あと十歳ぐらい若かったら、もうオレ、アタックしちゃいたいくらい」
やはり俺の勘違いかもしれない。
…でも俺は知っている。コイツが意外に傷つきやすいやつだってことを。
「やだもお、湊くん。ほんっと、お上手」
だから、ほんっとに社交辞令なんだって。まんざらでもなさそうな顔をするなよ。恥ずかしい。
「いや、それはやめといた方がいいぞ、湊くん。尻にしかれるぞ。おじさんのようにな。はっはっはっ」
だからさ。口数の少ない不精者の俺の親父はどこ行ったんだよ。キャラ変わってんじゃん。
「あ、葉。そこの醤油とって」
「…自分で取れば?」
「なぁに? その態度。母親に向かって、それはないんじゃない?」
「そうだぜ、葉くん。母親っていうのはなぁ―――」
そこで出産の苦しみから育児の大変さまでをトクトクと語る湊。
俺は、醤油をとって、母親に渡した。
「葉ったら、不機嫌ねぇ。折角、湊くんが来てくれているのに」
むしろ、だから、なんだよ。
「ごめんね。湊くん。葉ったら一人っ子で甘やかされて育っちゃったから」
育てたの誰か忘れてねぇか?
「ワガママで自分勝手で…この前だってねぇ」
と、俺の失敗談をなぜか嬉々として語りだす母。思春期の男子にとって友達間でのメンツや体裁がどれだけ大事かなんて少しも分かっちゃいないんだ。この人は。
俺をピエロにして盛り上がる家族の団欒。
まるで俺一人のけ者みたいに。
まるで湊の方がこの家の一人息子みたいに。
「もう、湊くんの方がウチの息子だったら良かったのにねぇ」
「それはもう、おばさんの息子なら喜んでなりますよぉ」
ガタン、と場違いに大きな音がして雑談が途絶える。みんなの視線が俺を向く。
俺が席を立ったからだ。
「ごちそうさま」
「な、なぁに? まだ、たくさん残ってるじゃない」
「葉。食べ物を粗末にしたらいかんぞ」
俺は無言で食器を持って、暖簾をくぐり、台所の洗い場に立つ。
なによぉ、とかいう不満気な声が背後で沸き上がるのも束の間、ほどなく三人は俺のことなどすっかり忘れて自分達の団欒に戻っていく。
俺は、洗い場の前で食器を持って立ちつくしたままだ。
皿を流しに置こうともせず、突っ立ったままだ。
きのう叶伊織にふられた。
それで叶伊織にひどいこと言った。
俺は叶伊織を傷つけたらしい。
きょう湊を怒らせた。
俺は無神経なことを言ったらしい。
俺は湊を傷つけたらしい。
俺は、洗い場の前で食器を持って立ちつくしたままだ。
少しでも動くと、目の縁まで盛り上がった涙が、こぼれるような気がしたから。