第十七話 パイプカットと母体保護法のこと
「人ん家で、いつまで寝てるつもりだよ」
その声と共に俺は、文字通り“蹴り”起こされた。
「へ?」
顔を上げると、湊の足があった。
「“へ”じゃねぇよ。“へ”じゃ……もう夜の十時だ。おばさんが心配して電話かけてきたぞ。夕食は好物のロールキャベツだから、早く帰ってきなさいだってよ。小学生か? お前は」
どうやら俺はあれから寝てしまったようだ……ん、あれから?
そこで俺はガバッと跳ね起き湊に組み付いた。
「体は!? 体は大丈夫なのか? もう起きて歩いてもいいのかよ?」
「オレは妊婦かよ」
「とにかく大丈夫なんだな!?」
真顔で確認をせまる俺に、湊は肩をすくめた。
「ああ……空きっ腹にアルコールってのがマズかったみたいだな」
「アルコール?」
「何? ひょっとして心配のあまり隣で眠りこんじゃったわけ? これからはお前のことを忠犬ポチ公と呼ぶことにしよう。さぁポチ、ご主人様の胸に飛び込んでおいで」
手の平を上向きにカモンの動作をとる湊に、俺は取り合わなかった。
「何いってんだよ。お前マジで変だったんだぞ。なんかこう目なんか潤んじゃってさ、訳の分からない事いってたし」
ぴくり、と湊の顔がひきつる。
「訳の分からない事?」
「ん、オウトコウカがどうとか、口がどうとか、眠らせてとか」
「マジわけ分かんねぇな、それ……酒が弱い体質なんだ。誰かさんと違ってデリケートに出来てるからな。すぐ胃にくるんだ」
「胃じゃなくて頭にキてるんじゃないのか。ていうか、お前、未成年だろ。そんなしょっちゅう飲んでるのかよ」
話題がそらされていく事に俺は気づけなかった。
「ん〜〜ま、自分のアルコール体質が分かるくらいにはね」
「お前なぁ」
それから俺は一通り湊に“節度のある未成年の飲酒”についてこんこんと説いて聞かせた。湊は“節度のある”の部分につっこんでは爆笑していた。
だて仕方ないじゃないか。
日本社会は、未成年のアルコール摂取に対して節度ある態度をとってないんだから。
「まあとにかく、ほどほどにしとけよ」
湊は挙手する。
「はーい。節度のある飲酒を程々にします」
「もう一つ」
「はい何でしょうか、先生?」
俺は直球で聞いた。
「サエコさんはお前の何?」
その質問を予期していたのだろう。湊が動揺する気配はなかった。
「いい心臓してるね、葉くん。かってに押しかけてきた挙句、先客を追い出した人間の台詞とは思えないな」
「それは謝る。俺が全面的に悪かった。もうしない。一生しません。でサエコさんはお前の何?」
「ものすごく、おざなりな謝罪だな、それ」
「で何?」
「ん〜〜オレがデリカシーを見せる相手?」
「そうじゃなくて」
湊がニヤリと笑う。
「体の関係って事か? 葉くんって案外ブシツケな質問をする人だったんだ」
「そんなんじゃ……ああいや、ま、そうかもしれないけど」
「何? サエコさんに惚れたの? まあ年の割にはあの女現役だからな」
何が現役なのかは、あえて聞かない事にした。
「年上好みは結構だけど、まあそれも限度があるとは思うけど……じゃなくて既婚者は別の意味で問題だろ? その、いろいろ……」
「分別のあるべき大人のする事だよ、葉くん。当人の自由意志と自己責任だ。恋愛についてもセックスについても、その結果についても」
これは先の質問に対する肯定を意味するのだろうか?
「サエコさんはともかく、お前は未成年だろうが」
「ああ、少年法はボクラの味方ってね。アメリカだったら、成人女性と未成年男子が性交したら合意のあるなしに関わらず強姦罪が成立するんだぜ。すげぇだろ? だってさ、強姦っつっても体の構造上−ーー」
下ネタに流れそうな雰囲気だったのでオレは湊をさえぎった。
「後もう一つ」
「まだあんのかよ」
「俺は俺の精神衛生上、お前の恋愛事情には必要以上に首をつっこまない事にしてるつもりだし、それと、これはサエコさん相手に限らないんだが、なんだ、その……」
駄目だ。視線が泳ぐ。
「ナンダソノ?」
「避妊はしっかり、な」
案の定、湊はぶっと噴き出した。俺を指をつきつけ笑い転げ、しかも爆笑のあまり指が定まっていない。
「なんだなんだ、そのガールフレンドが出来た息子に対する父親のような台詞は」
一通り笑い終えると、湊は眼尻の笑い涙を拭く。
俺はブゼンとして横を向いた。
ああ、変なこと言ってるよ。こっちだって湊の遊び人ぶりは良く分かっているつもりだったさ。だけど、ああいう生生しい現場に立ち会うのは初めてだったんだよ。
「まさかお前にそんな忠告される日が来るとはな。オレ情けなさすぎ。でもちょっと感動。なんかこう娘の初潮を知った父親の気持ちっていうの?」
「なんでお前はそう一々下ネタに流れるんだよ」
「そうか? 葉くんみたいなムッツリより健全だと思うけどな。オレに言わせれば処女や童貞のほうが経験者より、よっぽどエロいぜ。こう……精神的に? 偏った情報と妄想だけで自己完結できてるあたり」
「悪かったな、偏った情報と妄想で自己完結した童貞で」
「あ、認めた」
「でもな。やるだけだったら猿だって出来るんだよ。コントロールできてこその社会的動物だろ? だいたいな、性体験の豊富な16歳なんて不健全をとおりこして、ちょっと悲劇的な匂いがするぞ」
「やだな、葉くんの中じゃオレってば悲劇の主人公? いいじゃん、生殖以外の目的でセックスしてこその社会的動物だぜ。特に日本の性風俗文化はそのフェティッシュ性とマニア度の高さにおいて世界に冠たるものだ。『フーゾク』それは日本が世界に誇る大衆文化の真髄といっても過言ではないだろう」
明らかに過言である。
「知ってるか? いま外国じゃ“フーゾク”って日本語は“サムライ”や“ゲイシャ”なみの認知度をほこってるんだぜ」
「いやそれぜったい嘘だろ」
「そうそう。外国人向けの性風俗ツアーのガイドブックまで出ててさ、毎年それを片手にもった外国人旅行者が歌舞伎町や六本木をウロウロ−ー」
「ああもう! 訳の分からんウンチクはもういい! だいたい議題は避妊であってフーゾクじゃない!」
「議題だったのか?」
そうじゃなくて、と俺は続けた。頭痛がした。
「子供が出来たらどうすんだって話だよ。無責任に堕ろすのかよ。だいたいそんな金どこにあんだよ。それに、それに母親のほうの事情だってあるだろ。お前16歳で父親になりたいのかよ」
「ならないよ」
湊は言った。
「父親にはならないよ、絶対」
「絶対ってどういう意味だよ」
まさかいまさら『実は童貞です』とか抜かすんじゃないだろうな。
「16歳でも16歳でなくなっても、子供はつくらないって意味だよ」
いつの間にか、湊から笑いが消えていた。声からも表情からも。
「オレは、オレの遺伝子を引き継いだ生き物をつくり出すなんてマネ絶対しないし、させない」
ふいに硬くなった湊の口調。押さえた声音から滲み出た、押さえがたい嫌悪感。
フーゾクを嬉々として語っていた湊をして、『子供』という二字のいったい何がそこまでの嫌悪を抱かせたのか。俺には理解できなかった。
「……絶対なんてこと世の中にはないだろ。それに母親の意志だって−ー」
「オレはピルを飲んでいない女とはやらない。ゴムだって毎回つけてる。体内射精もしない。男側でやれる事はみんなしてる」
俺が口にするのにためらうような言葉を羅列する湊は、決してふざげてなどいなかった。これは、いつもの下世話な冗談ではない。それくらいは俺にだって分かる。
「だけどーー」
「それでもお前の言うとおり可能性はゼロじゃない。だから万が一できてしまったら仕方がない」
仕方がない、と湊は言った。平坦に。
「堕ろさせる」
無感動で無表情な台詞だった。湊の目にうかぶ光は無機質で、まるで本物の猫の目に向き合ったかのように表情が読めなかった。
「……相手が産みたいって言ってもか?」
知らず、声に批判がにじんだ。
俺にとっては、湊の台詞はひどく無責任で酷薄なものに聞こえてしまったから。
「堕ろさせる」
喉がつかえて、すぐには次の言葉が次げなかった。
いくらだって反論は出来た。
身勝手とか、非人道的とか。
中絶が母体におよぼす影響をちっとは考えたことがあるのかとか、胎児の人権だってあるだろ、とか。
そもそもそんな事を言うくらいだったら、はなっからセックスなんてしなきゃいいんだとか、そんなことを。
言おうとしたのかもしれない。
だが結局、俺の選んだ言葉はそのどれでもなかった。
「なんでだよ?」
「……なんで?」
「なんでお前は、自分の子供がほしくないんだ?」
「なんでって、そんなの……」
俺の反応が予想外だったのか、しばらく言葉を探す沈黙があった。
やがて湊は、肩をすくめて両手を放り出した。
「そんなの子供が出来たら、めんどくさいからに決まってるじゃん。結婚迫られなくても、扶養義務やら何やらさぁ。オレ生涯、一遊び人って決めてるから」
「おい、話を誤魔化してる上に、言っていることが最低だぞ」
「それにオレにそっくりの子供だったら、たぶん結構ろくでもないと思うんだよね」
それはなにげに同意だ。
「同族嫌悪で愛せなさそうじゃん? だからオレは葉くんの子供で我慢するよ。葉くんからだったら馬鹿でお人好しで、からかい甲斐のある楽しい子供が産まれそうだし」
「いや俺、男だから産まないんだけど」
「馬鹿でお人好しって部分は認めるのか?」
「いやそれは……って話そらすんじゃねぇよ!」
「オレは親としての役目を果たせそうにないから。それだけだよ。おんなじ無責任でも、産ませてからの無責任より産ませない無責任の方がまだマシだとオレなんかは思う……だからオレの人生設計は将来、結婚した葉くんの子供を無責任にイジめて遊ぶことなんだ」
「おそろしくハタ迷惑な人生設計だな、おい」
湊はニコニコと笑っている。それがニヤニヤではなかった事に俺は毒気を抜かれ、それ以上の追求をあきらめた。
「まぁそんなに自分の子供が欲しくないんだったら、さっさと去勢でも何でもしろよ。世の中の女性に迷惑だから」
湊は真正面から切り替えしてきた。
「それがパイプカットって子持ちの既婚男性じゃないと基本的には認められないんだよ。母体保護法とかいうやつがあってさ。なんで男のナニをどうするかの法律が“母体”保護法なんだよって突っ込みいれたくなるだろ?“男体”保護法の間違いじゃねぇのーって」
「やけに詳しいな。調べたのかよ」
湊は肩をそびやかした。
「オレは雑学博士だからな」
「何が雑学だ。ただのエロ学だろ」
「いやいや実学と呼んでくれ」
窓の外の暗闇に視線を流し、湊は遠い目をしてつぶやく。
「あ〜あ。やっぱその実学を追求するためにも、海外にいってパイプカットでもしてくっかな」
……冗談、だよな?
湊は天上に向かって大きく伸びをすると、俺を振り返った。
「そういやお前って、何しにきた訳? ワイ談?」
[読まなくてもいい用語・情報解説コーナー、その一]
(2や3があるかどうかは不明)
今日のトピック:〔パイプカット〕 男の避妊手術だと思っておけば間違いないです。
【より詳しく知りたい方のために】
ここでいうパイプカットとは、輸精管をふさいで精子が出ないようにしてしまう手術のことです。
といっても性交は可能であり、射精も同様です。
精子をはこぶ輸精管が閉じているため、精液はでても、そこに精子は入ってないわけです。
ですから性生活には何の問題も生じません。
避妊の方法としては、もっとも効果的な方法の一つです。
“ほぼ”百パーの避妊率を誇ります。
また再手術をおこなえば、輸精管を再び開き、生殖可能な状態に戻すことができます(ただし絶対ではない)。
ただホルモンのバランスが崩れたり、ガンの遠因になったりと健康面の問題がある上、再手術が上手くいくとは限らないので、それなりのリスクをともなう手段だと了解してください。
また法律上の問題があるため、誰でも手術を受けられるわけではありません。
「遺伝性の病気がある」などの例外をのぞき、基本的には「子供が複数いる既婚男性であること」「配偶者の同意があること」などが要求されます。
追記:パイプカットは泌尿器科の管轄です。
注意:作中、後書きで出てくるウンチクなどについては上記のものに限らず、一応調べて書いておりますが、しょせん素人知識なので間違いもあります。ご了承ください。