第二話 覚悟1
アンリが目を覚ますと、小さな染みが点在する年季の入った木製の天井が見えた。不調のせいか頭が回らず、ぼんやりとその景色を眺める。
そのままの状態で、指先を動かしたり、拳を握って開くの繰り返して感覚を確かめているうちに、意識が鮮明になってくる。
途端、思い出したかのように窓から差し込んでくる陽光が眩しく感じられ、アンリは目を逸らした。同時に激痛が全身に走り、思わず顔を顰める。
視線を向けた先では、アンリが寝ているベッドから少し離れた位置にある壁際の椅子に座って、見知らぬ少女が分厚い本を読んでいた。相当夢中になっているようで、アンリが起きたことには気づいていない。
「なぁ、おい」
ぶっきらぼうにアンリが声を掛けると、少女は驚いて一瞬肩を振るわせ、呆けた表情で顔を上げた。窓の隙間から入ってきた微風が、少女の淡い青髪を優しく撫でる。冬を過ぎたばかりの春風は冷たかった。
アンリが次の言葉を発する前に、少女は慌てた様子で本を置いて椅子を揺らしながら立ち上がった。
「お目覚めですか。今デイヴを呼んできますね」
微笑みを浮かべながらそう言うと、少女は駆け足で部屋を出て行った。あっという間の出来事にアンリの制止は間に合わず、口を半開きにして固まった。
階段を下る軽そうな足音の後、話し声が聞こえてきて、早々にそれが終わると重量感のあるものを加えた足音が階段を登ってきた。開けっ放しのドアから、先ほどの少女がデイヴを連れて現れる。
「調子はどうだ?」
ハンカチで手を拭いながら、デイヴは落ち着いた口調でアンリに問いかけた。
「気にするほどじゃない…その子は?」
アンリは上半身だけ起こすと、掛け布団と毛布を足の方に寄せて、体を回転させてベッドの縁に座った。
使い終わったハンカチを小さく折り畳んでポケットに戻したデイヴは、壁際の椅子を二つ手に取ってアンリの前に置いた。その背後で少女がドアを閉める。
「訳あって俺の助手をしてるグレインだ。これから仲良くしてやってくれ」
デイヴが椅子に座った後、遅れてグレインもその隣に座る。三人で向かい合う形になった。
"いや、仲良くって言ったって…"。
困惑したアンリが怪訝そうな顔でグレインを見つめていると、彼女は気まずそうに目を逸らした。
その様子を見て、デイヴは楽しそうに笑う。
「一緒にいたら迷惑がかかると思って、すぐにでも俺たちの前から消えるつもりだったんだろ?」
図星を突かれたアンリは面食らった顔をしつつも静かに頷き、真剣な眼差しでデイヴを見据えた。
「あぁ、そうだ。王都から脱出する時には船が使えたけど、そこから先はずっと陸路で逃げてきた。いくらシルキーの脚が速くても、軍船には敵わない。追手はかなり前に出発してるはずだ。そろそろ追いつかれてもおかしくない」
悲観も楽観も一切含めない、自身の置かれた状況に対する極めて率直な分析だった。沈黙が流れる。部屋の中に息が詰まるような緊張感が生まれた。
スカーピオス王家が治めるミラルウェイ王国の国土の中央には、その名前の由来にもなったミラルウェイという大河が流れ、東西を分断している。その支流は国土の全体に血管のように広がっており、国防のために意図的に橋が掛けられていない部分もあるため、長距離の移動には船が必須である。
王都アイハートは国土中心の東寄りにあるため、アンリは近衛兵団の手引きによって、内密に小型軍船で国土の西側に移された。
彼らは途中までアンリと共に行動したが、追撃を食い止めるために最終的に全員が離脱していった。その後どうなったのかは分からない。
「助けてくれたことには感謝する。恩を返せないことについては申し訳ないと思う。でも、僕の近くにいると巻き込まれてしまう。だから…」
それだけ言うと、アンリは俯いて押し黙る。腹の底から絞り出すような声だった。アンリは自分のために犠牲になった者たちの顔を思い出す。
"もうこれ以上、僕を助けたせいで誰かが不幸になるのは、見たくない…"。
気持ちが深く沈む。胸が張り裂けそうだった。涙が溢れそうになるのをアンリは堪える。
「顔を上げろ」
不意に声が掛かる。目元を僅かに赤く染めたアンリが言われた通りに顔を上げると、笑顔を崩さないデイヴと目が合った。視線には力強さを感じた。
「生きるんだ」
アンリは瞠目した。言われて初めて、自分が死ぬつもりだったことに気がついた。独りで逃げても未来はない、そんなことは分かり切っていたはずなのに。
「でも、今更どうすれば…」
思っていた言葉をそのまま口に出す。アンリにはそれがまるで分からなかった。だからこそ諦めたのだ。既に指名手配の件は国中に広まっている。多額の懸賞金もかけられた。皆がアンリを探して目を光らせている。逃亡生活の間、何度か通報を受けた。港には人が多いのでまず船には乗れないだろう。この国では致命的なことだ。陸路では逃げきれない。詰んでいる。
アンリの表情が曇ると、何を考えているのか察したデイヴが自信に満ちた様子で首を横に振った。
「戦うんだよ。逃げんのは無理だ。戦うしかない」
息を呑む。アンリが捨て去っていた考えだ。
「勝てるのか?」
「今後の君次第だな」
「まだ間に合うのか?」
「間に合わせる。俺に任せろ」
矢継ぎ早の問答だった。アンリは、自身の心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。全身を巡る血潮が熱くなったかのような錯覚を覚える。
「なぁ、アンタ何で僕の味方をしてくれるんだ?義理はあってもそれだけで命は懸けられないだろ?」
ふとアンリの頭に疑問が浮かぶ。高まっていく興奮に反して、意外に思うほど頭は冷静だった。
その問いを待っていたとばかりに不敵に笑うと、勿体ぶった様子でデイヴは言葉を発する。
「…アンリ、君は王になる気はあるかい?この国のじゃない、本当の意味での王に」
「それは…」
思いがけない問いに、アンリは口籠る。そのことについて、考えたことがないでもなかったが、アンリが答えを口にするにはあまりにも重大すぎた。
「答えはいずれ聞かせてくれればいいさ。君の質問に答えよう。俺は、君ならなれると思った。それが理由だよ」
デイヴは立ち上がると、椅子を手に持ってドアの方に向かいながら、やけに軽快な声を出す。
「さ、支度をしよう。今晩出発するよ。お金はグレインに渡してあるから、必要なものを買ってきなさい。ここなら大丈夫だとは思うけど、アンリはちゃんと顔を隠して行くんだぞ」
椅子を元の位置に戻すと、ドアを優しく閉めてデイヴは何処かに立ち去った。残されたアンリとグレインは顔を見合わせる。
「立てますか?」
グレインは立ち上がってアンリに手を差し伸べた。アンリの頭部に巻かれた包帯を見つめながら、心配そうな顔をしている。
「…大丈夫だ。一人で立てる」
その手を頼らず、アンリは自力で立ち上がる。動きに違和感があったので、服の下まで包帯でぐるぐる巻きなのだろうと予測する。体からは微かに薬品の匂いがした。
グレインは椅子を片付けると、壁に掛けてあったフード付きの外套を取ってアンリに手渡した。これで顔を隠せということだと理解して、アンリはそれを着るとフードを深く被った。
「では、行きましょうか」
ドアノブに手を伸ばすと、グレインは振り返って優しく微笑んだ。




