時計1
朝早くに叔父は出かけていった。どうやら時計塔の時間に遅れが出ているらしい。
この港町は貿易の拠点だった。
「1分の遅れが信用をなくすことにつながりかねない」と生前に父はよく言っていた。時計塔の時間は町の軸になっていた。
しかし、それも昔の話だ。今では貿易も廃れ、それに伴い町も活気を失っていった。
私の子供時代には考えられないことだった。
あの頃は港に行くと、筋肉質な肌を茶色く染めた男達が、声を張り上げて重労働をこなし、夜ともなるとバーに集まり、朝まで歌声を響かせていた。
彼らはいったいドコヘ行ってしまったのだろうか。今やこの町は眠りについている。
叔父は私の生まれる前から時計店を営み、時計塔を管理していた。時計塔は町のシンボルだった。
しかし、町長だった父と家族を除いて誰一人叔父のことを知る人はいなかった。
当時、小さく幼かった私は、どうしてもその事に納得がいかず、時計塔の前で叔父の名前を繰り返し叫んだ。
何を勘違いしたのか、そこにいた誰もが私を哀れむような目で見、中には涙を流す輩さえいた。
人だかりが出来始めた頃には、私に対して罵声を浴びせる物好きも大勢いた。
言い出した一人に誰かが加勢することで罵声は加速度的に増えていき、興に乗じて投げられた小石が私の額に当たった。
血が流れ出すと今度は辺りが騒然とする。
台本通りに従って移り変わるようなこの情景を、私はいつでも映画のフィルムのように正確に思い出すことが出来る。顔のくぼみに沿って流れる血液の温かさを感じた時に、私は初めて恐怖を知ったのだ。
しばらくして、騒ぎを聞きつけた父が急いでやってきた。
父は私を見るなり群衆に怒声を浴びせた。いつも優しい父が我を忘れて群衆に殴りかかって行った。
そのうち辺りは狂気に包まれた。
幼い私も髪を掴まれ、殴られ、蹴られ、薄れゆく意識の中で思った。何故だろう?、と。
私は家路を辿る叔父の背中で意識を取り戻した。体中を激痛が巡る。
「父さんはどこ?」あの時、私はそう言った。
叔父は何も答えなかった。
「父さんに……、謝りたいんだけど、おじいちゃんも一緒に来てくれる?」
叔父は答えない。
「今日ね、時計塔の時計はおじいちゃんが作ったってこと、みんなに言ってやったんだ」
叔父は…。
「だから、……だからね」
叔父は私を抱きしめた。
「痛い…」
強く、強く。
・・・・・
「どうせ、客は来ないから」叔父はそう言って私に店の留守を任せた。
「客が来ないなら、店閉めればいいんじゃない?」
私が言い終わる前に叔父は家を出ていた。
叔父にとって時計塔の修理は、久しぶりの仕事なんだ。いや、自腹でやるのだからボランティアだろうか。どうせ、今や時間にルーズな町人のことだ、直したところで誰がそれに気づくだろう。
時計を作る工房と一緒になっている店の中はモーツァルト、ドビュッシー、エリック・サティとクラシックが絶え間なく流れている。客に聞かせるというよりは叔父が自分で聴くための選曲だろう。
レトロな雰囲気を感じさせる店内の壁には、数多くの時計が飾られている。
私は作業台手前の床に打ちつけてある椅子に腰を置いた。椅子は少し力を入れた程度ではびくともしない。
入り口のドアにはルノアールの『ムーラン・ド・ギャレット』のコピーが雑に貼り付けられているのが見える。ルノアールの絵画の特徴は人間の複雑な表情の描写にある。無表情な叔父のことだ、来店客に送る笑顔を練習していたんだろう。
店の中を歩く。これでは客が来ないのも無理はない、床には木クズが散らかっていた。
それに、どの時計にも値札が付いていない。これについては以前、叔父に聞いたことがある。『作り手が価値を決める前に、売り手に価値を計って欲しい。時計はあくまでも日用品なんだ』だから、値段は買い手と相談して決めると言っていた。
いくつもの時計を見ていると、時計はそれぞれ違う時を刻んでいることに気づいた。どれをとっても同じものはない。
長針が短針を追い越す。そして、ついにその時は訪れた。
………暇だ。