第3話 デレデレ妹とクールな親友
翌日、昼休み。
春の柔らかな日差しが差し込む高校一年生の教室は、生徒たちの賑やかな声で満ちていた。
購買で買ったパンをかじる者、次の授業の予習をする者、そして友人との他愛ないおしゃべりに花を咲かせる者。
そんな喧騒の中心から少し離れた窓際の席で、二人の少女が向かい合って座っていた。
一人は、もちろん我らが神崎玲奈。今日も完璧にセットされたピンクのツインテールを揺らし、制服のリボンをちょっぴり緩めた着こなし。
その人形めいた美貌は、教室の中でもひときわ目を引いている。
そして、その向かいに座っているのは、黒髪ショートカットがよく似合う、クールな雰囲気の少女。
名前は、佐伯美月。玲奈とは小学校からの付き合いで、玲奈のことをよく知る親友だ。
今は、玲奈が持ち込んだ可愛らしいキャラクター弁当をつつきながら、やや呆れたような表情で玲奈の話を聞いている。
「~~~でねっ! 昨日のお兄ちゃん、玲奈がちょっと煽ったらすぐムキになっちゃってさー、それがまた可愛くって♡」
玲奈は、頬をほんのり赤らめ、うっとりとした表情で語っている。その手には、スマホ。
画面には、おそらく昨夜こっそり撮影したであろう、勉強に苦悩する兄・秀一の(かなり情けない)写真が表示されている。
「もうね、ずーっと隣に座って、玲奈の解説、真剣に聞いてくれてたんだよ? あの距離感! あの空気! たまらなかったなぁ……♡」
机に突っ伏し、スマホを抱きしめるようにして、玲奈はくふくふと幸せそうな声を漏らす。
「昨日の夜は、ずーっとお兄ちゃんと一緒だったんだもん。はぁ……お兄ちゃん成分、フルチャージだよぉ……♡ 玲奈、これでまた一週間は頑張れる……」
デレッデレである。あの小悪魔的なメスガキっぷりはどこへやら。
親友である美月の前では、兄への愛を隠そうともしない、ただの重度のブラコン少女と化していた。
美月は、卵焼きを箸でつまみながら、じとーっとした目で玲奈がひとしきりデレ終わるのを待ってから、やれやれといった風にため息をついた。
「はいはい、お疲れ様。また始まったわね、玲奈のお兄ちゃん語り」
「始まった、じゃないもん! これは玲奈にとっての聖なる儀式なんだから!」
むぅ、と頬を膨らませる玲奈。その仕草は年相応に可愛らしいが、言っている内容は相変わらずぶっ飛んでいる。
「それにしても、あんたも懲りないわねぇ。毎日毎日、お兄さんお兄さんって。ほんっとうに、筋金入りのブラコンなんだから」
美月は、呆れを通り越して感心すらしているような口調で言う。幼馴染として、玲奈のこの兄一筋な(そして若干歪んだ)愛情表現には、もう慣れっこだった。
「ブラコン?」
玲奈はきょとんとした顔で美月を見ると、次の瞬間、にぱーっと花が咲くような笑顔になった。
「あったりまえじゃーん! 玲奈がお兄ちゃん大好きなの、今更でしょ?」
そして、ぐっと胸を張って、高らかに宣言する。
「だって玲奈は、将来、お兄ちゃんと結婚するんだもーん!!」
「はいはい、お大事にー」
美月は即座に、そして心の底から面倒くさそうに返す。
玲奈のこの「お兄ちゃんと結婚する」宣言は、もはや定期的に聞かされる念仏のようなものだった。
最初は律儀に「いや、それは法律的に……」とか「血縁者は……」とかツッコミを入れていた美月だが、玲奈があまりにも本気で、しかも嬉々として語るため、最近ではもうスルーすることに決めている。常識的な説得が通用する相手ではないのだ、この親友は。
美月は、こめかみをとんとんと指で叩きながら、大きく息を吐いた。この幼馴染の将来が、本気で心配になってくる。
「……それにしてもさぁ」
美月は、ふと思い出したように、玲奈の顔をしげしげと眺めた。
「あんた、昔はもっとこう……おとなしくて、引っ込み思案な感じじゃなかったっけ?」
「え?」
玲奈はぱちくりと目を瞬かせた。
「ほら、小学校の頃とか。いっつも誰かの後ろに隠れてるような、蚊の鳴くような声でしか喋れないような子だったじゃない。それが、中学入ったくらいから? 急に今の……その、なんというか、やけに強気で、ちょっと生意気な感じ……あ、いや、ごめん、えーっと、明るくハキハキした感じになったわよね? 何かきっかけでもあったの?」
美月は首を傾げながら尋ねる。昔の玲奈を知っているだけに、今のこの自信満々で小悪魔的な振る舞い(特に兄に対して)は、時々不思議に思うことがあったのだ。
美月の言葉に、玲奈の動きがピタリと止まった。
その大きな瞳が、ふっと遠くを見つめるように細められる。脳裏に蘇るのは、まだ自分が小さく、そして今よりもずっと内気だった頃の記憶――。
あれは、たしか小学校の低学年の頃。
リビングのソファで、お兄ちゃんと一緒にテレビを見ていた時だった。
画面に映っていたのは、当時流行っていた魔法少女アニメ。その中に、主人公のライバルとして登場する、ツインテールで意地悪な口調のキャラクターがいた。
たしか、名前は……アニエスちゃん、だったかな。
『ふふん、まだまだ甘いわね! このアニエス様には敵わないんだから!』
『ざーこ、ざーこ♡ もっと本気出しなさいよ!』
画面の中で生き生きと動き回り、憎まれ口を叩きながらもどこか魅力的なそのキャラクターを、隣に座っていたお兄ちゃんは、キラキラした目で見ていた。
「うおー! アニエスちゃん、超可愛いよな!」
興奮気味に、お兄ちゃんは隣にいた私に同意を求めてきた。当時の私は、まだお兄ちゃんと普通に話すのも少し恥ずかしかったくらい、人見知りが激しかった。
「……え? あ、うん……」
小さく頷くのが精一杯だった私に、お兄ちゃんはさらに熱っぽく語りかける。
「このさー、ちょっと生意気な感じで煽ってくるところとか、たまんないよな! なんかこう、ゾクゾクするっていうか!」
お兄ちゃんは、本当に楽しそうに笑っていた。その笑顔は、いつも私に向けられる優しい笑顔とは少し違う、何か別の種類の、強い「好き」が込められているように見えた。
私は、ただ黙って聞いていた。
生意気な感じ? 煽ってくる? それが、お兄ちゃんの好きなタイプ……?
当時から私は、お兄ちゃんが大好きだった。世界で一番大好きだった。
でも、引っ込み思案な性格のせいで、なかなか素直に甘えたり、話しかけたりすることができなかった。
お兄ちゃんはいつも優しかったけれど、もっと、お兄ちゃんに「好き」って思ってもらいたい。
お兄ちゃんの「特別」になりたい。そんな気持ちが、小さな胸の中で渦巻いていた。
(こういう子が……お兄ちゃんは、好きなの……?)
画面の中のアニエスちゃんを見つめる。ピンク色のツインテール。大きな目。
自信満々な態度。そして、相手を小馬鹿にするような、挑発的な言葉遣い。
今の私とは、まるで正反対だ。
(……生意気な感じ……煽ってくる感じ……)
もし、私が……アニエスちゃんみたいになれたら?
そしたら、お兄ちゃんは、もっと私のことを見てくれるかな?
もっと、私のことを「好き」になってくれるかな?
その瞬間、小さな決意が芽生えた。
(……ふぅん……お兄ちゃんが、好きなら……)
(玲奈……頑張ってみよう、かな……)
それから、私の密かな「メスガキ研究」が始まった。
アニエスちゃんが登場する回を繰り返し見て、セリフや仕草をノートに書き写した。
鏡の前で、生意気そうな表情や、煽るような言い方を何度も練習した。
最初は全然うまくできなかった。引っ込み思案な性格は、そう簡単には変わらない。
無理に強気な言葉を使おうとすると、声が震えてしまったり、顔が赤くなってしまったり。
でも、諦めなかった。
お兄ちゃんの、あの「ゾクゾクする!」と言った時の嬉しそうな顔を思い出すと、頑張れた。
少しずつ、少しずつ、アニエスちゃんの喋り方や振る舞いを、自分のものにしていった。
それはまるで、憧れのキャラクターのコスプレをするような感覚に近いのかもしれない。
そうして、何年もかけて「神崎玲奈」というキャラクターを作り上げてきたのだ。
すべては、大好きな、大好きな、お兄ちゃんの「好み」になるために。
「……な?」
「……玲奈?」
不意に、目の前から声がして、玲奈はハッと我に返った。
目の前では、美月が怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「おーい、聞こえてる? 急に黙り込んじゃって、どうしたのよ」
「……あ、ううん、なんでもない!」
玲奈は慌てて笑顔を作り、首を横に振った。危ない危ない、昔のことを考え込んでしまっていた。
「で、結局、なんで急にあんな感じになったわけ? やっぱり何かあったんでしょ?」
美月はまだ納得していない様子で、追求してくる。
玲奈は、ふふ、と悪戯っぽく笑うと、人差し指をそっと自分の唇に当てた。
そして、美月の耳元に顔を近づけ、囁くように言う。
「それはね……」
「……ひ・み・つ♡」
ニヤリと笑うその表情は、まさしく彼女が長年研究し、身につけてきた「メスガキ」そのものだった。
自分がどうして今のようになったのか、その本当の理由を、玲奈は誰にも話すつもりはなかった。
それは、お兄ちゃんは知らないと思うけど大好きな兄との、二人だけの秘密の思い出にしておきたかったから。
「なっ……! あんたねぇ!」
まんまと煙に巻かれた美月は、ぷりぷりと頬を膨らませる。
そんな親友の反応を見て、玲奈は楽しそうにクスクスと笑うのだった。
(お兄ちゃんが好きな玲奈でいるために、玲奈はこれからも頑張るんだから♡)
心の中でそっと呟きながら、玲奈は再びスマホの画面に視線を落とす。
そこに映る、少し困ったような顔をした兄の写真を見て、玲奈の口元には、またデレデレとした笑みが浮かぶのだった。