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第三話 覚悟2

 部屋から出るとアンリはグレインの案内に従って階段を下った。階段や手摺などを見ても目立った汚れや埃はなく、掃除が行き届いている印象を得た。他の客の姿はない。グレインが荷物入れのロッカーに鍵を差して、中から手持ち鞄を取り出した。

 玄関前にある受付では、腰の曲がった老婆が微動だにせず佇んでいた。生きているのか心配になったアンリが訝しむように見ていると、老婆は嗄れた手を控えめに振って外出する二人の背を見送った。

 二階建ての古びた宿屋から出てすぐの所には、宿泊客用の馬小屋があった。水溜りを避けながらアンリが足早にそこに入ると、一頭の白馬の姿が目に入った。

「シルキー!」

 アンリが口元を綻ばせて駆け寄ると、シルキーもまた嬉しそうに鳴いて主人に顔を近付けた。どうやら顔は見えなくても声で分かったらしい。アンリが頭を撫でてやると、シルキーは機嫌良さそうに何度も鼻を鳴らした。

 "デイヴが洗ってくれたのかな?礼を言わないと"。

 シルキーの体を触ってみると、毛に湿り気があるのを感じた。直に乾く範囲だ。自身の湿った手を見たアンリは、デイヴが部屋に入ってくる前にハンカチで手を拭いていたのを思い出した。

 "さっきのはそういうことか"。

 アンリがシルキーを可愛がっていると、横でグレインがじっとその様子を見ていた。熱い視線だ。思っていることは一目で分かる。

「…触りたければ触っていいぞ」

「いいんですか!?」

「ただし丁重にな」

 そう言ってアンリが場所を譲ると、グレインはアンリの顔とシルキーの顔を交互に見た後、一歩前に出て遠慮した手つきでシルキーの頭を撫で始める。

 馬に触れた経験がないのか戸惑っているが、グレインは幸せそうに撫で続ける。神妙な面持ちをしていたシルキーは、突然グレインの顔を舐めた。

「わっ!」

 驚いたグレインが目を瞑ったまま後ずさる。顔にはべったりとシルキーの涎が付いていた。グレインは慌てて手持ち鞄からハンドタオルを取り出して拭う。

「ハハハ。気に入られたみたいだな」

 悪戯っぽく笑いながら、アンリはシルキーの頭に手を乗せる。笑顔のつもりなのか、シルキーも歯を剥き出しにした。グレインも釣られて笑い出す。特に不快には感じていないらしい。空気が和んだ。

 一頻り笑うとアンリは表情を変え、名残惜しそうにシルキーの頭から手を離した。

「大人しく待っててくれシルキー…行こう」

 愛馬のことが心配だったため馬小屋に寄ったが、先ずは旅支度を済ませなければならない。アンリは踵を返して出口の方に向かおうとすると、一歩目を踏み出すより前に足を止めた。

 入った時には死角だったので気付かなかったが、扉の裏の柵に青い外套が掛かっていた。アンリが元々着ていたものだ。現在着用しているものは黒を基調とした色合いだが、フードの先に毛皮が付いているという点は同じだ。

「馬小屋に干したのか」

 怒るほどのことではなかったが、アンリは複雑な心境になった。転倒した際に随分と泥などが付いたはずだが汚れているようには見えないので、洗濯されてあることが伺える。そのことには感謝するが、王子として生きてきたアンリには自分の私物が馬小屋に干されていることについて困惑があった。アンリの私物は懇切丁寧に扱われるのが当然のことだったのだ。

「あぁ、その外套ですか。絞っても水が垂れたので宿の中で干せなかったんですよ。要らない布でもあれば良かったのですが…昨日は大雨でしたが、今日は天気が良かったので他のものはお昼には乾いてましたよ」

 背後にいたグレインが呟きに答えると、アンリは心に引っかかるものを感じながら無言で歩き出した。内容に可笑しなところはなかったが、正体不明の違和感があった。馬小屋を出た時、その正体に気が付く。

「なぁ僕の着てた服って…」

「私が畳んでおきましたよ」

 嫌な予感が的中した。馬の体を洗うのは時間がかかる。泥は雨によって流されただろうが、シルキーは白馬なので少しの汚れも目立つ。念入りに洗う必要があるので、デイヴがアンリの洗濯物を畳む時間はなかったはずだ。考えてみれば当たり前のことだが、思春期のアンリにしてみれば問題だ。畳んだ服の中には下着も含まれただろう。つまり、使用人でもない初対面の女の子に自分の下着を畳ませてしまったということになる。

 アンリは絶句する。グレインも会話の流れからアンリが考えていることを察して、困ったような笑顔を浮かべた。暫し沈黙が場を支配する。

「…すまない」

「…いえ」

 グレインが先導して歩き出すと、アンリも何も言わずにその背を追う。遠くには大きな街が見える。徒歩で十数分といった距離だ。どうやら宿屋は町外れにある小さな丘の上にあったらしい。街の喧騒を避けて静かに休息を取るにはうってつけの位置にある。

 平地に出た頃には街の人々の声が聞こえてきた。道中、二人は一言も喋らなかったが、街に近付くにつれて屋台料理の美味そうな匂いが強くなると自然とアンリの腹が鳴り、二人の間の沈黙を破った。

 "そういえば、昨日の夜から何も食べてなかったな。完全に忘れてた"。

 その音を聞いて振り向いたグレインは、アンリが恥ずかしそうに顔を赤らめるのを見て微笑んだ。

「私も小腹が空いていたところです。食べながら行きませんか?」

 アンリは小さく頷いた。日が傾き始めていたが、幸い夕暮れまではまだ時間がある。買い食いをするくらいの余裕はあった。

 屋台の立ち並ぶ大通りには、老若男女問わず無数の人がおり、息が詰まりそうなほど混雑していた。人の流れは非常に遅く、まともに進めない。アンリとグレインは目星い屋台を見つける度に何とか人混みを外れて寄り、用が終わると機を見計らって人混みに戻るのを繰り返した。屋台の種類は多く見ていて飽きない。

「いっぱい人がいて気疲れしちゃいますね。ここ数日で流民が大量に移住してきたと聞いています」

 周囲の喧騒に負けないように、デザートのクレープを両手に持ちながらグレインは声を張り上げた。

 "その体のどこにそんなに入るんだ"。

 満腹でデザートは断ったアンリは、信じられないようなものを見る目でグレインを見る。串焼きや麺類を中心に既に様々なものを食べたが、グレインは毎回アンリより一回り大きいものを選んでいた。美人だからとおまけを貰うこともあった。グレインの頭の天辺はアンリの顎を超えたくらいの位置で、体は全体的に細く決して大食いには見えない。

「内地の民は戦に慣れていないから酷く怯えているんだろう。国を頼れないなら教会の庇護を求めるのも無理はない」

 アンリもまた声を張り上げた。

 教会というのは、旧王教会のことを指す。かつて世界の覇者として君臨した王を神格化し信仰している、世界最大の宗教団体である。ここリトラルグは旧王教会によって治められている都市の一つであり、ミラルウェイ西側の中心部にあるため人も物もよく集まる。当然、リトラルグはそれを守るために賊程度は一蹴できる兵力を備えている。流民たちはその兵力と旧王教会の権威を頼りにして移住してきたのだ。

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