第五話 品行方正な葉くんとしては
「お〜い。葉くん?聞いてる?」
もちろん俺には、場違いに能天気な湊の声は聞こえていた。むしろ頭の中でいましがた落とした湊の爆弾発言にエコーがかかっていたほどだ。
エンジョコウサイ。
叶伊織とその言葉は俺の中では真逆に位置している。そう、たとえ「心優しき」の部分がとれたとしても。
だから、俺は聞き間違いではないのかと疑った。いや、正確には願ったのか。
「……彼氏、じゃなくて?」
「そ。不特定多数のオジさん達を彼氏とは言わないだろ?」
「と、年上の彼氏とか」
「だから不特定多数だって」
「……ブルセラじゃなくて?」
「ブルセラだったら、いいのかよ?それにブルセラとエンコーは違うだろ」
俺は俺の頭の中にある薄っぺらい辞書から、必死になって「援助交際」という言葉の意味をあさった。
「でもほら、カラオケボックスとかで、歌うだけとか…お話するだけとか…」
「スカートたくしあげたりとか、お触りさせたりとか、サービスしちゃったりとか?」
見事に撃沈された俺の情けない表情に向かって、湊はなんとも楽しそうに追い討ちをかける。
「それに、さ。中年オヤジとホテルに入っていったっていう目撃情報もあるしね。たぶん内実はもっとヤラシイんじゃない?」
「実は…オヤジは実は父親とかで、ホテルには――――」
「食事にってか?……葉くん、どっかの三流小説みたいなこと言ってないで、いい加減、現実を見ようよ」
俺は必死になって、反論を探す。
「だったら、おまえは自分の目で見たのかよ。自分で確かめたのかよ…叶伊織が、その、エンコーしているトコ」
「いや」
「それみろっ!」
と俺は勝ち誇ったように叫んだ。くどいようだが、階下にいる両親のことなど頭からぶっ飛んでいる。
「憶測や伝聞で、いい加減なこと言うなよ」
どこかで聞いたような台詞を言う俺に向かって、湊は哀れむような目すらした。わざとらしく溜息をついて、湊は肩をすくめる。
「そりゃ、ヤってる現場は見ちゃいないよ。つか、見てたら、むしろ問題だよな…でもよ、信頼性の高い情報だぜ。俺の友達の美加ちゃん―――あ、彼女もそういう事やってるんだけど―――が見たっていってるんだよ。叶がオヤジと一緒にホテル入っていったとこ。ラブホじゃなかったみたいだけど」
湊の友達?援助交際をやってる子?
俺の頭の中に、なぜか一世代前のガングロ山姥の女子高生が浮かんだ。「だっちゅーの」とかいう低脳そうな宇宙語がそれにかぶさる。
「…なんだ」
俺は強がる。必死に強がる。
「やっぱり、ただの又聞きじゃないか。それにそんな子のいう事どこまで信じられるか」
軽蔑も露にそう言うと、湊の顔から笑いが、すとんと落ちて消えた。
さっきまで下品な言葉を連発して俺をからかっていたのとは、まるで別人の表情。
微笑いを含んだ猫の目とも違う。もっと冷たい、もっと鋭い…
「へぇ? さっすが学校の成績以外は優等生の葉くん」
からかうような口調は変わらずだが、もはやそこに軽口の温もりはない。
「オレみたいなナンパ男や、その友達の尻軽女子高生の言う事なんて聞く耳は持たないってか。いやはやはや…まったくご立派だよ。葉くんは」
湊は…ひょっとして…いや、ひょっとしなくても、怒ってる?
「尊敬するよ。この期に及んで、お前はオレの言う事より、てめぇを『気持ち悪い』呼ばわりした女の方を信じるわけだ。あんなに、こっぴどく振られたのにぁ。よっぽどの聖人君子でもなければ出来ない芸当だ」
叶伊織の一件いらい、まだ癒しきれてない胸の傷口がうずく。
「でもま、当然だよな。だってお前は本物の叶に惚れていたんじゃなくて、自分が勝手に作り出した偶像に惚れていたんだから」
俺は黙っていた。頭の中では、叶伊織の台詞にリフレインがかかっている。
―――君だって私のこと全然知らないはずなのに、いきなり好きって何?
あの時と同じように俺は言葉を返せなかった。
「叶がお前に怒ったのも分かるような気がするよ。だって、お前は自分の中の偶像に舞い上がってるだけだもんな。本当の叶なんて、これっぽっちも見ちゃいない。今だって叶がエンコーなんて汚らしいことする筈ないって思ってるんだろ。その『汚らしい』事をしてる彼女の気持ちなんて考えもせずにな。汚いって大上段から見下ろして、都合の悪い現実にはすべて目をつむる。まったくもって賢い生き方だよ、葉くん」
湊が俺に対して本気で怒ったのは、これが初めてのことだった。
「お前の中の叶は、きっと性欲もなければ便所にも行かないんだろう? お上品で純情で清廉潔白なお姫様。性体験はせいぜいキス止まりで、エンコーって言葉聞いただけで妄想に顔を赤らめるような『清純』派…そう、てめぇの女版みたいな奴だ。まったく、自分のそっくりさんに恋して鼻息荒くしてりゃ世話ない…なぁ、そういうの、なんていうか知ってる?」
くつくつと湊は笑いながら言葉を次いだ。
「自慰」
とん、と湊は硬直して動けない俺の胸をノックする。
「そいつを邪魔されたのを失恋と勘違いしてるって寸法だ。エンコーよりは自慰のほうが品行方正だと思っている葉くんとしては、ね」
俺はやはり動けずにいた。何を言えばいいのか分からない。
どうして湊が怒っているのか、なんでここまで言われなきゃならないんだとか、色々な事が頭をぐるぐると回っていたけれど、そのどれ一つとして口に上らせることは出来なかった。
結局、ぎこちない沈黙を破ったのは階下からの母親の大声だった。
「葉〜、湊くん〜、ご飯よぉ。下りてらっしゃ〜い」