第9話 不穏な朝食と父の困惑
翌朝。
神崎家の食卓には、どこかぎこちない、不自然な空気が漂っていた。
テーブルには、いつものように母・美奈子の手作り料理が並んでいる。
湯気の立つ味噌汁、焼き鮭、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、そして炊きたてのご飯。
普段なら和やかな会話が交わされる朝食の風景だが、今日は妙に静かだった。
俺、神崎秀一は、寝不足からくる頭痛と気だるさを感じながら、箸をゆっくりと動かしていた。
昨夜の出来事が脳裏にちらつき、どうにも食事が喉を通らない。
ちらりと隣を見ると、玲奈も心なしか元気がないように見える。
さすがに昨夜の母の雷は効いたのだろうか。
いや、それとも、昨夜の「誘惑イタズラ作戦(?)」が不発に終わったことへの落胆か……。
母は、俺と玲奈の様子を時折鋭い視線で観察しながら、黙々と食事を進めている。
その視線は、特に玲奈に向けられる回数が多い気がした。
まるで、爆弾処理班が不審物を監視するかのような、油断ならない警戒心が漂っている。
そんな微妙な空気の中、唯一いつも通りなのは、新聞を広げながらのんびりと朝食をとっている父・神崎大輔だった。
昨夜の騒動など露知らず、平和そのものといった表情だ。この家の台風の目は、どうやら父以外の三人に集中しているらしい。
俺が、重たい瞼をこすりながら、ご飯を口に運ぶのがやけに遅いことに、玲奈が気づいた。
さっきまで少ししょんぼりしていたように見えた彼女の目に、いつもの悪戯っぽい光が戻る。
「あーっ♡」
玲奈はわざとらしい声を上げ、俺を指さした。
「お兄ちゃーん、食べるのおっそーい♡ ただでさえいつもトロトロしてるのに、今日は一段とひどいねぇ? これじゃ遅刻確定だよぉ♡」
くっ……! 寝不足なのは誰のせいだと思ってるんだ!
俺が内心で毒づいていると、玲奈はさらに畳み掛けてくる。
「もー、しょうがないなぁ。そんな可哀想なお兄ちゃんには、この優しい玲奈様が、特別に食べさせてあげよっか?♡」
そう言うと、玲奈は自分の皿から綺麗に焼かれただし巻き卵を箸でつまみ、にっこり笑って俺の口元へと差し出してきた。
「はい、お兄ちゃん、あーん♡」
「なっ!?」
俺は思わず顔を赤らめ、身を引いた。こ、こいつ! 母さんの前で何を……!
しかし、玲奈の箸が俺の口に届く寸前。
ギロリッ!!!
テーブルの向かい側から、母の鋭すぎる視線がレーザービームのように玲奈を射抜いた。
その眼光は「それ以上やったらどうなるかわかってるわね?」と雄弁に語っている。
「ひっ……!」
玲奈は、母の無言の圧力に気づき、びくりと肩を震わせた。
そして、差し出していた箸を、すごすごとしょんぼりと引っ込める。
さっきまでの威勢はどこへやら、再び借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。
(あ、危なかった……)
俺は内心でホッと胸を撫で下ろす。母さんの監視体制、恐るべし。
一連のやり取りを、新聞の影から見ていた父が、ようやく家族の異変に気づいたようだ。
彼はゆっくりと新聞を畳み、怪訝そうな顔で俺たち三人の顔を見比べた。
「……ん? な、なんだか……今日はみんな、変じゃないか?」
父の素朴な疑問が、食卓に投げかけられる。
その瞬間。
「「「なんでもない(です)(よ)!」」」
俺と玲奈と母の声が、まるで示し合わせたかのように、綺麗にハモった。
「え……?」
父は、三人の完璧すぎるシンクロと、必死さが滲む表情に、ますます困惑した顔になる。
「い、いや、でも、さっき玲奈が秀一に……それに美奈子もなんだかピリピリしてるし……何かあったのか?」
父は、まだ納得いかない様子で尋ねてくる。
「なーんにもないよ、お父さん♡ ねー、お母さん♡」
玲奈は、引きつった作り笑顔で父に媚びるように言う。
「ええ、そうよ、あなた。ただの気のせいよ。さ、冷めないうちに早く食べなさい」
母も、何事もなかったかのように取り繕う。
「……そうかぁ?」
父は、釈然としないながらも、それ以上追求することは諦めたようだ。
再び新聞を広げようとしたが、やはり気になるのか、ちらちらと俺たち三人の様子を窺っている。
俺は、味噌汁をすすりながら、心の中でため息をついた。
(父さん、何も知らなくて幸せだよ……)
神崎家の朝食は、今日もまた、水面下で様々な思惑と感情が渦巻きながら、過ぎていくのだった。
そして、俺の寝不足と気まずさは、解消される気配が全くなかった。