第5話
2038年6月16日
細かい部分は曖昧なままだが自分のやらされていることについて概ね、頭の中でまとまりはついた気がする。だが同時にこうも思う。
なにも知らない方が利口なのだろうと……。軍が求めているのは言いなりの駒だ。
無限の可能性……、か。そんなものに手を出して軍はなにをしようとしているのだろう。だがな、前世紀の発明を見ても軍のやろうとしていることは底が見えるじゃないか。宇宙ロケットに話は似ているのだ。本当の目的は表向きの名分にきれいに隠蔽される。
休暇ばかりもらってもやることなどない。
手持ち無沙汰で家の掃除などを始めた。すると、なんとなくものの整理をしているうちにくずかごに軍の封書が捨てられているのを見つけた。私は不審に思って妻にきいてみた。
「なあレイチェル、軍から手紙が来ていたのかい?捨ててあるみたいだが、僕宛ではなかったのだね?」
くずかごから封書を拾い上げてみると、宛名は妻のものになっている。軍から妻に手紙が来るとは珍しいがそのまま捨てるというのも不用心だ。中身は入っていないが。
「ああ、それは私宛よ。中身は捨てたりしないから大丈夫。」
「ふうん。軍から君に、ね。もしよければ、どんなものだったか内容を教えてくれないか。」
私は何気なくきいてみた。
「減給の知らせなんか、本人より先に妻に行ったりするからね。油断ならないのさ。」
減給かどうかは別として、実際に本人に知らせずに家族に先に知らせが行く、ということはよくある。たとえば危険な任地に着任する前など、家族だけに先に通達が行くということがあるからそういったもので先が読めたりするのだ。ひどいのは未来の死亡通知のようなものもあるという話だ。
だが妻は家事の手を止めて驚いた顔でこちらを見ている。
「どうした?悪い知らせなのか?」
「い、いいえ。だって、それはあなたが書いた手紙でしょう?軍からのではないわ。」
「な……、に?」
なにを言っている?私が書いた手紙?妻宛に?いつの話だろう。手紙などここのところ書いた覚えはないが。
「覚えてないの?」
妻が怪訝そうな顔をしてきいてきた。
「ああ、覚えてないな。いつ届いた?」
「6日ほど前よ。」
私は封書の消印を見てみたが、それは6月9日となっていた。ニューヨークから送られたことになっている。
「中身は?手紙は捨てていないんだったな?」
「す、捨ててないわ。15年前の日記のことよ。帰る前にあなた自分で電話で言っていたじゃないの?」
ああ、確かに帰る前に日記のことで電話はした。
「今すぐその手紙を出すんだ。」
妻は心配そうにこちらを見て言った。
「ねえあなた……、どうかしたんじゃ……。」
「いいから早く出すんだ!」
私は有無を言わさず命令した。妻はおびえるように部屋を出て行った。
15年前の日記のことについて妻に宛てた手紙、手紙だと?私はメールを送ったのだ。なのに妻は手紙を受け取ったというのか?確かニューヨークから電話をかけたとき、妻は手紙という言葉を口にした。その時は気にもかけなかったが……。私は手紙など書いてもいないというのにその手紙は一体どこから出てきたのだろう。メールは届いていないのだろうか。そもそもメールは存在しているのか?
空になった封書をもう一度見てみる。ここの住所と妻の名前が書いてあるのだが、それが私の字に見える。だが私はこれを書いた覚えはないのだ。
ややあって妻が折りたたまれた一枚の便箋を持って戻ってきた。
「ああ、ありがとう。それが、つまり、僕が君に宛てた手紙なんだな?」
「ええそうよ。自分で書いた手紙でしょう?15年前の日記を送ってくれって。それを覚えてないってことなの?」
「ああ、僕はその内容をメールで送った気がするんだが……。いやでも、僕も慌てていたから手紙を送っておいてメールを送ったと勘違いしていただけなのかもな。驚かせて済まなかった。」
言いながら私は彼女の手から手紙をひったくった。彼女がますます怪訝そうな顔をしてこちらを見ているのがわかる。手紙はやはり私の字で書かれていた。
-妻への手紙-
レイチェルへ
まだこちらに来てから二週間ほどしかたっていないが、そちらは問題なく過ごしていることと思う。こちらもいつもと同じだ。心配はいらない。
突然だがひとつ頼みがある。この手紙を書いたのもそのためだ。
私の部屋の書棚の奥に昔の日記がしまい込まれているのだが、そこから15年前のもの(2023年のものだ)を見つけ出して送って欲しいのだ。受け取りのアドレスは別に記しておく。
変なことを頼んで済まないがそれが今すぐ必要だ。引き受けて欲しい。
6月8日
要件のみ、取り急ぎ
なんだこれは。
私はこれを書いた覚えはない。こういう手紙を書くことはあるが。それに日記がすぐに必要ならどうしてメールを使わずに手紙を送った?
私は思い違いなどしていないはずだ。この手紙は私の字で書かれてはいるが私が書いたものではない。間違いなくメールを送った記憶があるのだ。
これはなんの冗談だ?これを書いたのは私ではない、別の自分だ。
別の、自分?
ぞわりと背中にいやな感覚がはしった。
本当にこの手紙を私でない別の自分が書いたのだとしたら?しかしそうするとこれを実際に書いた別の自分とは一体何者になるのだろう。
「なあレイチェル、僕は君にこの内容のメールを送った気になっていたんだが、来ていないんだな?メールは。」
「来てないわ。」
「一度も?」
「あなたがニューヨークに行ってからはないわ。ねえなにかあったの?あったのなら説明してくれない?」
やはりこう考えるしかないようだ。
6月9日にこの手紙を書いて自宅に送った私がいる。それは他人のいたずらでも私の記憶ちがいでもない。字が間違いなく自分のものだし内容も私しか書きようのないものだからだ。つまり15年前の自分自身と会ってきたように自分でない自分が、どこから現れたのかわからないがこれを書いたのだ。
どこから現れたのだろう。
確かコーデルはこう言っていた。タイムトラベルをすると必ず別の世界に行き着くと。もとの世界そのものの過去、未来に行くことはできないとも。私はこれを聞いて15年前の自分自身に会ってきたことについて納得していただけで、もうひとつ重大な意味があることに気づかないでいたようだ。
これは‘行き’のことだけを言っているのではない。きっと‘帰り’のことも言っている。
……私は帰れていなかったということか。コーデルの言っていたことは行きだけの話ではない。そんな都合のいい話ではないのだ。なぜなら私はこうして帰ったと思っている今ここで、別の自分の存在を見せられてしまったのだから。
タイムマシンを使ってしまった以上はもう二度ともとの世界には戻れない。それでも戻れたように見えるのは別の世界とはいえその差違を極小に抑えて跳躍するからだ。彼は確かこういうことも言っていた。
「どうも思い違いをしていたようだ。」
私はそれだけ言って書斎に引っ込んだ。
この手紙がなにを意味しているのか、落ち着いて整理してみる。
私はこれまでの2回のタイムトラベルで別の世界の過去とはいえほとんど全く違いのない世界に跳躍した、はずだ。そして2回とも差違を最小に抑えて帰ってきた。だから過去の世界にタイムトラベルし、元の場所に‘帰ってきた’ように見えた。
今回も差違を極小に抑えて帰りの跳躍をしたはずだ。しかし私が今帰ったと思っているこの世界では、6月9日に私はメールではなく手紙を送っていた。そういう行動をとった別の自分がいる世界に私は‘帰った’のだ。
この手紙を送った別の私は今どこにいるのだろう。今の私のように少しずれた世界に‘帰った’のだろうか。
軍はこの別世界に跳ぶというタイムマシンの性質を知っているはずだ。私も今になって思い知らされたが、別の世界に跳ぶというのは帰りにも言えるのだからこれでは一度見送ったテスト要員は二度と戻らない計算になってしまう。軍はそれを知っているはずなのだ。知っていながらテスト要員が任務を終えて帰還することを前提とした実験をするというのはどういうことだろう。
きっともとのテスト要員がそのまま帰ってくることなどはじめから想定していないのだろう。だがなにかしら別のテスト要員が帰還するのだ。私も手紙とメールという明らかな違いのある別世界とはいえ‘帰った’ことになった。上は別のテスト要員が帰還したとわかっているがなにも問題はない。しっかりと成果も回収している。似たようなものなのだ。
私はなにもすることのない自室でひとり悶々と考える。レイチェルは相当気になっただろうがここまで来ることはない。ありがたいことにあまりうるさい性質ではないのだ。
外は雨が降り出したようだ。
6月の雨か……。少しテラスに出てみよう。
遠方には連なる山々が見えるが雨のおかげで白く霞んでいる。
この雨は、私の元々いた世界では降っているのだろうか。あの山々も、ここから見えるシアトル市街の風景も、私がタイムトラベルをする前とはどこかずれているのだろうか。そして今ごろキッチンで夕食の支度をしているレイチェルも?考えたくもない。
無限の現実があり無限の可能性があるのだからタイムトラベル実験をしている私も無限人いる。同じ任務を与えられて同じ行動をとり同じように帰還しようとする私も、たとえ差が極小でもちょっとした条件やパターンの違いから無限に存在する。だから結局はテスト要員は帰ってくる。そういう計算をしていいのだ。
ああなんという恐ろしい計算だろう。それはさながら無限個ある駒だ。使う側は駒が無限に用意されているのだからなにかを心配する必要もない。送り出された無数の駒がたとえ失敗しても、いや、帰ってこなくてもいい。いくらでもある無価値な駒を使い続けていればどこかで成果は得られる。そして駒は簡単には減らない。別の世界に帰ってしまう駒がいても私のようにその代わりに別の駒がさも自然そうに帰ってくるのだから。
駒というのは本来は数に限りがあるものだ。だから使い惜しみもするしよくよく運用のしかたに気をつけて無駄にするまいと思案する。だが無限個あったらそれは駒とも呼ばないのではないか。駒以下だ。無限にある塵をいっせいにふるいにかけてその中から使いものになる成果だけを掬い取る。掬われずに下に落ちた塵はまた吹き散らされるが今度はなにか成果を持ち帰るかもしれない。
軍はこうしてこれまで何人も二度と戻れぬ別世界に送り出してきたのだ。だがそれでも被験者は帰ってくる。被験者は帰ったと錯覚するのだ……。
2038年6月18日
軍から手紙が来た。今度は自分宛のものでニューヨークからだ。
新しい任務か。
だが手紙ということは急ぎではない。逆に気になる部分もあるが、休暇を言い渡しておきながら戻ってすぐの私に手紙とはおかしなことをする。毎度のように噛み合わぬことをする組織ではあるが。
私はすぐに軍の封書を開いた。用紙も軍の便箋が使われている。
――気をつけろ――
なん……、だ?
よく見てみる。
A5版の軍用便箋の端にただ気をつけろ、とだけ書いてある。これはなんだ。軍が書いたものではないな。いたずらか?
そうだいたずらに違いない。こういうことをしそうな者は心当たりがある。すぐに私は手紙をくず入れに放った。
……気をつけろ?一体なにに?
気になる。いや、だが他愛のないジョークだこれは。書いたのは前の所属の同僚に違いないさ。だが……。
まだ、なにかが書いてある?
くず入れからのぞく丸められた便箋にふと目を落とすと裏面か、まだなにかが書いてあるのが見える。私は慌てて便箋をくず入れから拾い上げた。裏面だ。まだなにかが書いてある。
―――とあるタイムトラベラーより―――
はっとして私はすぐに便箋をくず入れから拾い上げた。
とあるタイムトラベラー、だと?
これは……、いたずらではない。断じて違う。普通ならこの差出人を見ればいたずらだと確信するのだろうが。
ああ、だがこれはそうではない……。他愛のないいたずらだとできることなら思いたい。だがそうではない。そうではないとこれまでの全ての状況が物語っているのだ・・・。
文面は印字で手書きではない。しかし一体誰がこんな手紙を?たったこれだけの手紙でなにを伝えようとしているのだろう。ひとつだけ確かなことは、私が極秘のタイムトラベル実験に携わっていることを知っている人間がこれを書いたと言うことだ。偶然事情を知らぬ者がこんな酔狂ないたずらを仕掛けてきたなどとは考えようもないはずだ。
誰だ?
私に危険を知らせている?
あれこれ考えていると電話が鳴り出した。出てみるとニューヨークからだった。
話はすぐに終わった。休暇を切り上げてすぐに戻るようにとのことだ。実験再開だと言っている。
一体なにがどうなっているんだ?上が私の目の届かないところで、いや、目に見えないようになにかを探っているのはわかりきっているが、この際それはもういい。私はきっといかにも扱い易い良い駒なのだろう。だがこうも考えられる。上もおそらく暗中模索なのだと。
あの手紙が一体何なのか気になるところだが、言われたとおりにすぐニューヨークに戻ろう。
とあるタイムトラベラーからの手紙か。案外ウソではないかもしれない。私が無限人いるのと同じでとあるタイムトラベラーなどという者も無限人いるはずなのだから。
しかしあの妻への手紙を書き送った別の私といい、おかしなことが多すぎる。不可解だ。軍は自らが開発したタイムトラベル理論をなんとかしてものにしようとしている。上は上で解明したいことがあるのだろうが、私もここのところの状況から単なる被験者ではいられなくなってきた。実際に私は多世界の海を渡ってしまっているのだ。もとの世界にはもう戻れはしない。コーデルの語った多世界解釈が正しいのなら、私はもう戻る場所などないのだ。引き返すことはできない。
“気をつけ”た方がいいのだろう。
だが、私は自分の身に起きていることを知りたい。上には上の意図があるのだろう。秘密主義でも構わないさ。だが私は私でなにかを探り出してくれる。
だがそれはなんだというのだろう。
私自身の運命、か?
あの前時代のホテルは異世界への入り口だ。一度足を踏み入れてしまったが最後、もう戻ることはできない。待ち受けているのは仮借のない、剥き出しの運命だ。そこでは全ての現実が情け容赦なく襲いかかる。
戻れと言うのならすぐに戻る。次の任務でもなにかが起きるのだろう。きっと気持ちのいいものではないに違いない。
私は踏み越えてはいけないなにかをもう越えてしまったのかもしれない。その先に待ち受けているものがなんであろうと私は受け入れなければならないのだ。準備や覚悟などという話ではもうない。
私はすぐにシアトルを発った。
見送りに出てきたレイチェルは心配そうにしていたが、私は別れ際になにかを感じたりはしない。玄関に立つ彼女が自分の妻ではないなにかであるという考えを、私は振り払おうとはしなかった。
つづく