28話 夕陽の和解 ~父の涙と娘の笑顔~
「すまなかった……詩織……っ!」
父の慟哭が、静かな境内に響き渡る。額から流れる血も、玉砂利を濡らす涙も、彼の深い後悔と苦悩を物語っていた。
俺は、そして詩織先輩も、ただその姿を見つめることしかできなかった。
厳格で、常に正しいことを重んじてきた父。
しかし、その厳しさの根底には、神社と家族を守りたいという必死な想いがあったのだろう。
和泉から聞いた話が、断片的に頭をよぎる。
少子高齢化による氏子の減少、信仰心の低下、それに伴う神社の経営難……。
時代の変化の中で、伝統ある神社を守り、次代へと繋いでいくことへの重圧は、想像を絶するものだったのかもしれない。
(だから、子供たちに厳しく当たったのか……? 跡を継ぐ者として、強くあってほしかった……? それが、いつしか……)
父は、震える声で、さらに言葉を続けた。
「私が憎いだろう……当然だ……。私は……きっと、お前たちに……うまくいかないことの八つ当たりを……していたんだと思う……。恨んでくれて、構わない……。それだけのことを、私は……私は、してきたのだから……」
その言葉は、あまりにも痛々しく、自己嫌悪に満ちていた。
厳格さの鎧が剥がれ落ち、一人の苦悩する父親の姿がそこにはあった。
その時、そっと、詩織先輩が動いた。
彼女は、まだ涙の跡が残る顔で、しかし穏やかな表情で、土下座する父の肩に、優しく手を置いた。
「……父様」
その声は、震えていたが、静かで、澄んでいた。
「父様が、厳しくなさったのは……私や……一樹のことを、思ってのことだと……わかっています」
父が、驚いたように顔を上げる。血と涙で汚れた顔に、信じられないといった表情が浮かぶ。
「だから……どうか、顔を上げてください、父様」
詩織先輩は、そう言って、父の腕をそっと引き、顔を上げさせた。
その光景に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
なんて、優しい人なんだろう、詩織先輩は。あんなにひどい仕打ちを受けた直後なのに……。
俺は、いてもたってもいられなくなり、一歩前へと進み出た。
そして、まだ呆然としている父親に向かって、はっきりとした口調で言った。
「……知っているでしょう?」
父親の視線が、俺に向けられる。
「先輩は、この学校の生徒会長で、常に学年トップの成績です。そんなことは、並大抵の努力でできることじゃない。誰よりも真面目で、誰よりも頑張り屋さんなんです」
俺は、自分が知っている詩織先輩の姿を、正直に伝える。
「そして……先輩は、アニメや漫画やゲームが、大好きなんです」
俺は、きっぱりと言い切った。
「もし、本当にそれらが『害悪』で『汚らわしい』ものなら……先輩が、こんなにも立派で優秀でいられるはずがありますか? 好きなことに情熱を燃やせるからこそ、他のことにも全力で打ち込めるんじゃないですか?」
俺は、父親の目を真っ直ぐに見据えて続けた。
「先輩の、本当の笑顔が見たいなら……まずは、先輩の『好き』を、認めてあげてください。理解しようとしてあげてください」
俺の言葉を、父親は黙って聞いていた。
その表情は、まだ苦悩の色を浮かべていたが、さっきまでの頑なさは消えているように見えた。
しばらくの沈黙の後、父親は、ふっと、力なく笑った。
それは、自嘲のようでもあり、何かを悟ったかのようでもあった。
「……そう、だな」
そして、娘である詩織先輩に向き直ると、少し照れたような、ぎこちない表情で言った。
「……詩織」
「は、はい……父様」
「……私にも……その、『漫画』というものを、教えてはくれないか……?」
父親の口から出た、予想外の言葉。
「お前の好きなものなのだろう? きっと……きっと、素晴らしいものなのだろうな……」
それは、紛れもなく、娘の趣味への歩み寄りと、理解を示そうとする言葉だった。
「……父様……!」
詩織先輩の瞳から、再び涙が溢れ出した。
しかし、それはさっきまでの絶望の涙とは違う、喜びと安堵と、そして長年の願いが叶ったことへの感動の涙だった。
俺は、その光景を見て胸がいっぱいになった。そして、もう一押しだ、と思った。
俺は、詩織先輩の腕をそっと掴み、まだ地面に膝をついている父の前に、優しく座らせた。
次に、父親の腕を取り、その大きな手を詩織先輩の頭の上に、そっと乗せた。
「え……?」
「な……?」
戸惑う父娘に、俺は笑顔で言った。
「どうか、いつも頑張っている先輩を、褒めてあげてください」
「……」
「今まで、厳しく接してきた分……これからは、たくさん、優しくしてあげてください」
父親は一瞬、躊躇うような表情を見せたが、やがて意を決したように、詩織先輩の頭を不器用ながらも優しく撫で始めた。
「……そうだな」
父親の声は、まだ少し震えていたが、温かみが戻ってきていた。
「詩織……お前は……こんなに、大きく、立派になったのだな……」
まるで、初めて娘の成長を実感したかのように、父親は呟く。
「それすら……私は、ちゃんと見てやれていなかった……本当に、すまなかった……」
父親の手は、優しく、何度も、詩織先輩の頭を撫で続ける。
「学問でも、常に一番だと……? それは……本当に、凄いことだ……。お前は……私の、誇らしい娘だ……」
その言葉を聞いた瞬間。
詩織先輩の目からは、堰を切ったように、涙がとめどなく溢れ出した。
声を殺して、ただただ、涙を流し続ける。
父に、認められること。
父に、褒められること。
それは、ずっと、ずっと、詩織先輩が心の奥底で望んでいたことの1つだったのだろう。
厳格な父の期待に応えようと、必死に努力を続けてきた彼女にとって、それは何よりの報酬だったのかもしれない。
夕陽が、涙する娘の頭を優しく撫でる父親の姿と、その隣で静かに見守る俺の姿を、オレンジ色の光で包み込んでいた。
境内に落ちていたアクリルキーホルダーが、夕陽を反射して、キラリと光ったような気がした。
長い間、止まっていた親子の時間が、ようやく、ゆっくりと動き始めた瞬間だった。




