第4話
2038年6月15日
コーデル・リード。彼と会うのも久しぶりだ。ただ会って話をするだけでいいのに、妻に言ったらリード夫人も招いて家で夕食会をする運びになった。妻もそういう面倒が大層お好みなのだから仕方がない。
五年ぶりか。同じシアトルの街に住んでいるからいつでも会えるとお互い考えていたせいか疎遠になっていた。私もそう言われたが、彼も五年前と全く変わっていない。
妻はリード夫人に会いたかったようなので二人には勝手におしゃべりをさせておくとして、私はどこかで読んだSFを急に思い出した、という前置きで今回のタイムトラベルのことをコーデルに話してみた。
「それは多世界もので間違いないね。日記のわずかな違いなんかはよく扱われる題材さ。」
コーデルは珍しくもないといった風に答えた。
「そうか。じゃあ、そういった多世界解釈をベースにしているとタイムトラベラーは自分そのものではなくて平行世界の住人、つまり別人の自分に会うことになるんだな?正確に自分そのものに会うことはできるのかい?」
「できない。会えたら多世界ものとは違ったジャンルになってくる。そういうのだと大抵は自分に会ったら大変なことになる、とか言うんだがね。」
「仮に五分前に戻ったとしても会えるのは別の自分?」
「別だね。一秒だって別さ。タイムトラベルをすると必ず別の世界に行き着く。だから元の世界そのものの過去、未来に行くことはできない。これが多世界解釈だ。ただ別と言っても元の世界との差を極小に抑えて跳躍するはずだから、別世界でも過去や未来に跳んだと考えてもいいわけなんだよ。もちろんパラレルワールドだから元々いた世界とはなにも関係はないんだけどな。」
「そう……、いうことになるのか。」
コーデルのSF好きは異常だが本物だ。今回の任務についてもなにか説明がつきそうな気がしてきた。
「急にどうしたんだ?SFは読まないんじゃなかったか?」
怪訝そうにこちらを見てコーデルが言った。わたしは「オレも読書の幅が広がったのさ。」と適当に流した。
「多世界ものだと過去に戻っても元の世界とは無関係だから、よくある未来を変えるとか、過去を修正して現在を変える、とかができないんだよね。だから大抵主人公は過去に行かされてもものを回収してくるくらいしかしないわけ。戦争で失われたテクノロジーを過去に戻って回収してくる、とかはよくある話さ。展開が限られてくるんだよ、多世界ものは。それでもうまい作品はいくつかあったが……。」
私は思考を整理するのに必死だったが、コーデルは私がSFに興味を持ったと思ってうれしそうに語り続ける。
「ところで、多世界ものじゃないSFで、過去の自分に会ってはいけない、と言うのはなぜ?やっぱりそれが正真正銘の自分そのものだから?」
私は彼のうんちくを強引に遮って質問した。だがそれにもかかわらずコーデルは嫌そうな顔もせずに答えた。
「なあ、これはよくあるべたな話じゃないか。過去の自分自身に会ってしまったらなにかまずいことになるに違いない。そう考えるのが自然な感覚さ。そういう一般的で、直感的な普通の感覚に合わせた話を作れば理解しやすいしうけもいい。そうだろ?」
「そんなことはオレにもわかるさ。だが実際にはなぜなんだ?」
「矛盾するからさ。君の言うとおり、正真正銘の自分そのものだからだよ。ちょっと考えてみればわかる。仮に五分前の自分に会おうと思い立ったとする。それでタイムマシンに乗って五分前に行こうとするのだが、本当に会うつもりならその時点で五分前に自分と会った、という記憶がなければおかしい。もしくは自分は一人だけでそもそも過去の自分はいないか、だ。よく言う親殺しのパラドックスをもっと簡単にした話さ。」
「そう考えるとそもそも過去に戻る、ということ自体が不可能になる結論だな。聞いたことがある。」
「そうだな。この矛盾を突き詰めていくと、最後に時間順序保護仮説に辿り着くんだと思う。本当は小難しい物理の話があるらしいがね。そもそも過去を変える、過去に影響を及ぼすような行動は一切とることができない。よって過去へのタイムトラベルは不可能。はい終わり。となってしまう。タイムマシンをつくろうとする行為自体が因果律に反する、矛盾する、という話さ。これじゃあおもしろくもない。」
それでもうまい話はいくつも見たことがあるぜ、とコーデルはまたひとりで語り出す。
「なら多世界解釈についてもう少し聞きたい。」
「いいぜ。」
コーデルは私が急にSFに飛びついてきたのを見ていかにもうれしそうだ。
「以前どこかで、無限の可能性と無限の世界、という記述を読んだ覚えがあるんだが。」
「ずいぶんとうまく片付けたものだが、そう考えても間違いではないと思うな。」
「それは言葉通りに考えてもいいのか?本当に限りが無い、ただたくさんあるというとらえ方でもない、“無限”であると?」
「そうなんだろうな。無限なんて言われてもピンとこないけどな。つまりはあらゆる可能性、あらゆる結果のバージョンが平行、多重に存在している、というのが多世界解釈なんだ。だからやっぱり、無限なんだと思う。」
無限、か。言葉は簡単だがその概念はとらえがたい。現実離れしていると言ってもいい。
「そうか。君はさっき、過去に戻っても元の世界とは無関係だと言った。似ているだけの別世界だと。本当にそれは別世界なんだな?自分に会ってもそれは別人、よく言う親殺しのパラドックスは起きない、ということなんだな?」
「起きない。やろうとすれば自分を殺すことだってできる。多世界解釈ではあらゆる可能性が存在する。親や自分を殺したところでそれも単なる可能性の一バージョンでしかないんだ。自分の元々いた世界にも、自分にももちろん影響はない。独立した別の世界、別の可能性の出来事でしかないということさ。」
「わかりにくいな。なら今ここでこうして君と話をしている自分というのも、無限の可能性の単なる一バージョンであるということなんだよな。そうでないあらゆる可能性、無限通りの世界が平行して、折り重なって目に見えず存在していると?」
「その通り。人間には別の世界が絶対に見えないからそうやって言うんだ。しかしそう言われてもああそうか、とすぐにわかる人はあまりいないと思う。むしろ分岐だよ。そう考えるとわかりやすい。仮に君が親を殺したとする。すると死んだ時点で親が死んでいる世界Aと親が生きている世界Bに分岐するのさ。その裏にはまた無限のバージョンとそれに基づいた無限の結末があるんだろうが、観測者である我々個々人から見れば、やはり死んでいるか生きているかの分岐にしか見えない。個々のレベルで見ればそうとらえても問題はないんだ。」
「だけどその分岐だってたったの二つだけではないと思うが、殺し方一つをとってもパターンはいくらでもあるぞ。」
「だから無限の可能性だと言っているじゃないか。人間には未来は見えないんだ。一つの過程と一つの結果しか観測できない。だから多世界なんていう解釈もできるんだ。それを無理矢理シンプルに考えると分岐に見えなくもない、とわかりやすく説明したつもりだったんだけどな。無限の可能性と無限の世界なんて人間が見ることはできないんだ。相反する結果を同時に観測することができないから分岐と言った。だが実際には相反していようとすべての結果が、その可能性とともにあまねく存在しているのさ。」
人間には未来は見えない、か……。そういえばあのマシンは未来へは行けるのだろうか。
「では仮に、今オレが15年前にタイムトラベルしたとする……。」
「ああ、そうしたらまずこう考えなきゃならないな。行き先の15年前の世界はタイムトラベラーの君のいる世界Aといない世界Bに、君が到着した時点で分岐する、とね。」
「結果はそれだけか?もちろんそのAとBの世界も無限の可能性の一つに過ぎないのだろうが。」
「一つ確認しておくが、AもBも元の君の世界とは別物だというのはいいよな?元の世界との時系列的な直接の因果のつながりはない、というのは忘れてはいないな?」
「ああ忘れてない。それが多世界解釈の基礎なんだろう。」
「うむ。結果はわからない。ただ無関係なその行き先の世界が分岐したというだけの話だ。君のせいでというわけでもない。主観的に考えればタイムトラベラーのせいにも見えるが実際には無限にあるパターンの一つに過ぎないんだ。だがそのもたらす結果は予想なんてできやしない。未来が予測できないのと同じさ。」
「しかし、タイムトラベラーが現れた世界はそのイレギュラーな存在のせいで分岐して、その影響で本来とは違った結果を迎えることになりはしないか?」
「確かにタイムトラベラーの来なかった世界とは違った様相を呈するのだろうが、君の言うイレギュラーな存在のせいで、という考え方は間違いだ。」
「どうして?仮に15年前に現れたオレがそこで、何でもいい、ものを盗んだりしたら、それはその世界の本来の因果律に反しているとは思わないか?あるいはオレのせいでその世界はそれまでの因果からまるきりかけ離れた変貌を遂げてもおかしくないじゃないか。」
そうだ、15年前の彼は本来なら日記をなくしたりはしないはずだった。それを本来は存在しないはずの者によって奪われたのだ。不条理だと言っていい。
コーデルはそれでも自信に満ちた様子で答えた。
「多世界ものに登場するタイムトラベラーは得てしてそう考えるものさ。だがな、そういう考え方は実際には間違いだ。そもそも本来の因果律とはなんだ?その世界の本来のあるべき姿とは何なんだ?そんなものは未来が予定されてでもいない限りありはしないんだよ。無限の可能性と言ったはずだぞ。だからタイムトラベラーの存在はイレギュラーでもなんでもない。タイムトラベラー自身からみれば自分が世界を変えてしまったようにも見えるが、現実にはそれもまたその世界の無限のバージョンの一つでしかない。タイムトラベラーが来なければこうだった、と予想することはできてもそれが予定されているわけではないんだ。」
わかりにくい。話全体が不明瞭だがこれも無限の可能性という言葉のつかみにくさに起因しているのだろう。考えるほどに現実離れした言葉だと思う。およそ人間の感覚で理解できるような言葉とも思えない。
あの15年前の彼はなんだったのだろう。無限の可能性という大海の、ほんのひと掬いの世界、そこに住まう別の自分……。
「じゃあ突然タイムトラベラーが現れて何かをしていく、という筋書きもまた本来の因果の内だと?予定され得ること、ということか?」
「本来の、とか予定とかいう考え方自体が適当じゃない。未来はあらゆる可能性によってあらゆるバージョンを経て、あらゆる結果を迎え得るからだ。タイムトラベラーがその世界を変えてしまったと言うのなら、同様にその世界に住む我々にだって変えることができると言える。全ての未来は間に何が入ろうともあらゆる可能性によって予測不能に形づくられるのさ。多世界解釈に予定や因果という言葉はなじまないんだ。」
「だいぶ哲学的になってきたな。話は何となくわかったが、どうも要点はつかめそうにないよ。無限の可能性という言葉が全てをわかりにくくしている、というのはわかる。」
「だけどその言葉が出発点じゃないか。あーあ、オレもわからなくなってきたよ。しかし因果律だの予定だのといった運命論的なものを徹底的に排除したらこうもなるんじゃないのか。世界を変えるのはタイムトラベラーだけではない。その世界の人間がやろうとすればいつでも変えることができる、というくだりは好きだよ。どこかで読んだんだが。」
コーデルの言いたいことはわかる。多世界云々の話を抜きにしても、未来は無限の可能性によって形づくられる。この考え方はごく自然だ。コーデルは続けた。
「……でも重要なのは理論や解釈じゃないと、やっぱり思うわけよ。そういうガチガチなのを読みたければ本物のハードSFを読めばいい。ずいぶん昔に廃れちまったジャンルだけどな。
大切なのは人間ドラマ、そうは思わないか?」
「……ならば、多世界解釈の方が自然だと考えていいな?」
彼は私の唐突な切り返しに面食らった様子を見せた。
「そ――そりゃ、タイムトラベルなんていう自然じゃないことを自然に考えようとしたら、多世界解釈なんていうおよそ自然とはかけ離れた理論を持ち出すしかない、という話だろ。なあ、今日は一体どうしたんだ?」
「なんだ、君が話したそうにしてたんじゃないか。」
「おいおい、茶化すなよ。いずれにせよ、タイムトラベル理論は今となってはSF創作上の小説技法の理論でしかないんだ。机上の空論だと言っていい。それもハードSFでもなければ小説の主役になるべきテーマじゃない。裏方の舞台装置にとどまるべきものなんだよ。」
机上の空論か、きっとそうであるからこそ小説に扱われるのだ。実現してしまってはそこにはドラマの何もないに違いない。
「わかった。それじゃあ、君は過去へのタイムトラベルを信じないんだな。」
コーデルは私の問い詰めるような物言いに気圧されたようだった。
「それは……、現実には信じないね。それにそんなある、ないの議論を今さら小説でやってほしくはないし……。」
「……。」
コーデルがゴクリとワインを飲む音が聞こえる。前に座る妻とリード夫人も私たちのただならぬ雰囲気に気づいたようだ。心配そうにこちらをちらちら見ている。
それでも私は、
「なぜ信じない?」
ときいていた。
「それは……、なあ、だってこれは信じる、信じないの問題じゃないじゃないか。そうだろ?オレたちSFの話をしてるんじゃなかったのか?」
こう言われてしまうとこちらも言い返せない。
「まあ、そうだSF小説の話だ。」
仕方がないのだ。彼ほどSFが好きであってもまともな人間ならタイムマシンなど信じる信じない以前の問題だ。SFであるのなら机上の空論、であるべきなのか。
「タイムトラベルものはもうずいぶん昔に確立されたジャンルだ。理論や解釈は偉大な先駆者たちによってもう出尽くしたと言ってもいい。それでもタイムトラベルもののSFが今も読まれるのはなぜだと思う?
それはな、それが人間ドラマだからだよ。今さら理論や解釈をごてごて並べ立てても喜ぶのはマニアだけだ。タイムトラベルというコアなSFの下敷きを使おうとも作者が描くのは飽くまで人間の苦悩や葛藤なんだ。だから多くの人が読んで共感し、感動もする話ができる。それが小説を離れてマシンを現実につくろうだなんて普通じゃない。可能不可能以前の問題だ。現実にはドラマなんてありはしないんだろうよ。きっとつくってからなかった方がよかったと思うよくあるオチになるパターンさ。」
それは確かにもっともらしい。だがSFマニアのコーデルにしては現実的な返しだ。彼らしくもない。
「どうしてそう頑ななんだ?実際に開発の話は聞くじゃないか。確かに普通は信じたりしないだろうが。」
「……君もずいぶんこだわるんだな。」
コーデルは少し考える風に、下を向いて答えた。グラスを手にとってまたワインをやりだす。
「なあ、もうこの話はやめにしよう。オレはもうなんだか胃が痛くなってきたよ。」
彼はチッと舌打ちをしてグラスをガタリと置いた。もうある程度酒が回ってきているようだ。
ふむ、あまり焦って彼から聞き出そうとするあまり、普通の夕食会でするようなまともな話題とは言えない、それこそ議論のようなものになってしまった。コーデルは辟易した様子で前に座るレイチェルと話し出している。
しかし確かに夕食にしては重い議論をふっかけた私にも問題があったが、コーデルはどうしてああも唐突に話をやめたがったのだろう。酒がまわっただけか……。
「ごめんなさいね。もうお酒が効いてきてしまったみたい。こうなってしまうと5秒前のことも覚えてられないみたいで……。」
不意に正面に座っていたリード夫人が言った。
いけない、この人のことをすっかり忘れていた。私は最前までの話の内容を反芻するのに集中していたので驚いてしまった。
「そ、――それは仕方ないですね。ただ、少ししか飲んでいませんよ、彼。」
夫人は訳知り顔で頷いている。
「話、聞いていたんですね。」私は尋ねた。
「タイムマシンがどうとか、未来の可能性がどうとか?」
「ははは、聞いてらしたんですね。いや、おいしくもない話を失礼。」
「いいえ、おもしろそうじゃないですか。無限の可能性と無限の世界、でしたよね。私も主人の本をいくつか読んだことがあるんですよ。」
「なんだ、奥さんもお詳しいんですね。」
「まさか。でも多世界解釈の話でしたね。それならいくつかおもしろい話を読んだことがあって。」
「それは、どんな話でした?お聞かせ願いたいですが。」
私はそれからリード夫人とSFの話をしたのだが、どうも彼女は夫とは別のジャンルのSFが好みのようで、SFをあまり読まない私は相手を務めるだけで精一杯だった。よくもまあ夫婦そろって奇異な趣味を持ったものだ。
「でも無限の可能性と無限の世界、と簡単に言うようですけれど、でもこうは思いません?もし現実が本当に無限にあるのなら、もうそれ以上の現実はない、という状況を引き起こす現実が必然的に生じる、なんて。」
話の流れから彼女はこんなことを言ったのだったが、私は言葉の意味がすぐにはわからなかった。それ以上の現実はない、という状況を引き起こす現実?現実が無限にあるのならそういう現実もまた存在すると?
だがよく考えてみると、……そうだ。無限の可能性というとらえがたい言葉の矛盾を、うまく言い得てはいないか?無限に終わりがあるのか?
「と、いうのを以前読みましたの。」
「そ、それはどこで?」
「タイターですよ。ご存じですよね。もうずいぶん昔の話ですけれど、ネット上で彼に対してこういった指摘があったようなんです。」
ジョン・タイター、私もどこかで名前を聞いたことがある。確か彼は2036年からのタイムトラベラーだった。だが本当に昔の話だ。彼が現れたのはもう30年以上も昔のはずだし、2036年だってもう過去の話だ。よくは知らないがペテンだと叩かれた彼の理論も多世界解釈に基づいていたはずだ。ただ彼の予言はことごとく外れ、タイムトラベル自体が不可能と言われた今となってはどこにも彼のことを信じるものなどいない。
そんなものを今さら持ち出すとは彼女もお里が知れるが、私は現実を見てしまっている。この30年前のネットでの洞察はとても微妙なポイントを見事に突いている。
「それは……、詭弁ではありませんか?無限の可能性という言葉自体が矛盾していると?」
「そうなりますわね。」
夫人はさらっと答えた。
「では多世界解釈は、無限ではないと?これもどこかで矛盾しているのと言うですか?」
「そんなことはわかりませんわ。タイターはこの指摘に応えずに姿を消してしまったんですもの。ただ、無限の可能性、の一語で全てを片付けようとすると思わぬ罠に落ちるのでは、と私は思いますの。」
最早ここまでくると言葉遊びの感も否めない。だがこれは見事な指摘だ。センスさえ感じる。
「これは……、言葉遊びですね?」
「そうかしら。そうおとらえなら結構ですけれど。」
「……では聞かせていただきます。その、それ以上の現実はないという現実を引き起こす現実、というのはどういうものなんでしょう。どのようにお考えなのです?」
「それはわかりませんわ。ただ無限の可能性という言葉に対してこういう考え方もある、ということではなくて?あなたはどう思われますの?」
「それは……。」
私は返答に窮した。それは、無限ではないということ、有限?
いや、難しく考えることはない。
「それは、どこにでもあるのではないですか?例えば今、私が右手にナイフをとろうと、グラスをとろうと、その選択はどちらも十分あり得る、自然なものです。しかしその手にとったナイフを、突然自分の喉元に突き立てる、というのはどうです?これはあり得ない選択です。無限の可能性というからにはその可能性もゼロではないかもしれません。しかしそのあり得ないこと、限りなくゼロに近い可能性、それが無限の終わりではないかと、今思いました。だからそれはどこにでも、いくらでもあるのではないかと。」
夫人は驚いた様子で目を丸くしている。思いつきで言ったのだ。お話にならない幼稚な洞察、そう思われても仕方がない。
「それこそ詭弁ではありませんの?でもおもしろいことをお考えになりますのね。私はそんなこと全く思いつきもしませんでした。けれどもそれは、無限とは言わないのではないですか?それにもうひとつ言わせていただきますと、やはりあなたが喉にナイフを突き立てる可能性はゼロではない、どんなにあり得なくても、それでも存在するんですわ。あなたが今、この瞬間にもナイフで自害する世界というのは。それが多世界解釈なんですもの。」
「じゃあやっぱり矛盾してるんじゃないですか。」
「ええ、矛盾してますわよ。」
またしても夫人はさらっと応えた。
「ゆ、誘導しましたね?」
「あら失礼。でもあなたがおっしゃることももっともだと思います。私なんか本当のそういう現実が存在するのだと思ってましたもの。」
「と、おっしゃいますと?」
夫人は少し間を置いて答えた。
「もうそれ以上の現実はないという状況を引き起こす現実、そのものがぽつんとひとつだけ、可能性の海のどこかにあるのではないかと。」
「そんなものが……?」
「それは、全ての可能性が死んだ世界。全てはあらかじめ決められた一本のシナリオによって淀みなく進行する。黄金律の世界。」
「それは、……あの世、ですか?」
「あるいは、天国かも。」
黄金律の世界、無限の世界のどこかにそういう現実があると仮定してみる。だがこれも無限の可能性という言葉には反する、そうではないだろうか。そう言う者もいるかもしれないじゃないか。
無限の可能性という言葉自体が矛盾を内包している。それがこの掴めない言葉の罠、なのか?わからなくなる。
「―――地獄って言うんだよ。そういうのは。」
いつの間にか聞いていたらしいコーデルが言った。さっきよりも酔いがひどくなっているのがはた目にもわかる。
「君ももうやめておけよ。こんなのと言葉遊びだなんて、バカをみるだけだぜ?大概にしておけよな。」
コーデルは自分の妻を指さして言う。どうも呂律もあやしくなってきている。
「ああ、わかった、わかったよ。」
私は彼の背中をさする。
言葉遊び、か……。それもそうだ。タイムトラベルなんてまともな感覚を持っていればSF好きであっても信じたりはしないのだ。それが普通だ。現実を見せられるまでは……。
コーデルの様子もあるし、夕食会ももうすぐお開きだろう。だが私は聞いてみる。
「では最後に、奥さん、あなたはタイムトラベルを信じますか?」
「信じますわ。」
「な……に?」
またしてもさらりと答えられた。
「無限の可能性、多世界解釈を信じるのなら、可能性は無限なのだからタイムマシンも信じざるを得ないのではありませんこと?」
「いやでも奥さん、そもそもタイムマシンが可能であるのなら、多世界解釈で説明するしかない。さっきコーデルがそういう風に言った。だから、それは、……逆じゃないですか。信じる順序が。」
「ええ。おっしゃる通りですわ。」
夫人は楽しそうにそう言った。目がいたずらっぽく笑っている。
「そういうこと……、なんですか。」
「ええ、そういうこと。」
「……わかりました。」
夕食会はこれでお開きになった。コーデルはひどい有様だったが、またこの話題について話を聞きたいという私の申し出には二人とも快諾してくれた。
思考実験、言葉遊び、机上の空論、常識ではこう言うのだろう。紛れもない非現実だからこそ思考と言葉だけの“実験”、“遊び”として成立する。だが私にとってこれは現実だ。実験でも遊びでも済まされはしないのだ。
つづく