第十一話 叶伊織の複雑怪奇な家庭事情 (中編)
―――ふざけんな。そんなに死にたいんだったら保険金かけてから死になっ!
不法侵入をした家で聞く家人の第一声に、俺の心も体も瞬間冷凍した。
しかしどうやら、その声は不法侵入者―――俺に向かって放たれたものではなかったらしい。
声は、廊下の向こうから聞こえてきた。
「そういえばこの前、来たよ。生命保険の勧誘。まだ名刺あるから電話してみたら? ああ、でも相手がアルコール中毒患者じゃ、向こうから願い下げでしょうね」
「俺はアル中じゃない!」男の声。自称アル中じゃない男。
「ああ、それと万が一のために言っとくけど、加入してから一年以内に死んでも保険金下りないらしいから気をつけてね」
間違いない。こっちは間違いなく叶伊織の声だ。
「お前、さっきから聞いてれば父親に向かって、その言い草はなんだ!」
さっきの男の声。自称、アル中じゃない叶伊織の父親。
「そうよ伊織。確かにお父さんも悪いけど、いくらなんでも父親に向かって死ねはないでしょう」
『お父さん』に向かって援護射撃する三人目。話の筋からすると、母親と推測される。
「あら、おかしいわね、お母さん」叶伊織の舌鋒は今度は母親に向いた。 「昨日の夜、この男に『殺してやる』って包丁もって騒いでいたのは、どこの誰だったからしら…アルツハイマー?」
「…あんた、ホントに言っていい事と悪い事の区別がつかないのね。昨日はお母さんの事、慰めてくれてたのに、それを逆手にとって、そんな事いって、卑怯だとは思わないの? いつから、そんなに殺伐とした品性のえげつない子に育ったちゃったの?」
叶伊織は笑った。
「カエルの子はカエルってことわざ、知ってる?」
「あんた、今の自分の顔、鏡で見てごらんなさいよ」
「そっちもね」
さすがに、これは立ち入ってはならない家族争議の現場に入ってしまったという事に俺もだんだんと気づき初めていた。
まわれ右して退散しようかどうか迷っている間に、玄関のドアは一人手に閉まり、雲行きはどんどん怪しくなっていく。
「お前達がそんなだから、俺は駄目になるんだ」どっかで聞いたような負け犬の台詞をのたまう。自称、ダメな男。
「なによ、私はあなたを庇って伊織をさとしてたのよ」
「俺はもう駄目だ。お前たちに生も根も吸い尽くされて、俺はダメ人間になった」
「ちょっと、あなた、聞いてるの? 私はねぇ」
「こうなったら、なに言っても無駄よ、お母さん。ほっときなさいよ」
「カネを稼いでも、全部、お前達が使っちまう」
「あなたねぇ、こっちは必死で生活費やローンの支払いのために、やりくりしてるのよ。自分の服なんて、ここ一年なにも買ったことないんだから」
「もういいんだ。俺は死ぬ。そうすればお前達は満足なんだろう」
「だから、さっきから死ぬ死ぬって一人騒いでるのは、あんただけなんですけど」
「ちょっとあなた、まちなさいよ。誰が残された借金はらうのよ。この家のローンだって、まだ残ってるのよ」
母親の声は怒りに震えているようだ。
男、もとい叶伊織の父親は、くぐもった笑い声を立てた。どこか楽しげな笑い声は、それだけに淫猥に響いた。
「そうさ。金を使うしか能のない女に、金を払えるわけないもんな。ざまぁみろだ」
確かに、アル中というだけだって、昼間から酔っているようだ。
「俺はお前達を置いて死ぬんだ。線路に飛び降りてな。知ってるか?遺族は何千万って罰金を請求されるんだぞ」
「あなたって人は、どこまで、ろくでなしなの」
よく事情は飲み込めないし、立ち聞きをしている分際でなんだが、「ろくでなし」という点では叶伊織母に同感だ。
いくらなんでも『俺が飛び込み自殺したら、お前達は多額の罰金を払わされるんだぞ、どうだ参ったか』と脅迫するのは、あんまりに卑しい。
叶伊織の反応は母親よりも冷めていた。
「ほっときなさいよ、お母さん。いちいち本気にとって怒っても馬鹿みるだけだよ。どうせ口だけの意気地なしなんだから」
「口だけだとっ!」
「悔しかったら、今から駅いって飛び込んできたら? どうせ出来もしないくせに」
オイオイ、それは自殺教唆って言うんでないかい?
「俺は口だけなんかじゃない」
「なら、回れ右して駆け足で駅にレッツ・ゴー」
「ちょっと伊織、お父さんを焚きつけるのはやめなさい。本当に飛び込んだだらどうするのよ。何千万なんてウチ払えないわよ?」
先ほどから、シニカルな口調に苛立ちを滲ませていた叶伊織がそこでキれた。
「ああもう! いい加減にしてよ! そんなだから、この男が付け上がるのよ。離婚するなり、二人で心中するなり、どっちかに決めてよね。喧嘩する度に私を巻き込まないで!」
「あんた、一体、誰のために、私がこんな男と今までリコンせずに耐え忍んできたと思ってるの」
「知ってるよ。子供のためでしょ。誰も頼んじゃいないけど」
「俺は口だけなんかじゃない」
ブツブツと叶伊織の父親はつぶやく。
「いいか。今から俺は、飛び込み自殺に行ってくる。夕刊には載るから覚悟してろよ。罰金の 請求書が届いてから吠え面かくなよ!」
引っ込みが付かなくなったのかもしれない。ガターン、と椅子を蹴立てる音がして、ドタドタというおぼつかない酔漢の足音。
それが途中でピタと止まり、
「数千万だぞっ!」
と薄情な家族に念を押した。
「いってらっしゃい」と叶伊織。
「ちょっと、あなた、待ちなさいよっ!」
追いすがる妻に、安心したのか意を強くしたのか、今度は父親の足音は迷いなく、敷居をまたいで真っ直ぐに玄関を目指して―――‐――って、あれ?
うわ、まずい。
「お、お前、お前は何だ、何者だ」
さっきまでは泥沼ホームドラマの出演者だった男が、今は俺に人差し指をつきつけて誰何の声を上げている。
俺の想像に反して叶伊織の父親の頭髪は、まだ禿げ上がってはいなかった。
黒紙と白髪が半分半分になったゴマ塩あたま。中背中肉。よれたTシャツにステテコパンツ。このカッコで駅まで歩こうとしていたのだろうか?
まあ、背広でも着て、アルコールを抜けば、どこにでもいるサラリーマンに見えるかも知れないが。
ステテコパンツに取りすがるのは叶伊織母だ。やつれた化粧家のない顔。
パーマのとれかかったウェービーな髪は、なぜか旦那と同じゴマ塩頭で、黒く染めてはいないようだ。
さすがに土台は叶伊織の母親だけあって悪くはないようだが、ぼうぼうの髪の毛と、部屋着にしてもくたびれた衣服が、元の器量を台無しにしている。
二人はそれまで自分達がしていた事を忘れたように、あんぐりと口を開けて不法侵入者を見つめていた。
俺はへらっと愛想笑いをして、頭を下げた。
「あ、俺……高橋 葉と申しまして決して怪しい者では…」
ない、です。
二秒後に上がった叶伊織母の金切り声の悲鳴が、それに対する返事だった。