第二十五話 『信じてね』
――二十分後。
「はー……」
クション。
鼻をすする。さすがに寒い。
「あーこういう場合はやっぱり、お礼をいうべきなんでしょうね。いちおう言っとくわ、ありがとう」と叶伊織。
俺がポカンとした顔をしいると、「なに? またこの前みたいに取引材料にしたいの?」と聞いてきた。
「いや、てっきり『誰も頼んじゃいないわよ』って言われるかと思った。でもコーラじゃなくて、せめて水をかけてくれれば良かったのになぁ」
と俺は、台無しになった一張羅に見えない一張羅を見下ろした。
もう一張羅ではない、ぜんぜん一張羅にみえない一張羅。
「コーンポタージュじゃなくて冷たい炭酸をかけただけ、向こうにも理性が残ってたってことでしょ……もっともポタージュだってもう冷めてただろうけど」
事のテンマツはこうだ。
叶伊織の発言にキれた女王様の取り巻きその二、斉藤さんがコーラつかみあげて叶伊織に向かって浴びせかけようとした所、俺が介入して代わりにぶっかけられたと、そういうわけだ。
見事に頭からぶっかけられた特大サイズのコーラは、髪となくシャツとなく濡らして、べたついて気持ち悪い。
「どうでもいいけど、さっきからその気色わるいニヤニヤ笑いどうにかなんないの?」
「いやぁ、実はこういうシチュエーション結構あこがれてたんだ。俺、ひょっとしてちょっとカッコいい?」
「仮に少しはそうだったとしても、たぶん今の発言で差し引きゼロになったと思うわよ」
「じゃ、わざわざ身をていして庇わなきゃ良かったかな、叶さんが炭酸かけられた姿ちょっと見たかった気もするし。だって今日、Tシャツ一枚で――」
調子にのって、思考にフィルターかけずに口に出してしまった俺。
『最低』とか『変態』とかいう反応があればまだ救われたのだが、ブリザードのような視線がかえってきて俺は『すみません』と謝った。
う、凍死しそうだ。
「じゃ、湊……清水湊の事は本当に知らないんだ」
「知ってるわよ」
「え!?」
「クラスメート……まぁそれ以外の関係だったとしても、あんたやさっきの連中に説明する義理はないとおもうけど」
それはそうなんだけど、分かってて心臓に悪い言い方をするのは良くないと思う。
でも良かった。きっと相田さんは何か勘違いしているに違いない。疑問はのこるが、それでも良かった。
そうだよ。考えてみれば、湊が叶伊織のことを好きで、しかも俺に遠慮してるなんて、そんな馬鹿な事あるわけないじゃないか。
大体あいつがそんな、いじらしい性格をしてるもんか。
――本気にだけはなるなよ。
俺は思考の方向転換をはかって、つとめて明るい声を出した。
「でもまさか天下の相田さんのこと知らなかったとは、さすが叶さん。しっかし、おかしかったな、『何さん?』ていわれた時の相田さんの顔。鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔してたよ……ある意味ちょっと気の毒」
「知ってたわよ。名字くらいは」
あ、そうなんだ。確信犯だったんだ……
しかし湊でさえ苗字を覚えてもらってて……まあ、相田さんほどじゃないにしろ湊もあれで有名人だから不思議じゃないんだろうけど。
って待てよ。
つまり覚えられてなかったのは俺の名前だけかい。
ふと、不安が胸をかすめた。
「叶さん、俺の名前おぼえてるよね?」
「………高橋?」
間が気になるな。しかもまだ疑問系。
「下の名前は?」
「……」
ああ、お約束だ……。
■
ばつが悪くなったのか叶伊織は方向転換をはかる。
「それはそうと、さっさと脱ぎなさいよ」
「叶さんのエッチ」
「……」
「ああ、ごめんなさい! 脱ぎます、脱ぎます!」
三階のお手洗いには、女性用と男性用のほかに、最近市の方針で導入・普及されたバリアフリー、障害者用手すり・ベビーベッド完備の『家族用』という間取りの広い個室トイレがあって、俺たちが今入ってるのはまさにそこだ。
ああ、コホン。
個室。
そこはトイレで、便座が椅子で、俺なんか炭酸ずぶぬれで、とにかくロマンもへったくれもないんだけど……二人っきりで個室というのは、なんというか急展開というか、むしろ斉藤さんアリガトウというか……
はい、そうです。さっきから相当テンパってます。
叶伊織はベビーベッドの上においた百円ショップの袋をあさっている。
彼女なりに責任を感じてくれているのか、さっき最寄の百円ショップに走って代わりのシャツなり中性洗剤なり酢なりを――なぜ酢なのかは俺に聞かないでくれ――買ってきてくれたわけだ。
「というより、なんでまだ脱いでないわけ? 脱いでぬるま湯につけとけっていっといたでしょ」
と、叶伊織はまるで俺の母親のように俺をしかった。
いやだって、もし万が一叶さんが戻ってこなかったら、俺は上半身裸で――あるいは完全ずぶぬれの服を着用して――マックを歩き出ることになるわけで。
それに、その、なんというか仮にも妙齢の女の子の前なわけで……ってオヤジか、俺は。
「なに? ひょっとして照れてる訳? なにも下を脱げっていってるわけじゃないんだけど……誰もあんたのハダカなんかに興味はないわよ。ただ、そのシャツ早いうちに処理しないと取れなくなるわよ」
ここまで低い温度の声で言われると、なんか傷つくな。
俺は脱いだが、じっさい彼女は眉ひとつ動かさなかった……傷つくな。
彼女は俺から服を受け取ると、温度調整した水を張ったシンクに投げ込み、中性洗剤をぶちこむと、洗い始めた。妙に男らしい洗濯姿だが、ある意味とても手馴れてる。
「男のハダカなんて見慣れてるし。変に照れられると、こっちがやりにくいわよ」
「……見慣れて、るんだ」
叶伊織は手を止めて、俺を振り返った。
「ああ、今のは父親や弟のトランクス姿っていう意味だったんだけど……なるほどね、そうとるわけか」
その口調は、取り立てて俺を責めるふうではなかったけれど。
俺を見る目はどこか遠く、一瞬ちぢんだと思った距離はもうはるか彼方だった。
俺は、いま失言をした。
たぶん、告白して振られた時以上の失言を。
「あ、俺……ごめん! ホントごめん!」
「ううん、全然」叶伊織はそういって元の作業に戻る。「気にしてないから」
「……」
そんなつもりじゃなかった……なんて言えなかった。
だって、俺は確かにそういうつもりで言ったわけで。
疑問を抱いているわけで。確かめたいと、ずっと思っていたわけで……
俺は彼女の背中から視線をそらし、床に落とした。
「……エンジョコウサイ、してるの?」
かすれた声でかろじて放てたその問いは、せまく空虚な空間に奇妙に大きく響いた。水洗いの音が止まる。
否定してほしかった。
してない、と言明してほしかった。
それを聞くことでひっぱたかれても、軽蔑されても、もう二度と口を利いてもらえなくても、確認したかった。
長い沈黙があった。
おそるおそる見上げると叶伊織は、なんとも言えぬ笑いを浮かべて俺を見下ろしていた。
俺は、いつも考える。
この笑いの意味は何だろう? 叶伊織の笑いの意味は……
「もし私がエンコ―してたとして、ここで『はいそうです』って素直に認めると思う? 私が正直に答える確証がどこかにある?」
「……ない、かもしれない」
「なら、その質問にどんな意味があるの? どっちにしたって答えはNOだって分かりきってる質問をする意味は?」
「してないって言ったら俺は信じるよ」
「信じたいだけでしょ。私に『してないよ』って言ってもらって安心したいだけじゃないの?
なに? まだ未練とかあるわけ? それともクラスの中でそういうことが横行していると生理的に許せないとか?」
叶伊織は俺を見ている。静かに、まるで今しがたゴミ置き場に捨てたばかりのゴミを見下ろすような目で。
俺は、そんな彼女を睨みかえす。
「ああそうさ、許せないよ」
ここで引いたら負けだと思った。
ここで引いたら……俺はもうきっと、二度と叶伊織に正面きって対することが出来ない。関わることが出来ない。彼女の世界から永遠に締め出される。そんな気がした。
「叶さんの事なにも知らないくせに勝手なコト言って、決め付けてっ、そういう目で見て、そういうのがっ」
たまらなく嫌で。
みんなが、相田沙耶が、斉藤さんが、湊が、誰より、知らず知らず同じように考えはじめている俺自身が。
さっきみたいに何気ない一言に、あんな風に反応してしまう自分が。
たまらなく嫌で。許せなくて。だから、
「誤解はちゃんと解くべきだ。自分のためにも、相手のためにも」
「……じゃ、してるって言ったら?」
言葉をなくした俺に、叶伊織は苦笑する。
「信じる、か」
「そうだよ、信じるよ!」
俺は叫んだ。もう自分が何を言っているのかなんて途中から分からなくなってた。
「信じるよっ! ちゃんと信じる! 叶さんが言うなら何でも信じるよ、嘘でも本当でも信じるよ。だからっ、だから……」
否定して。お願いだ。否定して。
「じゃあ言ってあげる」
叶伊織は言った。変わらぬ笑顔で。
「してるよ」
硬直した俺に、彼女は百円ショップのTシャツをほうり投げた。
「信じてね」
店のお手洗いを勝手に占有したら、いけませんよね……