第十六話 湊の本気の相手? (後編)
「ええと、何ていったらいんだろう。バスタオルがゴワゴワなのは確かに嫌だけど、柔軟剤を入れるのは健康の面で問題があるかもって母さんが……」
ピントはずれの言葉は、次第に尻すぼみになっていく。
湊はしばらく無言だった。俺の無遠慮をなじろうともしなければ、いつもみたいな軽口を叩きもしない。
やがて両目に手をやって壁にもたれかけ言った言葉は、変わり映えのしないものだった。
「お前、帰れ」
「ええ、なんでだよ……別に俺なにも言ってないじゃん。それに俺、れ、恋愛に年は関係ないんじゃないかと思うぞ」
「レンアイ? なにそれ」
湊は肩を揺らして、くぐもった笑い声を立てた。
「ウケルそれ。めちゃウケル」
「おい、大丈夫か。なんか顔色が悪いぞ……て、おい湊!」
ずるずると壁づたいに座りこむ湊に、俺は慌てた。
「風邪か? 熱でもあるのか?」
額に手をやろうとすると、驚くほどの強さで振り払われた。
「……男同士で額に手の平なんてキショいこと、すな……ちょっ、気分悪……だけ」
そうは言っても、ぐったりとした様子とロレツの回らない舌に、俺はおろおろと玄関脇を右往左往した。
「ドア……閉めろ。人に、見られる」
俺は言われたままにドアを閉めて施錠し、言われもしないのにチェーンまでかけた。
「大丈夫か? なんかヘンな病気じゃないのか?」
湊は俺を無視して立ち上がろうとして、つんのめってフロアリングに逆戻りする。「畜生」とか「糞」とか呪いの言葉を吐き散らしながら、普段の湊とは似ても似つかぬ格好悪さで床をうごめく。
「おかしぃ、な。オウトヨクセイ、効果……のにこんな気持ち悪」
「救急車呼ぼうか」
「……んだら殺す」
いつもよりも直球な拒絶だ。そういえばドアを開けたときからそうではなかったか。普段の余裕たっぷりな湊とは少し違った。
「でもでも、でもさ」
デモデモ星人、再び。
「水」
俺は台所に走って、コップ一杯の水を手に駆け戻ってきた。
湊はそれをひったくろうとするが、指が定まらずあわや取りこぼしそうになる。
俺はコップを湊の唇にあてがって無理矢理飲ませた。
最初は嫌がっていた湊も、やがて折れて大人しく喉を動かしていた。
コップを持つ方と嚥下するほうのシンクロが上手くいかず、何かの拍子に傾けすぎて、湊が咳き込んで水を吐き出す。吐き戻された水が胸の辺りを流れてシャツを濡らしていった。
「下手糞」と湊は俺をなじる。
介抱されている分際で随分な言い草だとは思ったが、少なくとも悪態をつくほどには元気なのだとの確認し、俺は少しだけほっとする。
「つべこべいうと、しまいには口移しで飲ませるぞ」
趣味の悪い冗談を口にしたのは俺の方だったがを、湊がトロンとした目つきで見上げてきたのでギクリとして身を退いた。
なにかこう男が男を見るには、おそろしく不適切な眼差しだった。思わず弱った湊を蹴り飛ばしそうになってしまったくらいだ。
そんな俺に頓着することもなく、湊は力なく首を横に振った。そのまま首振り運動は斜めに傾き、最後には前後に首を揺らしながら、何やらゴニョゴニョとうそぶきはじめる。
「いや、も、口は充分……」
もう? 口? 充分って何が?
……何が? 湊くん? おーい。
一体何が?
「それより眠らせて、ください。さァこさん……オレ、バッドはいった、ぁも」
後半は意味不明だった。
やがてスースーと寝息を立て始める湊を前に俺は、赤くなったり青くなったりしていた。
(――サエコさん、あなた一体こいつに何したんですか?)
□
湊を部屋まで引き摺っていって、ブランケットをひっかけると、する事もなくなり俺は所在なく湊の部屋に視線をさまよわせた。
まず真っ先に寝乱れたダブルベッドが目に入った。シーツに深く浅く刻まれた皺が、嫌が応でも生々しい想像を掻き立て、俺は自分で自分の顔をはたいて頭を振った。
なんというか親しい友人や家族がそういう事をしてる情景は想像できないし、したくない。
大体、一人暮らしのくせにダブルベッドってのは何なんだ。
サエコさんは実は湊の親類縁者で、キスは外国帰りの名残で、このベッドは湊の寝相……とかいうこじつけはこの際やはり現実的ではないだろう。
ふと別れ際の彼女が湊にしたキスが思い出された。
フレンチ――フランス産ではないのに、情感の強い……
他人のキスなんて間近でみるのは初めてだったが、あれはたぶん男女のキスだった……ような気がする。
部屋に残る匂いは、ちょっと独特だった。
ハーブを焚いたような匂い。まさかサエコさんの残り香でもないだろう。
こいつにハーブの趣味があるとは思えないから、するとサエコさんだろうか?
どことなくまとわり付いてくるような匂いだったので、俺は窓を開けて換気を試みた。
そのさい窓脇の灰皿に気付いた。
(なんだよ、これ)
タバコの吸い差しのようなものが二つ三つ灰皿に溜まっていた。通常の吸い差しと違ってフィルターの部分がないようだったが。
湊は、俺の前でタバコを吸ったことはない。だがたまに服にタバコのにおいをつけていたりするので、湊が隠れ喫煙者ではあったとしても俺は説教をたれこそすれ別に驚きはしない。
ひっかかったのは、さっきの会話だ。
――勘弁してくださいよ、サエコさん。部屋の中では吸わない約束だったでしょ。
(吸ってんじゃねぇか)
俺は床の上ですやすや眠っている湊に目を向けた。起きているときの毒気が抜かれた湊の寝顔。普段とは別人のように邪気がない。
悔しいが、認めるのは非常にシャクだが、こうしているとこいつが女子にもてる理由が分からないでもない。
軽薄な笑いや、開いた目が好んで浮かべる挑戦的な視線がなりを潜めた今、こいつの寝顔は俗に女達がいう「キレイな男の子」のそれだ。
つまり同性の目からすると「いっそ女に産まれてこいよ」と突っ込みを入れたくなるような、むずがゆい面をしている訳なのだが、純粋な造形美という点でいえばまあ認められなくもなかった。
いやむしろ、「整っている」という点以外では無個性ですらあるクセのない造形。
いっそ彫刻にでもなりさらせって感じだ。
(女の子ってこういう、ちょっと女っぽい顔立ちが好きなのかな。なんかある意味ナルシー? ていうか性倒錯願望? いやむしろレズビアン願望か?
俺なんかの場合、女の子が男と違ってキレイで清潔で柔らかくて、ふわふわしている所が好きなわけで、硬くて不潔でマッチョな女の子には惹かれないけどな)
などと気ままな感想を抱きながら、俺は湊の額に手を乗せた。熱らしい熱はない。
ちょっと汗をかいているがそれくらいだ。
本当に気分が悪かっただけなのかもしれない。
その時、寝ているはずの湊の手が、とつぜん熱をはかる俺の手の上にかぶさった。
玄関口でのように跳ねのけられるかと思いきや、そのまま俺の手を自分の額に押し付ける。
熱っぽく汗ばんだ手の平。
無個性だった顔が、表情に歪む。
一瞬、起きたのかとも思ったが、続く寝言で俺は湊がまだ寝ていることを確信したのだった。
「……さん」
最初はサエコさんを呼んでいるのかと思った。だがそうではなかった。
荒くなる一方の呼吸とともに湊の唇は何度も開閉し、ただ一つの配列だけを口の中で繰り返していた。
呼吸自体がひどく不規則ではっきりとは読み取れなかったが、たぶん湊はこう言っていたのだと思う。
ーー母さん。