第十二話 叶伊織の複雑怪奇な家庭事情 (後編)
「あの、だから僕は怪しい者ではなくて、ここにはただ単にプリントを届けに来たわけで……あ、実は俺、叶さんのクラスメートで、それで玄関のドアが開いてたから、無用心だなーって、あれっ?」
あたふたと訳の分からない自己紹介を話しはじめる俺。その甲斐もなく叶伊織母の悲鳴はやまず、壊れた警報機よろしく鳴り続けていた。
近所の人が110番をしないかどうか俺は不安になった。てか、よく息つづくよな。
そんな俺を救ったのは、ジャージ姿で飛び出してきた叶伊織だった。俺の元マドンナは俺を見るなり、目を丸くして飛びすさった。
「げっ!」
俺の顔を見るなり『げっ』って……俺って、叶伊織にとって俺の存在って…
「あんた、人ん家で何やってんの!?」
『君のストーカー』とか答えたいネクラな衝動に駆られたが、本気で警察に突き出されそうな空気だったので、やめておいた。
「えと、叶さんがずっと欠席だったから担任からプリントを預かって届けにきたというか……」
己の潔白を訴えるように、俺はプリントの束をかかげて見せた。
「ごめん。玄関のチャイム壊れてたみたいで、ドアに鍵かかってなかったから」
付け足すように、ぽつっと言って俺は上目づかいに皆の……叶伊織の反応をうかがった。
彼女は、まるで突如として重度の偏頭痛がやってきたような顔をしていた。“苦虫を噛みつぶしたような”という形容があるが、それでいくと千匹くらいは余裕で噛みつぶしていそうだ。
いつの間にか叶伊織母の悲鳴はやんでいた。
「あらやだ、伊織のお友達?」
さっきまで、この世の終わりみたいな絶叫をとどろかせていた母親は、180度、態度を豹変させて、しなを作った。とってつけたような笑いが怖い。
「いやだ、恥ずかしいところを見られちゃったわね」
いや、恥ずかしいところというか何というか、そういうレベルの問題じゃないだろう。
しかし母親はまだマシだったといえよう。父親に比べれば。
「なんだ貴様!」
俺の胸倉に掴みかからんばかりに、接近してくる叶伊織父。アルコールの臭気に顔をそむけないようにするのに、苦労した。
「貴様は何者だ!?」
「叶さんのクラスメートの高橋 葉です」
「オレの娘と一体、どういう関係だ! よもや、ふふ不純な関係では……」
一体何をどう勘違いしたのか、父親はろれつの回らない舌で訳のわからないことをのたまい始める。
「オレは許さんぞっ、絶対ゆるさんぞぉ!」
いや、だから何を?
「あの、叶さんのお父さん、落ち着いてください」
「べらんめぇ! てめぇにお父さんなんて呼ばれる義理はねぇ!」
じゃあ、どう呼べと?
「この野朗っ! 貴様は一体どういうつもりでウチの娘を、ウチの娘を……ウチの娘と関係を……」
なんだか勝手に話が発展していってるし。ていうか人の話聞こうよ。
仕方がないので俺はいま一度説明を試みた。
「ですから僕は叶さんの級友でして、それ以外の関係という事になりますと、少々ながい話になりまして、あ、でも、とりあえずプラトニックな−ーー」
「何がプラトニックだ、この下種野朗っ!」
「いや、本当に。まだ手を握ったことだってーー」
「ちょっとっ!」
叶伊織は俺の腕をひっつかみ、あらぬ方向に流れ出した俺たちの会話に終止符をうった。
ハンド・ツー・ハンドならぬアーム・ツー・アーム。叶伊織との記念すべき第一種接近遭遇。しかし残念ながら素直に喜ぶには、いささか状況が複雑すぎた。
彼女は玄関脇のゴムサンダルをつっかけ、
「そっかそっか、プリント届けにきてくれたんだー!」
と、この上なく本筋にそった話のはずなのに、ひどく場違いな感じのする台詞を大声で張り上げた。しかも声が裏返っている。
「あの叶さんも何か言ってくださいよ、俺なんか誤解されてるみたいでーー」
「伊織、この男はなんだ!?」
彼女は「うんうん」と首を縦に振る。
「私ずっと学校、休んでたもんねー」
俺たちを綺麗さっぱり無視し、一人で話を進めていく叶伊織。
「もうホント大助かり! で担任なんか言ってた? あ、ここじゃなんだから場所変えよう、そうしよう。じゃ行こ、はい行こ、さぁ行こ! レッツゴー!」
彼女は俺の腕をがっちり掴んだまま、有無を言わせず外にひきずりだす。
「じゃあね、お母さんお父さん、すぐ戻るから!」
「あ、伊織、待ちなさいよ!」
「待て伊織、その男は駄目だ!」
両親の制止にもかまわず、叶伊織はずんずんと歩き続ける。俺の腕に自分の腕をからませて。しかし、これでは男女が腕を組むというよりは、むしろ被疑者確保、みたいな?
「あのなんか、ご両親よんでるみたいだよ?」
「いいから歩きなさいよ」
「でも…」
と言いつのると、叶伊織がやおら立ち止まり、俺を引き寄せ、俺の耳に唇を寄せた。
耳たぶに彼女の呼気がかかり、俺の胸は高鳴る。その唇の開閉が振動となって伝わってくるほど近くに叶伊織の存在を感じ、俺は状況も忘れて陶然と夢見心地にひたった。
「いいから黙って歩けっつってんだよ」
夢は覚めた。