縋ったりはしません。完璧な妻にはなれないので、家を出ます。
初めてのシークレットベビーものです。
元さや?的な話です。前向きで逞しい女性達の話です。元夫はとても残念な人間ですが、一応反省するので、大きなざまぁはありません。ただし、ヒーローではない男達はざまぁされます。
少し長いのですが、連載形式より、短編向きの話だと思ったので、こちらで投稿します。
AIは言葉選び、漢字確認に使用しています。話は作者本人の発想、構想によるものです。
よろしくお願いいたします。
私の名前はシルベット=ガードナーといいます。十二歳で完璧と呼ばれる侯爵令息オットーの婚約者になり、その六年後に妻となりました。
しかし、たった今、旧姓のドルナンドに戻ることが決まったようです。
日頃から、亡くなった母親のような完璧な妻になれと夫に言われ続け、相応しい妻になれるように努力してきました。
しかし、彼の望む完璧な夫人になど、なれるわけがありませんでした。
もちろん、自分の努力が足りなかったせいもあるのでしょうが、そもそも亡き侯爵夫人が完璧と呼ばれていたのには理由があり、私一人頑張っても到底無理な話でした。
その仕組みについて、ただの婚約者に過ぎなかったころの私でさえ、気付いていました。
それなのに、実の息子の彼だけが、ガードナー侯爵家内のその公然の秘密に気付くことはありませんでした。いいえ、今もなおそうなのです。
完璧侯爵と呼ばれていた彼の父親は、夫とは違って私を息子の嫁として認めてくれていました。
しかし、オットーはそのことも気に入らないようでした。
自分は完璧な妻を娶っていながら、息子にはこんな不完全な婚約者を与えるなんて、と。
だからこそ、結婚して三年経った今日、彼は私に離縁を言い渡したのでしょう。
その離縁理由は「嫁して三年子無しは去れ!」でした。
もちろん、そんな法律はすでに存在しないのですが、貴族の社会ではまだまだその考え方は根強く残っているのです。それに完璧侯爵にとって、この事はとても重要な問題だったのでしょう。
でも一応聞いてみました。子供のことだけが不満なのか、それとも他にも不満があるのかを。今後の参考にするために。
「子供のこと以外は、侯爵夫人としては特に問題はなかった。しかし、これまで君は、エリザ殿やアンリエット殿の助けを借りてどうにか仕事を回してこられてただけなのだろう? 母上とは違って。
その程度の妻なら、別に君でなくても構わないだろう?それなら趣味の合う人間がいいと思っている。
私はオーケストラの演奏会を聴くのが好きだが、君は歌劇が好きだろう? しかも格式高い生歌劇ではなく、喜劇だ。
趣味嗜好が違うから、一緒に出かけたことなんてほとんどはなかっただろう?
夫婦で劇場にさえ足を運べないなんて、世間体が悪いだろう?」
オットー様の言葉に呆れましたわ。
たしかに、生歌劇ははっきり言って好みではありませんでしたし、私が好む喜劇のオペラを彼が好きではないと知ってからは、お誘いしませんでした。ですが、私は別にオーケストラを嫌ってなどいませんでしたよ。
これまで共に出かけなかったのは、お互いに忙しくて時間が合わなかったからでしょう。
こちらが合わそうとしても、貴方は絶対に譲りませんでしたからね。てっきりお一人で参加するのがお好きなのかと思っていましたよ。
それにしても、そんなつまらないことで離縁ですか?
いえ、完璧侯爵様にとっては、その些細なことさえ耐え難いことなのかもしれませんね。
しかしながら、私の代わりならいくらでもいるとおっしゃるのは、少々現実を見ていらっしゃらないのでは? とは思います。
まあ、負け惜しみを言っていると思われるのも嫌なので、口にするつもりはありませんが。
義父の愛人であるとされるエリザ様とアンリエット様だけでなく、家令のローマンさん、侍女長のリーナさん、乳母のカレンさんが反対してくれました。
しかし、半年前に義父が突然事故で亡くなり、オットー様がすでに家長となっていたので、誰もそれを止めることは出来ませんでした。
まあ、私も無理に留まろうとは思っていなかったので、素直にそれを受け入れました。
ただし、結婚前の契約だけはしっかり履行して欲しい、と主張しました。
持参金の返金、慰謝料(子ができなかった原因はどちらか分からないため)を請求しました。そもそもの離縁理由があれでは、普通なら到底離縁なんて認められませんもの。
これまで従順で文句一つ言うことのなかった私が堂々とこんな要求したので、彼は驚いた顔をしていました。
しかし、私は婚約時代からずっとこの家のために働いてきました。ですから当然のことです。
「離縁された女性が実家に戻されたら、どんな惨めで辛い扱いを受けるのかご存じなのですか?
もし、修道院へ逃げようと考えても、持参金が用意出来なかったら、そこでも悲惨な目に遭うのですよ。完璧侯爵ともあろう方が、そんな冷酷な真似はなさいませんよね?」
夫の乳母であるカレンさんが少々大袈裟に援護射撃をしてくれたので、彼はすぐに応じてくれました。
私達にとって鬱陶しい「完璧侯爵」という言葉も、使いようではこちら側にも有利に使えることが証明されましたね。さすが年の功ですわ、カレンさん。
完璧侯爵がいなくなった後、私は戦友の皆様と談話室へ移動しました。
「シルベット様、貴女がいなくなったらこの家も終わりよ。あの子のところに後妻に来てくれる女性なんていやしないもの」
エリザ様が力なくこう言いました。
「見つからなくても、皆様がいらっしゃれば大丈夫でしょう?」
私がそう返すと、エリザ様だけでなく、アンリエット様まで力なく笑いながら首を横に振りました。
「あの完璧侯爵は、私達二人のことを自分には不要な存在だとして切り捨てるわ。私達がこれまでこの家のためにしてきたことを彼は理解していないから。貴女のことと同様にね」
エリザ様が悲しそうにそう言うと、アンリエット様も頷きました。だから私は二人にこう伝えたのです。
「そのときは、ぜひとも私の所へいらしてくださいね。お二人が側にいてくだされば私もとても心強いですから。
実は新しい事業を起こそうと思っているのです。ですからお力をお借りできれば助かります。これは決して社交辞令ではありません」
「もしかして以前おっしゃっていたことかしら?」
「ええ、そうです」
「それは楽しそうですね。ぜひ協力させてくださいな」
「私も、ぜひ加えてください」
二人はすぐさま私の申し出を受けてくださったので、私はホッとしました。
というのも、彼女達はまるで、私の姑のような立ち位置の方々でした。
しかし、実のところは仕事仲間、同志でした。そのゆえに、彼女達とはこれからも一緒に働きたいと思っていたからです。
「いざとなったら、私達のこともよろしくお願いいたします、シルベット様」
カレンさんと侍女長のリーナさんまでそう言い出しました。
「もちろんよ」と私は即答しましたが、この二人までいなくなったら、この屋敷は崩壊するだろうな、と心の中で思いました。
離縁の書類にサインをすると、私はその二日後には侯爵家を後にしました。
オットー様は見送りもしてくれませんでしたが、却ってその方が良かったと私は思いました。今さらあの不機嫌そうな顔など見たくはありませんもの。
それに、彼を見たらつい、ほくそ笑んでしまいそうで、それをこらえるのも大変だと思っていたので助かりました。
元夫のオットー様は、周りから完璧侯爵と呼ばれて、ご自分でもそう思っています。でも、お父上同様に完璧などではありません。
お父上の方はまだご自分が完璧ではないことをご存知でした。その上でそう見える努力をなさっていました。
そして外からは完璧な人だと思われたまま亡くなりました。
でも、屋敷の者達は実の息子以外は全員、彼が完璧でなかったことを知っていました。
むしろ、欠点の多い人でした。その中でも彼の一番の失敗は、息子にその欠点を見せなかったことだと思います。
なぜなら、息子は父親をまるで神か何かのように崇拝し、尊敬し、彼のようになりたい、なるのだと思い込んでしまったからです。
世の中に完璧な人間などいるはずがないのに。
前侯爵は夫人が亡くなった後、息子に真実を話そうとされていました。そして私が離縁したいのなら、その後の生活の保障をすると言ってくださっていました。
しかし、そのわずか一月後、妻の後を追うように馬車の事故で急死なさったのです。
もう少し前に真摯に息子と向き合ってくれていたら良かったのに、と正直思いました。ですが、タラレバを愚痴っても仕方ないので文句を言うのは止めました。
前侯爵が亡くなられる三か月前、病気で急逝された侯爵夫人アイリーン様は、王家の血を引く元侯爵令嬢で、完璧と呼ばれるほどの淑女であり、とても美しい方でした。
私も初めてお会いしたときは、あまりの美しさに思わずポォ〜っと見惚れてしまったくらいです。
その上夫人は全く気取らない気さくな方で、私のこともとても可愛いがってくださいました。
しかし、ご自分に関しては人の悪意を読まないというか、やり返せない方だったので、社交には向かない方でした。どういうことかというと、嫌味を言われたり、けなされたり、嫌がらせをされても気付かなかったのです。
妻を溺愛していた前侯爵はこのことに心を痛め、社交場に参加しても、妻の側から決して離れませんでした。つまり夫人は社交場に出ても、夫の側で微笑んで頷くことしかできませんでした。
お茶会も侯爵が厳選した夫人の信奉者ばかりが招待されていたと聞いています。
しかし、特定の人間とばかり付き合っていたのでは、侯爵家として必要な情報が不足してしまう。夫だけなく妻である夫人も悩んでいらしたようです。
しかし、出産後、久し振りに社交の場に現れたガードナー公爵夫人は、以前とはすっかり変わっていました。
そしていつしか彼女は、完璧侯爵の完璧夫人だと言われるようになっていました。
なぜ彼女がそんな風に変貌したのかというと、彼女は妊娠中に、秘密兵器を見つけ出していたからです。
もちろん兵器と言っても決して危険な物などではなく、夫人のために、隠し球と呼べる素晴らしい人材を雇ったからでした。
その秘密兵器となった参謀が、夫人に一体どのような策を授けたのかというと……
貴族社会において、下位貴族から上位の者に話し掛ける事はご法度です。そのため、アイリーン様が話す相手となると大方決まっています。
そういう方々との会話は、その内容が事前に決まっている事が多いのです。
そこで参謀は問答集のようなもの作成して、事前に夫人に手渡します。彼女はそれを参考にして、台詞のように必要な話を口にするようになったのです。
そう。多少の皮肉や嫌み、そして尊大な態度も、彼女は演技としてならやり返すことができたのです。
頭のいい夫人は、あっと言う間に様々なパターンを頭に組み込んで、上手に使いこなしたのです。
誰とどんな内容の会話をするのか、その問答集を作っていたのが、オットー様が父親の愛人一号だと思い込んでいる、エリザ様だったのです。
ですが、彼女は元侯爵の愛人一号などではなく、ガードナー侯爵家の侍女でした。つまり契約を結んで雇われた、正規の使用人だったのです。
エリザ様は元子爵令嬢で、学園を優秀な成績で卒業された才媛でした。
卒業後に婚約していた伯爵令息の元に嫁いで、ご子息を一人お産みになったそうです。しかし、それでもう用なし、とばかりに、彼女は離縁されてしまったのだとお聞きしました。
なんでも、その元夫は、婚約時代から平民の女性と浮気をしていたそうです。
ですが、身分違いで結婚を許されなかったために、親の決めた婚約者だったエリザ様と仕方なしに結婚したのだと聞きました。
ところが、跡取り息子が誕生して間もなく、義両親が流行病で亡くなりました。すると、愛人だった恋人を知り合いの男爵家の養子にしてもらい、妻にしようと画策したのだそうです。
その結果、彼女は息子を奪われ、着の身着のままで屋敷から追い出されてしまったのです。
しかし、実家へ帰っても皆に厄介者扱いを受けて居づらかったので、職業紹介所へ行ったのだそうです。
そしてそこで紹介してもらった所が、あのガードナー伯爵家だったというわけです。
エリザ様は、侍女でもメイドでも、住み込みで働けるのならば、何でもやるつもりで面接をしに行ったのだそうです。
そして、ガードナー侯爵夫人アイリーン様によって、すぐに採用されたそうです
しかも、夫人付きの侍女となったのでした。というのも、夫人にとってエリザ様は学園時代の二級上の先輩で、憧れの先輩だったからだそうです。
エリザ様は、下位の身分ながら成績優秀者で、生徒会役員をされていたそうです。堂々としたその姿は、当時女生徒達の羨望の的だったといいます。
入学当初、アイリーン様はその類稀な容姿のために、妬みから嫌がらせを受けていました。
そんな彼女をこっそり助けてくれていたのが、他ならぬエリザ様だったのだそうです。
結婚してすぐに妊娠し、しかも悪阻が重かったアイリーン様は、当時とても不安で心細い思いをなさっていたそうです。
だから、エリザ様と再会したとき、天の助けかと思ったのだそうです。
そしてその際、アイリーン様は彼女の境遇をお知りになりました。そして、エリザ様のご実家と嫁ぎ先の伯爵家に対して、激しい憤りを覚えたそうです。
たしかに、アイリーン様は自分に対する悪意には寛容な方でした。ですが、自分が大切にする人間に対しては、容赦をしない方だったというわけです。
完璧な淑女ではなかったからこそ、彼女はとても魅力的で、理想的な女性だったのだと思います。
私も婚約中にそのお話を知ったとき、とても腹が立ちました。
だからこそ、エリザ様のご実家と、嫁ぎ先の伯爵家のその後の経緯を知ったとき、胸がすく思いがしたのです。
巷で人気になっている小説の言葉を借りるならば、悪党達がざまぁ〜されて気分爽快になりました。
そもそも、才色兼備のエリザ様を蔑ろにしたようなご実家など、たかが知れていたのです。
アイリーン様が敵意を向けていることが知れ渡れば、有力貴族が彼らと親しくしようとするわけがありませんでした。
社交の場に呼ばれることがなくなれば、貴族として色々と不都合なことが起こります。
元から人柄に問題がある方々だったのですから、起死回生を狙ったとしても、上手く立ち回ることなど出来るはずがありませんでした。
ええ、今は名ばかりの子爵家となっています。以前は何度も侯爵家を訪ねてきたそうですが、門前払いされたそうです。
そして元の嫁ぎ先の伯爵家の結末は、もっと悲惨でした。まともな教育や淑女教育を受けたことのない方が、伯爵夫人として家を切盛りすることが出来るわけがないでしょう。
そんな当たり前のことさえ予測できなかったなんて、オツムが足りないとしか言いようがありません。
そんな人がいつまでも当主をしていたのでは、使用人も領民も不幸ですから、彼の終焉は当然だったと思います。
といいますのも、その伯爵は、再婚後に粉飾決算を出して、国からお咎めを受けて降格されてしまったのです。
しかも、領地は没収となりました。領地経営の能力が皆無で、改善する可能性がないと判断されたようです。
これはアイリーン様の密告によって発覚したのだそうです。密偵でも使ったのですかね?
それでも、男爵位と王都の屋敷だけは残ったらしいのですが、その後、元伯爵は二度目の離縁をなさったそうです。
なぜそんなことになったのかというと、元平民の後妻様が、自分の産んだ息子を後継者にしたくて、前妻であるエリザ様がお産みになったご嫡男を虐待していたことが判明したからです。
しかもその彼女が産んだ次男は、浮気した男との間にできた子供だったことがわかったのだそうです。
つまり、彼女はお家乗っとりを計ったということで、投獄されてしまったのです。
お家乗っ取りは重罪ですから、一生暗いところで過ごされることでしょうね。牢獄か鉱山かは知りませんけれど。
その次男は孤児院へ、そして虐待されていた長男のギルバート様は、療養施設で体と心の治療を受けてから、エリザ様の元に引き取られたのです。父親に子供を養育をする力がないと、国が判断したからです。
ですが、その子が嫡男であることに変わりはありませんので、現在ギルバート様は、その男爵位と、王都の邸を継承されています。
ええ。そのギルバート様は今オットー様の秘書をしていらっしゃいますよ。かなり頭の切れる、優秀な方です。
オットー様が完璧侯爵なんて呼ばれているのは、このギルバート様の補佐があるからだと思うのですが、それを彼は分かっているのでしょうかね?
まあ、幼いころから側にいたのに、未だに彼がエリザ様の息子だと気付いていない鈍感な方ですから、分かっていないかもしれませんね。
エリザ様をクビにしたら、漏れなくギルバート様もお辞めになると思いますが、どうするのでしょうかね?
ギルバート様は大変優秀な方ですから、彼を欲しがる家はたくさんあると思います。
まあ、ガードナー家とは無関係になった私が、完璧侯爵様のことを心配するだなんて、大変おこがましいことですが。
ただ、もう一つ、オットー様が困る要素をたまたま知っているので、やはり気になってしまうのです。
というのも、オットー様が大変信頼されている護衛騎士のマルソル様まで、お辞めになる可能性があるからです。
彼は、元侯爵様の愛人二号だとオットー様が勘違いされている、アンリエット様のご子息です。
もちろん彼女は愛人などではなく、エリザ様と同じく、アイリス様の秘密兵器のお一人だった侍女です。
それゆえに、オットー様の母親違いの兄などではありません。亡くなった元男爵だったご主人とのお子様です。
ご主人が死亡された時、幼い子供ではまだ当主になることは無理だと、ご主人の弟さんに家を乗っ取られて、彼女は子供と共にいびり出されたそうです。
そして、やはりアイリーン様に侍女として採用されたのです。彼女は数字に強く、その後、伯爵家の家政をきり盛りすることになったのです。
お子様のマルソル様は、やはりギルバート様と同じくオットー様の遊び仲間となりました。
そのマルソル様も、アイリーン様のご尽力で、今ではお父上の男爵位を継いでいらっしゃって、領地もお持ちです。
しかし、それもオットー様はご存知ないのでしょうね。
実は、ガードナー侯爵家には保育施設が完備されていて、使用人達は子供達を預けて働くことができるのです。
そこの責任者はオットー様の乳母だったカリナさんです。
彼女自身も娘を産んで間もなく、夫を事故で亡くし、知人の紹介で侯爵家の乳母となった人です。
授乳が終わってからも、アイリーン様から彼女の子供と共に、このまま息子を育てて欲しいと依頼されたのです。
その後、エリザ様がギルバート様を引き取ることになり、同じころにアンリエット様とマルソル様がいらしたのです。
そこで、この際、使用人の子供達の世話をする施設を屋敷内に作ってしまおう、とアイリーン様が提案なさったのだそうです。
アイリーン様は理想の雇い主。いや、女神様だと屋敷中の使用人達から感謝され、愛されていました。いえ、今も尊敬、いや崇拝されています。
前侯爵はそんな妻のアイリーン様を心底愛しておられました。欠点だって丸ごと受け入れていらっしゃったと思います。
しかし、だからこそ息子には、お前の母親は完璧な女性だったと、言い続けてしまったのでしょう。
ええ。素晴らしい方でした。でも、それはあの方が完璧だったからではなかった。
人を思いやる心と、何か問題があってもそれをどうにか解決しようとする、逞しい行動力と情熱。それをお持ちだったからこそ、素晴らしかったのだと思います。
その事実を、きちんと息子であるオットー様に伝えて欲しかったと思います。アイリーン様ご自身が自分のことを、完璧な人間などではないと、幾度となくオットー様に話されていたのですから。
アイリーン様は人を見抜く目をお持ちでした。
ですから、雇用に関することはアイリーン様ご自身が直接なさっていました。「家は人」をモットーにされていたからです。
つまり、社交が多少苦手で、情報集めや経理がお得意ではなかったとしても、適材適所で人を使いこなせたのですから、結果的にアイリーン様は最高の侯爵夫人だったのです。
でも、そんな彼女に
「たしかに私には、人を見る目があるのかもしれないわ。けれど、駄目な人間だと分かっていても、家族となると切り捨てるわけにはいかない。だから辛いわ。
もしかして変わるかも、変われるはずだと、いつまでも希望を抱いて捨てきれないもの。
貴女には辛い思いばかりをさせてしまってごめんなさいね」
そう謝罪されてしまった日のことは、今も忘れられません。私も同じ気持ちを持っていたからです。いえ、今も捨てられないからです。
今日で赤の他人になってしまったというのに、やはりあの人が変わってくれたらいいのに、変わって欲しいと願ってしまうのです。
たしかに最初は、傾きかけた実家の伯爵家を援助してもらうための、そんな政略的な婚約でした。
両親のことはどうでも良かったのですが、領民や使用人のためにも、可愛くて優秀な弟にきちんとした教育を施してやりたくて、その話を受け入れました。
しかし、完璧少年に相応しい婚約者になるための教育は、大袈裟ではなく、筆舌に尽くし難いものでした。
しかも、学園にはいってからは、多くのご令嬢から嫉妬され嫌がらせをされて、陰で何度泣いたかわかりませんでした。
ええ。オットー様は本当に完璧な侯爵令息様でしたからね。家柄良し、顔良し、スタイル良し、頭良し。その上運動能力は高いし、音楽や絵の才能も人並み以上だったのです。そりゃあ、モテテ当たり前だったでしょう。
しかし、完璧な人だからこそ、その婚約者になることは大変なのです。どうして皆そのことに気付かないで羨ましがるのかが不思議で仕方ありませんでした。
完璧な人は相手にもその完璧さを求めるものなのですよ。でも、実際にそんなことは無理でしょう?
貧乏伯爵家の令嬢のくせにとよく言われましたが、貧乏人の娘だから頑張れたのです。恵まれた家のご令嬢だったら、絶対にオットー様の婚約者なんて務まりませんよ。
それでも、なんとか昨日まであの家で頑張ってこられたのは、今は亡きアイリーン様や、屋敷の人々のおかげでした。
他の皆様もとても優しくて、そしてとても優秀な方々ばかりでしたから。
彼らのためにも、侯爵夫人として頑張りたかったのですが、あいにく私は、アイリーン様のように夫に愛されてはいませんでした。
それゆえに、いくら皆様のお力を借りても、職務を全うすることが不可能でした。
でも、私はこうも思うのです。私がいなくなることで、オットー様が変われるのではないかと。それが最終的に良い方向へ向かうのか、それともそうではないのかはわかりませんが。
それでも、どうしても私は彼に変化を求めてしまうのです。あの人自身のために、そして……私はまだ薄い下腹に手を当てながら、そう願ったのでした。
旧姓のシルベット=ドルナンドに戻って一年半経ちました。
私は実家の伯爵家で以前と変わらず忙しい日々を過ごしています。出戻りでは肩身が狭いと思われているかもしれませんが、そんなことはありません。
そもそも箱だけ立派でも、中身がスカスカだった実家をどうにか守ってこられたのは、私がガードナー侯爵家との縁を結んだからです。
離縁されたからといっても、私個人が新たに結んだ縁が切れることはありません。そう。そうなるように、アイリーン様やエリザ様が考えてくださっていたのです。
ですから、今でもそれなりに商売を続けています。そんな私を実家が蔑ろにできるわけがありません。私が出て行ってしまえば、それでこの家は終わりですから。
まあ、私が領地改革を指示していたおかげで、なんとか立て直しには成功したようで、私を追い出しても爵位は守れそうです。
けれど、後継者になる予定の弟は両親よりも、姉である私の方を信頼して慕ってくれているので、追い出したりはしないでしょう。弟の婚約者も私が紹介したご令嬢で、彼女との関係も良好ですし。
今、無駄に広い敷地内と、敷地の外にも、新たにいくつか建物を増築しています。それは貴族の使用する華美な外観のものではなく、丈夫さ、安全性、使い易さを第一に考えた箱物です。
敷地の外の建物は従業員の宿舎と、職業訓練校です。そして、敷地内の建物は屋敷の使用人と、間もなく操業が始まる織物工場の従業員の子供達のための託児所です。
私は主に片親の方を積極的に採用するつもりです。もちろんそこに男女は関係ありません。一人で子育てしながら働くのは性別関係なく大変ですからね。
それはガードナー侯爵家で目の当たりにしていますから。
片親で子供を育てている方々は、なかなか雇用してもらえません。子供がいると、いつ休むかわからないからです。それが現実ですからね。
しかも、たとえ、雇い主に理解があってもそれだけではだめなのです。
子供が病気の時には休んでもいいと、たとえ雇用主に言われても、仕事仲間に苦情を言われるので、多くの人はなかなか休もうとしません。
誰だって、ようやく得た仕事を失いたくはありません。ですから、どうしても子供より仕事を優先しなければと考えてしまっても、それは仕方ないことだと私も理解しています。
生きるためには働かなければいけない。しかしそのせいで子供を放置しなければならないことは、親にとって非常に辛い選択です。
親子共々生き抜くために、子どもを施設に預けたり、養子に出したり、意に沿わない再婚をしたり。そして最悪、子供を捨てたりする事例も後を絶たないのが現状です。
ですから、完全とまではいかなくても、少しは安心して子供を預けられる場所を提供しようと考えたのです。
片親同士だったら、少しはまだ相手の立場や事情を察して「お互い様」と思えるのではないかと。
ですから、両親揃っている人や子供を見てもらえる人、そして独身の人は、片親である人達とは別の部署に置くつもりです。
そうでないと、子供の病気で誰かに急に休まれると、自分ばかりに負担が増えると不満に思うでしょうから。
ただし、子供を預かるのは八歳までと決めています。それまでに、最低限自分の身の回りのことができるようになるように、こちらで躾をするつもりです。それと簡単な読み書きくらいは教えようと計画しています。
もちろんスパルタでいきます。甘やかすと、現実の社会とのギャップで将来困ることになりますからね。甘やかすのは親にやってもらいましょう。
因みに、子供のための託児所の責任者は決まっています。大ベテランの優秀で信頼できる方で、娘さん一家と共に働いてくれる予定になっています。
仕事場の操業は来月の予定なのですが、前の職場を辞することになったと連絡が来たので、ぜひともこちらの準備を手伝ってくださいと、私はお願いしたのです。
これで主要なメンバーはこれで全員揃ったようです。来週いらしたら、久し振りの再会を祝って皆で乾杯することにしましょう。
「まあ、なんて可愛いのでしょう。金色のふわふわな髪に真っ青の大きな瞳、愛らしいお口。
エリザ様とアンリエット様からのお手紙で知っていたつもりですが、実際にお顔を見たら、まさしくアイリス様に瓜二つですね」
乳母のカレンさんが、お座りができるようになったばかりの、私の息子のジュリアンを抱き上げながら、目尻を下げました。
栗色の髪に茶色の瞳をした私の色を、息子は全く引き継ぎませんでした。
皆様、異口同音にそうおっしゃいます。男の子ですし、本来ならオットー様似と言うところなのでしょうが、誰一人その名前は出しません。
名前を出したら息子が、容姿だけでなく性格まであの完璧人間に似てしまうのではないかと、恐れているかのようです。
皆様はご存知なのです。なぜ私が妊娠していることをオットー様に告げずに離縁したかを。
おそらく私が妊娠したのを知れば、彼は私を離縁しなかったことでしょう。いくら完璧ではない私に不満を持っていたとしても、子供の母親を奪うような真似をするほど冷酷な人ではありませんから。
でも私はもし彼が改心しないまま父親になったら、子供が不幸になると思いました。子供は失敗をしながら成長するものだからです。
しかし、彼からすれば、息子の失敗は自分の失敗と同義だと思うでしょう。そして息子を許せなくなるのではないか。それを私は恐れたのです。
義父もそう思ったのでしょう。
「君が離縁を望むのなら今後の生活の支援はする」
そう言ったのは、私の妊娠に気付いたからなのでしょう。それを息子には伝えなかったのは、まだ見ぬ孫を息子のようにしたくないと考えたからに違いありません。
「孫と暮らしたい。しかし、孫を不幸にしたくはないから諦める。こうなったのも自分のせいだから仕方がない」
義父はカレンさんにそう言っていたそうですから。
その日の晩餐はとても賑やかなものになりました。
一年前からこの屋敷で働いてくれているエリザ様とギルバート様、そして彼のご家族。
領地に戻られたアンリエット様とマルソル様、そして彼のご家族。
それに加えて、今日、カレンさん一家が加わったのですから。
ジュリアンはたくさんのお兄さん、お姉さんに遊んでもらって大喜びでした。
「それにしても、カレンさんまで解雇するとは思いませんでしたよ。あなたはオットー様の乳母だったし、もっとも信頼していたでしょう?」
アンリエット様がそう言うと、カレンさんは苦笑いをした。
「私達はクビになったわけじゃないのですよ。でも、仕事がないのに居座るのも気が引けるので、こちらから退職を申し出たのです。
だって自分の孫達の世話をするのにお金を頂くなんておかしいでしょう?」
私やエリザ様達がいなくなった後、ガードナー侯爵家の領地経営はあまり上手くいっていないようです。それは離縁した私の耳にも入っていました。
それは当然だと思います。他家や商会とのお付き合いは、オットー様というより私がエリザ様やアンリエット様の協力を得て行なってきたのです。
ですから、単に侯爵家という名前だけでは以前と同じ契約が更新されるわけがありません。
完璧に拘って融通が利かない彼が、臨機応変に相手に対応できるとは思っていませんでした。ですから当然の成り行きだと思います。
その結果、使用人の数を減らしたらしいのですが、教育に手間暇の掛かる若い人間から切っていったそうです。
彼からすれば、若い者の方が再雇用されやすいから、善意でそうしたのでしょう。
まあ、長期的な視線で見ると、マイナスですが、現時点では止むを得ない判断だったと思います。
そして若者がいなくなったことで、託児所が不要になったということのようです。
「でも、オットー様には引き留められたのではないですか? 再婚してお子様が出来たら、カレンさんに見てもらいたいでしょうし」
エリザ様がそう訊ねた。するとカレンさんは心底困った顔してこう答えた。
「そうは言っても、オットー様の次のお子様が生まれるまで、私は元気でいられる気がしなかったのですよ」
「何を言っているの? カレンさんはまだまだお若いでしょ」
私が驚いてそう言いました。お世辞ではなく、カレンは見た目だけではなく実年齢もまだ若く、孫が二人もいるようには全く見えないのです。実際、まだ四十代前半ですし。
「シルベット様、母だけでなく、私でもオットー様のお子様の乳母を務めるのは無理だと思いますよ。
そのことはエリザ様とアンリエット様もよくご存知でしょう?」
カレンさんの娘のシルビーさんまでそんなことを言い出しました。
すると、エリザ様やアンリエット様までが同意するように何度も頷いたので、ようやく私もその意味を理解したのです。
一年前に、彼女達がこの屋敷に来てくれるきっかけになった出来事を思い出したからです。
私と離縁した後、オットー様はすぐに再婚に向けて行動を起こし、適齢期のご令嬢方と顔合わせをしようとしたそうです。
彼はすぐに婚約者は見つかると、信じて疑っていなかったようです。
名門侯爵家の若き当主。若いころから容姿端麗、文武両道の天才、完璧令息と呼ばれてきて、婚約者がいてもご令嬢方に人気がありましたからね。
だから、次のお相手の候補を見つける前に、簡単に私に離縁を告げたのでしょう。
そして彼は、お相手を探すことと同時進行で、エリザ様達を追い払う算段を始めていたらしいです。
まさか、父親の愛人達にこのまま女主人の真似をさせておくわけにはいかないと思ったらしいです。父親の愛人が屋敷にのさばっていたら縁談など来ないだろうと。
私のことだけでなく、お二人のなさってきた仕事を全く把握していなかったのでしょう。
ですから、私よりも優秀な完璧夫人と結婚すれば、屋敷を回せると簡単に思っていたみたいですね。
ところが、彼に釣り合う適齢期のご令嬢は皆様、婚約者がいらっしゃいます。年齢を下げようとすると、結婚出来るようになるまで、かなりの年数待たなければならなくなります。
そうなると、その間数年に渡り、侯爵夫人が不在となってしまいます。このことに遅ればせながら気付いたオットー様はかなり焦ったようです。
妻を追い出してからたったひと月で、オットー様は私と離縁したこと事を後悔し始めたらしいのです。
そしてエリザ様とアンリエット様に、慌てて媚びへつらうようになったらしいのです。
女手がないと家は回りませんから、出て行かれたら困ると考えたのでしょうね。
この時点ですでに残念感が漂っていますよね。とても完璧侯爵の行動とは思えませんよね。
それまで誰が屋敷を回していたのか、本当に考えていなかったのですね。
お二人も情けない気持ちでいたそうです。さっさと辞めてしまいたかったそうですが、他の使用人仲間や、取引先、領民に迷惑がかからないようにするために、ただそれだけのために働いていたそうです。
ですから、以前のような夫人の補佐に近い仕事をすることは止めたそうです。
すると、すぐに屋敷は回らなくなり、それが社交、領地経営、事業にまで、徐々に影響が出るようになったそうです。
その結果オットー様は、なりふり構わず必死で婚姻相手を探すようになったらしいのです。
何度か顔合わせまでは持ち込んだらしいのですが、結局、全てオットー様が断ったそうです。完璧じゃないという理由で。
完璧な人間なんているわけがないでしょう。まだそのことには気付けていなかったようです。
そしてそのうち、縁談の話はぱったりこなくなったのだそうです。
そこでオットー様もようやく現実を受け入れたようです。ご自分より年配の女性や、まだ学生であるご令嬢に自ら縁談を持ち込んでみたそうです。
ところが、自分の娘では完璧侯爵様の妻にはなれませんからと、釣書や姿絵さえ受け取ってもらえなかったらしいのです。
「社交界では皆さん言っているそうですよ。シルベット=ドルナンド様でさえ完璧でないという理由で離縁されたのなら、うちの娘なんて到底ガードナー侯爵夫人など務まらないって」
シルビーさんがそう言いました。
まあ私は、完璧婦人のアイリーン様のお気に入りである、完璧嫁なんて世間では呼ばれていましたからね。
オットー様は知らなかったでしょうが。
困り果て、すっかり覇気をなくした完璧侯爵に、エリザ様はこうアドバイスして差し上げたそうです。
「旦那様と同様に結婚に一度失敗した方をお迎えすればいいのではないですか? 貴方様に相応しい家格、かつ、優秀で、今さら教育しなくてもすぐに侯爵夫人として務まる女性は、たくさんいらっしゃると思いますよ。
離縁の原因は女性の方にあったとは限らないのですから。シルベット様が良い例でしょう?」
それを聞いたオットー様は当然怒り狂ったそうですわ。
離婚の原因が自分だったと言われたこと。そして、お前にはもう疵物の女性しかいないと言われと思ったから。
彼の怒りを、その時エリザ様はそう分析したそうですわ。それは当たっていると思います。
「ただの父の妾の分際で、よくそんな不敬な発言ができたものだな! 自分達が疵物だという自覚があるのか? いや、ないから自分と同じ疵物を勧めるのか! 厚顔無恥にもほどがある!」
この言葉を聞いたエリザ様は、もうこれ以上この屋敷には居られないと思ったそうです。
「アイリーン様からお受けしたご恩があったので、これまでお仕えしてきましたが、ここまで侮辱されたのでは、到底留まることはできません。
引き継ぎ書はすでに出来ておりますので、明日の朝お屋敷をお暇させていただきます」
「ああ。財産分与はできないが、長い間父を支えてくれたのだから、退職金として僅かだが準備するので、後で取りに来てくれ」
「もちろん退職金は頂きますよ。契約書にそう記されていますからね。
旦那様、何か勘違いされているようですが、私は先代様の愛人でも妾でもありませんでしたよ。単なる侍女でした。アイリーン奥様とシルベット様付きのね」
「はっ? 今さら何を言っているのだ! この期に及んで、無駄な悪足掻きをするなんて浅ましいな」
オットー様は鼻で笑ったそうです。ところがそこへアイリーン様を始めとする使用人達が、皆集まってきたのだそうです。
「旦那様、私も退職金を頂きます。先代様の愛人だなんて侮辱を受けてまで、ここにお世話になるつもりはありません。亡くなった夫に顔が立ちませんから。私の夫は、二十年前に病死したヘンリーだけです」
アンリエット様もそう言い放ったそうです。引き継ぎも終わって当主になったのだから、自分達がこれまでどんな役割を果たしてきたのかがわかるでしょう!
それなのに、まだ自分達を父親の愛人だったと思っていたのか! 怒りが炸裂して殴り倒したい気持ちだったらしい。
すると彼女の息子のマルソル様、そしてエルザ様の息子のギルバート様も辞職すると発言したので、さすがのオットー様は慌てたらしいです。
「なぜお前達まで辞めるのだ! 彼女達のことは関係ないだろう!」
「関係は大有りですよ。自分の母親を愛人だとか、疵物だと侮蔑するような主に仕えたいと思うわけがないでしょう」
「母親?」
オットー様は喫驚したらしい。
いや、それまで気付かなかったのかと、その場にいた誰もが思ったらしいわ。
たしかに彼らは絶対に公私混同をしなかったので、屋敷内で親しい素振りは見せなかったのです。ただし、注意していればその関係性は一目瞭然だった。そもそも顔がどことなく似ていたため、使用人達は皆、彼らが親子だと分かっていたようですが。
そもそも、前当主が妻アイリーン様を溺愛していたことも周知の事実だったのです。
それゆえに、妻のいる屋敷に愛人を二人も住まわすなんて真似を、絶対にするわけがないだろう、と誰もが思っていたみたいです。
それなのになぜかオットー様だけが、外野の声を拾ってしまい、それが真実だと思い込んでしまったのだろうと私は推測しました。
高位貴族なら愛人を持っても当たり前。むしろ寡婦となった女性の面倒をみるのは、貴族としての義務だとか、なんとか。ノブレス・オブリージュのつもり? 愛人を持つことが? 馬鹿馬鹿しいですわ。
先代侯爵様が夫人と共に行っていたノブレス・オブリージュは、そんな下品な行為ではなく、まさに人のためになる社会貢献よ。
先代様も愛人なんかではないとオットー様におっしゃっていたわ。ただ、下品な人達に向かってはっきりそう言わなかったのは、彼なりに妻であるアイリーン様を守るためだった。
愛する妻が、侍女であるエリザ様やアンリエット様の力を借りて夫人の仕事を熟している、と思われるのが彼は嫌だったのです。
彼は、完璧侯爵の妻はやはり完璧夫人だと皆に思われたかったのかも知れません。
まあ、それは彼の勝手な思い込みであり、アイリーン様本人は完璧夫人になんてなりたくはなかったのに。
まさか息子がずっとそれを本気にしているとは、前侯爵様は妻が亡くなるまでそのことに気付かなかったのです。その思い込みの強さは、さすがに親子。よく似ていますね。
そして息子に真実を告げる前に、彼は事故で急逝してしまったというわけなのです。
それにしても、使用人が皆知っていることさえ気付けなかった人間が、自分のことを完璧侯爵だと信じていたのだから笑えますね。
いいえ、幼なじみが孤児だと思い込んでいたことについては、笑うどころの話ではないと思いますが。
ああ。彼らを孤児だと思っていたからこそ、彼らに母親が誰なのかを尋ねなかったということなのかしら? つまり同情していたということかしら?
それとも平民の孤児をノブレス・オブリージュの精神で雇ってやっているつもりだったたのかしら?
「これまでの先代当主ご夫妻のご恩に報いるために、母同様にこちらで働かせていただいていました。
しかし、そろそろ自分の領地運営に専念したいので、辞めさせていただきます」
男爵位と領地を持つマルソル様がまずこう言うと、ギルバート様も同じく
「私も同じく辞めさせていただきます」
こう言った。彼には領地はないが、男爵位を持ち、かなり優秀な頭脳なので、どこでも再雇用が可能でしょうね。
四人の宣言を聞いたオットー様は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、ただ呆然と立ち尽くしていらしたそうです。
そしてその後、エリザ様には私の相談役として、屋敷の一室に住んでもらうことにしました。ギルバート様はご家族と共に敷地近くの家に住んでもらうことにしたわ。王都の屋敷はずっと貸家にしていますし、遠いですから。
彼にはドルナンド伯爵家の執事になってもらいました。。今までの執事を家令に格上げして。
アンリエット様とマルソル様ご一家は宣言したとおり、本来のご自分の領地へお戻りになられたわ。
でも共同の仕事もあるから、彼らともちょくちょく会っています。
そして彼らが去った後の侯爵家のことは、昨日まで屋敷に残っていた、カレンさんとシルビーさんから改めて聞くことになったのです。
以前ガードナー侯爵家を支えていたのは、私と彼らの母親であるエリザ様とアンリエット様でした。
そして当主になったオットー様個人を支えてきたのが、ギルバート様とマルソル様だったわけです。ですから、そのフォローがなくなり、侯爵家は瞬く間にガタガタになりました。
ええ、まあ。その話は薄々耳にしていました。想定内の結果だったので、私が驚くことはありませんでした。ただし、別に私は彼に対して、復讐したいと思っていたわけではありません。ただ、彼は自分自身のことをもっと知るべきだと思っていました。人の気持ちを考えるべきだと思っていました。
そのためには、これまで彼を支えていた人間が一旦いなくなった方が良いのではないかと考えていただけです。
私は彼が完璧人間ではないことを誰よりもよく知っています。しかし、それと同時に有能な人間だということも分かっています。
ですから落ちるところまで落ちてから、自力で這い上がってきて欲しいと思っています。
息子のためにも、ぜひそんな姿を見せてほしいと願っています。
新たなパートナーを見つけたいのなら、自力である程度立ち直った姿を周囲に見せてからでしょうね。
実際、オットー様は半年ほどで結婚相手探しを止められたそうです。女性嫌いになったのか、興味を持たなくなったのか、それとも、仕事が多忙過ぎてその暇がなくなったからなのか。
私としては、完璧な女性が見つからないから、という理由ではないことを祈っています。
そう、私が心の中でそう思っていると、カレンさんは少しだけ微笑んでこう言いました。
「オットー様もさすがにご自分が完璧ではなかったということを自覚なさっていましたよ。
ですから、完璧なご令嬢がいないからという理由で婚姻相手を探すのを諦めた、というわけではないと思いますよ」
「そうなのですか?」
「『完璧な人間なんて存在しない。みんな不完全だからこそ皆が助け合って生きているのよ』
そう何度も母に言われていたのに、なぜ私はそれについて真剣に考えなかったのだろうな。
母やシルベットのことを真剣に見ていたら、彼女達がしていた事をもっと把握出来ていたことだろう。
侯爵夫人の仕事は、たった一人で熟せるようなものではないないこと。
そして誰が彼女達を支えてくれていたのかも。
そしてそんな妻や周りの助けがあったからこそ、父上や私が当主の役目を担えたのだということも。
全て失ってから、初めてそんな大切なことに気付くなんて、なんて馬鹿なのだろう。愚か過ぎる」
オットー様はそう言っていたそうです。
このまま、絶望して退廃して行くのか、現状維持するのか、V字回復しようとするのか、それを遠くから見守ろうと思いました。
ちなみに、現在ガードナー侯爵家に残っている皆様はオットー様も含め、息子のジュリアンの存在を知りません。今後歩き出すようになっても、敷地内に作る予定の託児所に預けるつもりなので、彼らに知られることはないでしょう。「木を隠すなら森の中」と言いますしね。
このままもう、元夫とは関わらずに暮らしていけたらと考えていたのですが、そうはいかなくなりました。というのも、それから間もなくして、ガードナー侯爵が、使いとして家令のローマンさんを我が屋敷に寄越したからです。そして伯爵家ではなく、私個人に商談を申し込まれたからです。
その内容は、侯爵家の事業を縮小したいので、その一部を買い取ってもらえないかと。
元々私が関わってきた事業でした。それゆえ、できれば思い入れのある人に引き継いで欲しいからと。
我が伯爵家だけでなく、ギルバート様とマルソル様の男爵家にも別の事業の引き継ぎを依頼したそうです。
それはやはり、元を正せばエリザ様とアンリエット様が立ち上げに協力したものでした。
彼は真実を知り、私達に対して自責の念を抱いたのでしょう。その意図に気付き、私達は彼の思いを察して引き受けることにしました。
そして離縁してから六年ほど経ちました。どの事業も順調に発展しています。ガードナー侯爵家の事業も皆右肩上がりで、家の方も大分持ち直したようです。
そんなある日、私は久し振りに王都へ出かけました。学生時代から好きだったオペラ歌手が数年ぶりに主演する舞台が、大人気だという噂を耳にしたからです。
久しぶりの彼女の明るい、陽気な歌声が聴けると思うと、心が躍ります。
エリザ様とアンリエット様、そしてカレンさんと一緒ならば、子連れでも安心でしょう。護衛も付けるし。
しかし、そう思ったのが誤りでした。油断でした。
もう五歳になってようやく落ち着いてきたから、もう安心だと思っていたました。ところが、初めの都会に息子は興奮状態になってしまったのです。
考えれば当然でした。領地の賑やかな祭りだって、こんなに人は溢れていませんもの。
特にオペラハウスに通じる広場は、人でごった返しになっていたのです。
何か興味のそそられる物が目に入ったのか、ジュリアンは私の手を振り払うと、あっという間に人混みの中に消えてしまいました。
全身が心臓になったかのように、ドクン、ドクンと血が巡り、頭がカッとして、汗が噴き出しました。
「ジュリアン、ジュリアン、ジュリアン!」
私は人の波に逆らうように走り出しましたが、反対に押し返されて、一向に前に進めませんでした。エリザ様達や護衛も同様です。
そしてその時、大きな鐘の音が鳴り出しました。劇場の開場の合図です。
人の波はさらに勢いを増して、劇場方目に向かって流れて行きました。
私達は逆らうのを止めてその場に立ち止まり、人が過ぎ去るのを震えながら待ちました。そしてようやく五分ほど経つと、人はまばらになりました。
実際はほんのわずかなこの時間だったのでしょうが、私にとっては永遠を感じさせるほど長く感じられました。
私は再び息子の名前を呼びながら、やたらと広い広場の中を必死に探し回りました。すると遠目に、風船スタンドの前に立っている、警ら隊員と思われる男性と貴族とお見受けする男性、そして、赤い風船を持った金色頭の子供を見つけました。
私が慌てて近づいて行くと、やはりその子はジュリアンでした。
「ジュリアン!」
私が名前を呼ぶと、息子は真っ赤にになった目で私を見上げると、声を出して泣きながら私にしがみついてきました。
「無事で良かったわ」
私が腰を下ろして息子を抱きしめと、ごめんなさい!と息子は泣きながらそう謝りました。初めて来た街で私達とはぐれて、さぞかし不安だったことでしょう。
まあ、名前や住所は言えるし、字も書けるから、警らの人にでも見つけてもらえたら、なんとかなるのではないかとは思っていました。
とはいえ、息子はとにかく可愛いし、それなりの服装をしているので、人攫いに遭う可能性もある。そう思うと、気が気ではなかったのです。
保護してくださった警らの方にお礼を言わなければと、顔を上げようとしたとき
「シルベット?」
私の名前を呼ぶ声が聞こえました。見上げると、そこにいたのは、なんとオットー様でした。
彼は瞠目して私と息子を見ていました。
「坊や、この人は君のお母さんかい?」
警ら隊員の男の人が優しくそう訊ねると、ジュリアンは頷きました。
「私は、シルベット=ドルナンドと申します。この度は息子ジュリアンを保護していただきまして、誠にありがとうございました」
私が頭を下げると
「いや、いや。実際に坊やを助けたのは、こちらのガードナー侯爵ですよ。どう見ても怪しい男がこの子の手を引っ張って連れ去ろうとしたところを、この方が捕まえてくださったのですよ。侯爵がいらっしゃらなかったら、どうなっていたかわかりませんよ。本当に運が良かったですね。
我々警ら隊も感謝しているのですよ。この方が殴り飛ばしてくれたおかげで、連続誘拐魔を逮捕することができたのですからね」
誘拐魔!
その言葉に、私は改めて恐怖を覚えて震え上がりました。一歩間違えれば、私は愛する息子を奪われるところだったのですから。
「ありがとうございました。おかげで息子が助かりました」
今度はオットー様に向かって私は頭を下げました。すると、警らの方が驚いたが顔をして、この子のお父さんじゃないのか? と呟くのが聞こえました。私達の姓が違うことに、彼は気付いていなかったようです。
すると、それが聞こえたのか、ジュリアンがこう言いました。
「このこうしゃくさまは僕のお父様じゃないよ。だって、僕のお父様は、僕が生まれてくる前に病気で死んじゃったもの。ねぇ、お母さま」
「えっ、そうなのかい? あまりにもよく似ているから、てっきり親子なのかと思ったよ。ごめんな。間違えて」
「ううん。いいよ。おじさん、悪いヤツ捕まえてくれてありがとう。さようなら」
ジュリアンはまず警ら隊員に手を振って、私と共に歩き出しました。しかしすぐに振り向いて、瞠目したまま棒立ちになっているオットー様に
「こうしゃくさま、助けてくれてありがとう!
強くて格好良かったよ。
それに風船、ありがとう。
さようなら」
と言いました。
すると、オットーがようやく体を動かした。私達に向かって右腕を伸ばしました。
「シルベット、ま、待ってくれ! そ、その子は……」
「私の息子ですわ。名前はジュリアン。父親は先ほど息子が言った通りに、すでに亡くなっておりますわ」
「ジュリアン……君、年はいくつなんだい?」
「この前五歳になったんだよ。もう、大きいの」
私が口を開く前にそう息子が答えてしまいました。完全にバレましたね。まあ、これだけよく似ていたらごまかしようがありませんけれど。
それにしても、こんな偶然あるのかしら? ここ、王都よ? なぜこん遠い所で偶然に会うのかしら?
「何にしにこんなところへ来たの?」
「何しにって、オペラを観に……」
オットー様の言葉でオペラのことを思い出しました。まだ開場のベルだけです。開演には間に合います。
私は息子の手を引いて、劇場の方に向かって急ぎ足で歩き始めました。
そうそう。ジュリアンが無事だったことをお二人に伝えないと。エリザ様とカレンさんもきっと心配していることでしょう。
「ま、待ってくれ!」
後ろからオットー様が追ってきました。待つわけがありません。彼とはもう関わりたくありませんもの。お礼もきちんと言いましたし、こちらとしてはもう用がありません。
「どこへ行くのだ!」
「劇場です。オペラを観るのです」
「こんな時にか?」
「こんな時とはどういう意味ですか?」
「この事実を俺はまだ受け止め切れていないのだ。説明してくれ」
「貴方に私の事情を説明する義務はありません」
「私の子のことだぞ。別れた時、すでに身籠っていたのだろう?
なぜそれを言わなかったのだ。子が出来たと分かっていたら離縁なんて言わなかった」
「お話をする前に、離縁すると貴方に言われたからです。私が完璧じゃないから離縁すると言うような人と、一緒に暮らせるわけがないじゃないですか! だから口にしなかったのです」
(まあ嘘ですけど。貴方みたいな父親は不要だから、あえて教えませんでした!)
「貴方とはもう他人で何の関係もない人ですから、話すことなどありません」
「しかし、その子は我がガードナー侯爵家の嫡男だぞ」
「違いますよ。この子は私だけの子です。出生届に貴方の名前はありませんから」
「生まれた日を遡れば父親が誰か証明できるだろう!」
「できませんよ。この子早産でしたから」
三か月も早く生まれたっていうのは、いくらなんでも無理かしら?
彼の子供ではないと主張し続けたら、今度は浮気していたのか、と訴えられる恐れもあります。めんどうくさいことになりそうですね。今さらそんな騒動を起こされたくないのに。まったくもう!
彼を無視して息子と歩いて行くと、エリザ様とカレンさんが案の定真っ青な顔をして、集合場所に決めていた街灯の下に立っていました。
そしてジュリアンの姿を見てホッとした瞬間、その後から現れたオットー様を見て、さらに顔色を悪くしました。
「なぜこんな所に?」
二人は同時にこう呟きました。本当にその通りですわ。
「オペラを観るために来ました」
オットー様がこう答えました。
オペラなんて嫌いだっていつも口にして、私がオペラへ観に行くのだって嫌な顔をしていたではないですか! それなのになぜ?
「エリザさま、カレンさま、ごめんなさい。ぼくね、悪い人連れて行かれそうになったの。だけど、こうしゃくさまが助けてくれたの。すごく強くてかっこよかった。
それとね、この風船も買ってくれたの」
ジュリアンが手に掴んでいた紐を上下に動かすと、風船は元気に、そして愉快そうに揺れました。
私が説明しなくても、ジュリアンの説明でちゃんと伝わったようで、彼女達も私と同じように困惑した表情をしました。これから起こるであろう、揉め事を思い浮かべているのでしょう。
「おぼっちゃま、いえ、侯爵様、お久しぶりでございます。まさかこのような場所でお会いするなんて思いもしませんでした」
カレンさんはそう言ってオットー様に頭を下げた後、私に向かって
「シルベット様、ジュリアンぼっちゃまのことは今度こそ私がしっかり見ていますから、早く劇場にお入りください。開演時間が間もなくですよ。
一番お好きなオペラでございましょう? 下らない事に関わって見逃す必要はございませんわ」
下らない事……
さすがだわ、カレンさん。言い得ているわね。
「それではカレンさん、よろしくお願いします。お隣のレストランの個室を予約しておりますので、お好きなものを注文して、ジュリアンと待っていていただけますか?」
「はい、おまかせください。ジュリアンぼっちゃま、チョコレートと生クリームたっぷりのパフェをいただきに参りましょう」
「は〜い。お母さま。楽しんできてね」
ジュリアンは元気よくそう返事をすると、カレンさんや護衛と一緒に歩き出しました。
息子の手に握られた赤い風船が、楽しげにふわふわと揺れています。
オットー様はまた手を伸ばしかけて、力なくそれを下ろしました。少し息子の背を切なそうに見ていたようですが、私とエルザ様が大通りを渡って劇場に向かって歩き出すと、その後を付いてきました。
劇場の中に入ると、すでに満員状態でした。このオペラに気付くのが遅かったせいで、自由席しか取れなかった私達は、スタッフに誘導されて空いている席へ向かいました。すると、なんとオットー様と一緒になってしまいました。
名門侯爵が自由席? エリザ様を挟んで座ったオットー様を見て驚きました。
「なぜ自由席になさったのですか? 従者の手配ミスですか?」
エリザ様が訊ねると、オットー様は少し笑ってこう言いました。
「たしかに、今の従者は貴女のように優秀ではありませんが、私が望んでいるチケットはいつも要望通りに取ってくれますよ。
私はオペラを自由席で観ることにしているのですよ」
「まあ! それはどうして?」
「私の元の妻が言っていたのですよ。オペラを観るなら、ボックス席より自由席の方がいいと。
だから、四年前に初めてオペラを観ようと思ったときから、自由席にしているのですよ」
「オペラはお嫌いではなかったのですか?」
「嫌いでした。でもそれは食わず嫌いだったのですね。
愚かでしたよ。妻が誘ってくれたときに素直に行っていれば、その後一人でオペラを見に行く、なんてことにはならなくて済んだでしょうに」
「あら、それならこれからでも間に合いますでしょう?
今では侯爵様の評判はかなり戻ってきておりますし、たくさんの縁談話が持ち込まれているという噂を耳にしていますよ。
奥様ではなくても、恋人とご覧になってもいいでしょうし」
「あいにく、もう妻がいなくても家が回るようになっていますので、今さら好きでもない女性と無理に結婚するつもりはないのです。恋人もいりません。
私は本当に好きな相手とだけ一緒に、自分達の好きなオペラを観たいのですよ」
「ですから、お好きな方と結婚なさればいいのではないですか?
まさか、未だに完璧な女性でなければ駄目だとか、離婚歴のある方は嫌だなんておっしゃるわけではないのでしょう?」
「ええ。もちろん違います。自分が出来損ないだと自覚したのに、相手に完璧を求めるような厚顔無恥な真似は、さすがにもう出来ません。
自分も離縁した身ですから、相手が初婚でなくて何も問題ありませんしね。
ただ、こちらが好きでも、相手に好きになってもらえなければ、こればかりはどうしようもないでしょう?」
「では、後継者はどうなさるのですか?」
「養子を探す算段をしていました。ですが、今日その必要がなくなりました」
「……」
私だけではなく、エリザ様まで口を閉じました。
私は息子をオットー様に渡すつもりは毛頭ありません。私の宝ですから。
でもだからといって、子供から父親を取り上げていいと思っているわけでもありません。
まあ、最近になって、ようやくそう思えるようになったのですが。
あの子が生まれてくる前は、父親など不要だと思っていました。何せ実の父親は全てに完璧を追求する危険な人でした。
ですから、子供にとって害悪にしかならないと判断したのです。
でもその後、底辺まで落ちてようやく正常な思考ができるようになったらしく、今ではすっかりまともになったようです。
数年前からギルバート様とマルソル様は、オットー様と共同で事業をしています。ですから、彼の情報はそれなりに把握しているのです。
失敗を知らずに立派と言われている人よりも、失敗を知っていて、それをバネして頑張っている人の背の方が、子どもにとって見せる価値があると私は思います。
現在弟がドルナンド伯爵家の当主になっているので、今の私の身分は元伯爵令嬢にすぎません。世間から見れば私やはりは弟の厄介者であり、社会的な身分は低いのです。
ただし身分は一応まだ貴族です。
ですが、ジュリアンは私の私生児ですから、貴族でも何でもない、ただの平民です。
一般的な感覚だと、本来侯爵令息になるはずだった息子を平民にした最低な母親でしょう。
それでも私は息子を、完璧人間ではなく人間らしく生きさせてやりたかったのです。
平民だって人間でしょう?
それに、私自身が携わっている事業はドルナンド伯爵家とは関係なく、私の名義なので、それなりの財は息子に残してやれそうです。
こう言ってはなんですが、家柄だけに縋って生きているその辺の貴族より、息子は幸せに暮らしていける。そう判断した結果でした。人脈もちゃんと構築していましたし。
ですが、どうやら運命というものがあるようです。こんなところで二人が巡り逢ってしまうなんて。
第一印象が良かったので、案外ジュリアンはすんなりとオットー様を父親として受け入れるかもしれません。
彼は息子を、悪い誘拐魔から救い出し、犯人を捕まえてくれました。息子にとって彼は、強くて格好いいヒーローのように映ったことでしょう。
それに、あの子の容姿は祖母であるアイリーン様に良く似ていますが、性格は私に似ていて、人の気持ちに敏感です。しかも人の善悪を見極められる能力を持っています。
ですから、以前のままだったら拒否されていたかもしれませんが、今のオットー様なら受け入れられるかもしれません。
ただし、もしかしたら祖母のようにあの子は、一度敵意を持った人のことは徹底的に追い詰めるかもしれません。ですから、よく注意をなさった方がいいと思います。
もし彼が息子と仲良しになりたいと言ってきたら、そう忠告してやりましょう。
私はそんなことを想像しながら、楽しみにしていた喜劇の舞台の幕が開くのを静かに待っていました。
このとき私は、エリザ様の隣に座っていたオットー様が、わざわざ私の好きなオペラ女性歌手の後援者になって、この公演開催の後押しをしていたことなど、知る由もありませんでした。
そう。公演終了直後に舞台の上に立つ主役から、彼に対する感謝の言葉が述べられるまでは……
読んでくださってありがとうございました。




