第二十話 死体を洗う彼女
叶伊織の歩調は早い。
コンパスの長さを、かろうじて俺の方があるはずなのに、なぜか後を追いかけるのは俺のほうだ。
隣に歩く女の子にあわせて歩調をゆるめるのって、実は少々憧れていたのが……その憧れは、どうやら隣に歩く女の子に歩調をゆるめてもらうという憧れにすげ代わりそうだ。
「で、どこいこうか? 叶さん、どっか行きたいトコある?」
「別に」
(高橋葉の脳内における変換:てめぇと一緒に行きたい場所なんかねーよ)
「じゃ、映画でいいかな?」
「いいんじゃないの」
(変換:だから、どうだっていーよ)
「何か見たい映画−ー」
「ない」
(変換:しつけぇんだよ)
はう。
どうやら叶伊織は、このユスリも同然に始まった不本意なデートを、必用最小限の会話で乗り切ろうとでもしているようだった。
「特にないんだったら新しいファンタジーものの洋画が出てるんだけど……ほら、映画化されたハリポタとかマルニア物語とかに近い感じの。『銀の羅針盤』っていうんだけどそれでいいかな?」
実は寸前まで、サワヤカ恋愛ものと、銃撃アクションものと、児童向けファンタジーとの間で決めあぐねた挙句、チケットを三種類買ってあったわけだが、シュレーディンガーさんが道を指し示してくれた。もう一度ありがとう、シュレーディンガーさん。
叶伊織は、やっぱり先ほどと同じ「いいんじゃないの」の温度の低い声で答えたけれど。
彼女の趣味をすっかり把握した気になっていた俺は、勝利を疑っていなかった。
そう、この時はまだ。
俺はそっと隣の彼女を盗み見る。うん、いつも盗み見るんだ。
Tシャツにジーパンという軽装にもかかわらず、やはり彼女はクール・ビューティーだった。
さっきまでガッカリしておいてなんだが、すらりと良く伸びた足が快活な歩調をきざむさまは、ジーパンという万国共通のスタイルの魅力をあますことなく引き出しているようにすら見える。きっとここまで、ジーパンが似合う日本人は少ないだろう。
そういえばさっきから、道行く人々がチラチラと振り返っていく。湊と歩く時は振り返るのはもっぱら女ばかりだが、今は男女半々の視線が首筋をチリチリさせる。
俺はおおいに得意になった。
ふははは、うらやましいか、野郎ども。うらやましかろう。
どうだ。俺が彼女のデートの相手だ。なにせ、本人がいったんだから間違いない。そう、彼女はいったんだ。『デート』とっ!
男達は、まず賞賛と好奇の視線で彼女を見、次に羨望の視線を俺に向け、最後に疑問符をつけた視線で二人を見比べる。
なんでこんなキレイな子がこんな男と、とでも思っていやがるんだろう。ふっ、男の嫉妬は見苦しい…………実は俺もちょっと思ってるけど。
とにかく、そんなウゾウムゾウどもを、けん制する意味合いもあって、俺は少しばかり声を張り上げて再度彼女に話しかける。
「実は俺さ、叶さんが本当に来てくれるか、ちょっとだけ不安だったんだよね」
「来なかったら、バラすんでしょ」
追いすがる俺の方を一瞥することもなく、彼女は正面を向いたまま答えた。脅迫者の分際で寝ぼけた事をいうな、と言いたいらしい。
「……そういえばバイトって何やってるの?」
「悪いけど、これ以上あんたに脅迫のネタを提供するつもりないから」
「しない、そんな事しないよ。今度は。いや本当に」
その言葉が空々しく響くことを自覚しつつも、とにかく俺は言い募った。叶伊織がそれを信用した向きはなかったけれど……
「死体清掃人」
「へ? 死体清掃って、死体を洗ってキレイにするアレ? マジ? それが叶さんのバイト?」
彼女は首を振った。
「あ……ははははは。面白い人だね、叶さんは。一瞬しんじちゃったよ。そうだよね。そんな訳ないよね。死体洗いのアルバイトなんて都市伝説。あったとしても、そんなのカタギの仕事じゃないし普通の人だったらやる訳ないっていうか、ねぇ?」
「前に他の人の穴埋めでやった事あるけど、高校生を雇う気はないみたいだった」
都市伝説ではなかった。
バカバカ、俺のバカ。
「……へ、へ〜でも、あれだよね。あれ。なんだっけ? 何事も経験! 考えてみれば死体を洗うなんて経験そう出来ないよね、うらやましいよ、経験値アップだよ。尊敬だよ。俺もやってみたいよっ」
「そう。じゃ、やってみれば」
「うんっ、やってみるよ!」
「……」
なぜだろう、死体を洗うことになってしまった。
初夏だというのに寒い。
本屋でのやり取りで縮んだように見えた距離は蜃気楼だったのか、それとも俺が台無しにしてしまったのか、いま俺と彼女の間には木枯らしが……いや吹雪がふぶいている。ふかせたのは俺。
それでも、と俺は手のひらをぎゅっと握り締める。これしきのことでくじけてなるものか。
めげたりなんかしない。
これは夢にまで見た初デートで、しかも俺の隣に歩いているのは初恋の相手、ずっと憧れていた『本当は心優……しいかどうか分からない孤高のクール・ビューティー』叶伊織なのだから。こんな幸運はきっともう二度とめぐってこない。だから、めげてる時間などないのだ。
たとえ荒れ狂うブリザードにこごえ、積雪に押しつぶされようとも。
彼女が死体を洗っていようとも、俺自身、死体を洗うハメになろうとも……ぜ、前進あるのみだ。
吹雪の中で行き倒れるまえに、俺たちはなんとか映画館に辿りついた。
初デート=映画の図式は、やはり湊のアドバイスによるものである。
映画なんて月並みだ、わざわざアドバイスを募るまでもないと不満をいった俺に対して湊がいうには……
湊の……以下略ぱーと3:
−ー元は友達だったなどの発展形をのぞいて、基本的にデートとは他人同士の男女がイキナリ二人っきりになって終日を過ごすというムボーな試みだ。
そうなるとまず避けられない、気まずい沈黙。話題の欠如。
そこで登場するのが映画鑑賞だ。
映画館だったら二人ならんでスクリーンを見てるだけで間がもつし、見終わった後は、ほれ、映画という共通の話題が一つ出来ている。
たまにはまともなノウハウを語る湊であった。
俺たちはチケットを係員さんに渡して半券をもらいシアターに入場すると席に着いた。
本屋で長居しすぎたせいで、最初に予定していた上映時間に間にあわなかった。次の上映時間にはまだ少し時間があるためか、俺たち以外の観客の姿は、まだほとんどない。
やがてスクリーンがウィーンと音を立ててサイズの微調整に入り、通路を照らしていた照明が消える。宣伝や予告編が流れてくるまでの、居心地の悪い沈黙と薄い暗闇。
隣には、ショルダーバッグの外付けポケットからケータイを取り出し電源を切っている叶伊織の姿。
それにならって俺もケータイを切りながら、耳によみがえる悪友の声を聞いていた。
ーーなんといっても、映画館の最大の特典はあのビミョーな暗闇かげんだ。男女が二人、隣あわせに薄闇の中。手すりは二人の間に一つだけってなもんだ……しっかり男を見せてこい、葉。
ピロリラリラ〜という尻下がりの音を残して電源が消え、液晶画面の明かりがフッと落ちた。
俺たちの周りにも、薄闇が落ちた。
作中では初夏というとんだ季節はずれですが、みなさんメリークリスマス!
楽しいクリスマスをお過ごしください。