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第2話 天才メスガキ講師とポンコツ赤点兄

「だから、ここのsinθは、まず単位円をイメージして……って、お兄ちゃん、聞いてる?」

「うぉっ!? あ、ああ、聞いてる聞いてる!」


目の前で振られた玲奈の細い指に、俺は慌てて意識を引き戻した。

いかん、また玲奈の顔に見惚れて……いやいや、あまりの解説の分かりやすさに感心していただけだ。断じて。


玲奈のスパルタ個人レッスンが始まってから、およそ二時間が経過していた。

驚くべきことに、あれほどチンプンカンプンだった数式が、スルスルと頭に入ってくる。いや、玲奈の説明がめちゃくちゃ上手いのだ。


「もう、ぼーっとしない! ここ、テストに出やすい範囲でしょ?」

「わ、わかってるって」

「ほんとかなぁ? じゃあ、この問題解いてみて。制限時間、5分!」


玲奈は参考書の練習問題をビシッと指さす。その目は真剣そのものだ。

さっきまでの揶揄うような光は消え、今は完全に「先生」の顔になっている。

……まあ、口調は相変わらずアレだが。


「え、5分? ちょっと短くね?」

「はぁ? こんなの3分で解けないとダメでしょ、普通。お兄ちゃんだから5分にしてあげてるんじゃーん。感謝してよね、このザコ♡」


ぐぬぬ……。いちいち煽ってくるのはデフォルトか。だが、こうやって発破をかけられると、妙にやる気が出るのも事実だったりする。


俺はシャーペンを握り直し、問題に取り掛かる。二次関数の最大最小問題。

うん、さっき玲奈が解説してくれたポイントを押さえれば、なんとか……。

カリカリとノートに数式を書き連ねていく。隣からは、玲奈がじーっと俺の手元を見つめる視線を感じる。

近い。ものすごく近い。甘い匂いもするし、時々ピンクの髪の毛先が俺の腕に触れる。集中しろ、俺。

これは追試突破のための試練なんだ。煩悩退散、煩悩退散……!


「……できた」

「はい、時間。どれどれ?」


玲奈は俺のノートをひょいと取り上げると、素早くチェックしていく。

その間、俺は生殺しのような気分で結果を待つ。頼む、合っていてくれ……!


「ふーん……」


玲奈は小さく唸ると、ペンで数カ所に丸をつけた。


「ここ、計算ミス。符号が逆。あと、ここの場合分け、条件が一つ抜けてる」

「げっ!」


的確すぎる指摘。しかも、俺が自信なさげに書いた部分をピンポイントで突いてきやがった。


「あーあ、これじゃあ部分点しかもらえないねぇ。やっぱりお兄ちゃん、詰めが甘いんだからぁ」


はぁ、とわざとらしくため息をつく玲奈。そして、俺の頭をぽんぽんと軽く叩く。


「いーい? 数学はね、一つ一つの積み重ねなの。ケアレスミス一つで、全部パーになっちゃうこともあるんだから。もっと慎重に、丁寧に!」

「……はい」

「よし、もう一回、類似問題やってみよっか。今度は3分ね♡」

「短くなってる!?」

「当たり前でしょ? 同じミス繰り返すザコは、玲奈、嫌いだもん♡」


そう言ってニッと笑う顔は、小悪魔そのものだ。だが、その指導は的確で、俺が理解できるまで根気強く付き合ってくれる。

ミスした箇所も、ただ間違いを指摘するだけでなく、「どうして間違えたのか」「どうすれば防げるのか」まで丁寧に解説してくれるのだ。


正直、学校の先生より分かりやすいかもしれない……。


ふと、あることに気づく。玲奈が今解説してくれている範囲の中には、まだ高校一年生では習っていないはずの内容も含まれている。

三角比の応用とか、複雑な関数のグラフとか。


「……なあ、玲奈」

「ん、なに? またわかんないの?」

「いや、そうじゃなくて……この辺の問題って、まだお前習ってない範囲だよな? なんでそんなスラスラ解けるんだ?」


俺が尋ねると、玲奈は一瞬きょとんとした顔をして、それから「あー」と何でもないように言った。


「ん? ああ、これ? お兄ちゃんが赤点取ったって聞いたから、範囲確認して、ちょっと勉強しといただけだよ?」

「……は?」


勉強? 俺のために? この、学校一の美少女で、常に学年トップの成績をキープしている妹が?

俺なんかのために、わざわざ自分の勉強時間を削って、俺の学年の範囲を?


「な、なんで……」

「なんでって……お兄ちゃんが困ってるのに、玲奈が助けないわけないじゃん。家族でしょ?」


玲奈は、さも当然のように言ってのける。その表情には、いつもの悪戯っぽい色はなく、ただ真っ直ぐな好意が浮かんでいた。


「それに、玲奈が教えるって決めたからには、お兄ちゃんを赤点から救い出してあげないと、玲奈のプライドに関わるしねっ!」


ふふん、と再び胸を張る(物理的には張ってないけど)。


……こいつ。

俺は言葉を失った。普段のメスガキ言動からは想像もつかないような、健気なまでの兄思い。

ただ煽りたいだけじゃなかったのか。いや、煽りたい気持ちもゼロではないんだろうけど、それ以上に、本気で俺のことを心配して、助けようとしてくれていたのか。


なんだか、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。


「……そ、そうか」


照れくさくて、それ以上何も言えなかった。ただ、ノートに向かう玲奈の横顔を盗み見る。

真剣な表情で、俺が理解しやすいように言葉を選びながら解説を続けてくれている。

その姿は、普段の小生意気な妹とはまるで別人のように、頼もしく見えた。


それからさらに一時間ほど、玲奈先生の熱血指導は続いた。

途中、何度か集中力が切れそうになった俺を「ほら、ザコお兄ちゃん、集中!」「ここで諦めたら一生赤点だよ!」と叱咤激励(という名の罵詈雑言)で叩き起こしつつ、玲奈は最後まで俺のペースに合わせてくれた。


「……よし、今日はこのくらいにしといてあげよっかな」


時計が午後十一時を回った頃、玲奈はようやくペンを置いた。


「ふぅ……終わった……」


俺はぐったりと椅子にもたれかかる。脳みそが沸騰しそうだ。

だが、不思議と疲労感よりも達成感の方が大きい。あれほど絶望的だった数学の問題が、今は「解ける」という感覚がある。


「お、おい、玲奈……」


俺は息を整えながら、隣に座る妹に声をかけた。


「んー?」


玲奈は伸びをしながら、眠そうな目をこすっている。さすがに疲れたのだろう。


「今日は……その、マジで助かった。ありがとうな。お前のおかげで、なんか、いけそうな気がしてきた。追試、たぶん大丈夫だと思う」


俺は、素直な気持ちで感謝の言葉を口にした。普段なら照れくさくて絶対に言えないが、今日ばかりは言わずにはいられなかった。


すると、玲奈はぱちりと目を開けて、じーっと俺の顔を見つめてきた。その大きな瞳が、何かを期待するように揺れている。

そして、次の瞬間。


「んっ!」


玲奈は、こてん、と効果音がつきそうな仕草で、俺の胸元あたりに自分の頭をぐいっと突き出してきた。ピンクのツインテールがさらりと揺れる。


「……?」


一瞬、何を要求されているのか分からなかったが、すぐにピンときた。

これは、あれだ。俺たちがまだ小さかった頃からの、玲奈なりの「ご褒美ちょうだい」のサイン。

何か良いことをしたり、手伝ったりした後に、決まってこうやって頭を差し出してくるのだ。


俺は苦笑しながら、そっと右手を伸ばし、玲奈の小さな頭を優しく撫でた。柔らかい髪の感触が、手のひらに伝わる。


「はいはい、よしよし。今日は本当によく頑張ったな、玲奈先生」

「えへへ……♡」


玲奈は猫のように目を細め、気持ちよさそうに笑う。

さっきまでの威勢のいいメスガキはどこへやら、今は完全に甘えモードだ。このギャップが、兄ながら反則級に可愛いと思ってしまう。


「どう? 玲奈みたいな、こーんなに可愛くて頭もいい、できた妹をもっちゃって、お兄ちゃんは幸せ者でしょ~?」


頭を撫でられながら、玲奈は俺の腕に再びぎゅっと絡みついてきた。顔を俺の肩口にすり寄せてくる。


「まーったく、お兄ちゃんは玲奈がいないと、ほんっとダメダメなんだから♡ しょうがないなぁ♡」


その声は、呆れたような響きを含みつつも、どこか誇らしげで、そしてとてつもなく嬉しそうだ。腕に感じる玲奈の体温が、なんだか心地良い。


(まあ、否定はできねえな……)


俺は心の中で呟いた。確かに、玲奈がいなかったら、俺は今頃、追試のプレッシャーで完全に潰れていたかもしれない。

本当に、こいつには頭が上がらない。


しばらくの間、玲奈は満足そうに俺にひっついていたが、やがて名残惜しそうに体を離した。


「ふぅ……じゃあ、玲奈はもう寝るね」

椅子から立ち上がり、軽く伸びをする。


「お兄ちゃんも、ちゃんと復習するんだよ? せっかく玲奈様が教えてあげたんだから、無駄にしないでよね」

「ああ、わかってる」

「もし、また赤点なんてとったら……」


玲奈はそこで言葉を切ると、にやりと悪魔のような笑みを浮かべた。


「今度こそ、お兄ちゃんの赤点答案用紙、スキャンして玲奈のSNSアカウントで全世界に拡散しちゃうからね♡ #赤点お兄ちゃん #ザコすぎワロタ ってハッシュタグ付きで♡」

「なっ……!?」


おい、それは洒落にならんぞ! 俺の社会的な死を意味する!


「そ、そんなことしたら……!」

「したら、どうなるのかなぁ~? ま、そーならないように、せいぜい頑張ってねぇ~♡ じゃ、おやすみ、ザコお兄ちゃん♡」


玲奈はひらひらと手を振り、今度こそ部屋のドアに向かう。そして、最後にくるりと振り返り、ぺろっと舌を出して見せた。


バンッ!


入ってきた時と同じように、勢いよくドアを閉めて、玲奈は嵐のように去っていった。


「……」


部屋には、静寂と、玲奈の残り香、そしてSNS拡散の恐怖に打ち震える俺だけが残された。


「ぜっ……たいに赤点取れねぇ……!」


俺はブルリと身を震わせた。あの妹なら、本気でやりかねない。あの悪魔的笑顔は、脅しじゃなく本気マジのやつだ。


しかし、恐怖と同時に、別の感情も込み上げてくる。

閉まったドアの方を見つめながら、俺は知らず知らずのうちに呟いていた。


「……本当に、俺には勿体無いくらい、良くできた妹だよ……」


口は悪いし、態度はでかいし、すぐに煽ってくるメスガキだけど。

誰よりも俺のことを心配してくれて、俺のために一生懸命になってくれる。

あんな風に、根気強く、分かるまで付き合ってくれるなんて、普通の兄妹じゃありえないだろう。


SNS拡散の脅しは怖いが、それ以上に、玲奈の気持ちに応えたいという思いが強くなっていた。

よし、絶対に追試、パスしてやる。そして、いつか玲奈に「お兄ちゃん、すごいじゃん!」って、煽り抜きで言わせてやるんだ。


俺は決意を新たに、再び参考書に向き直った。玲奈が残してくれた丁寧なノートと、あの悪魔的な笑顔と脅しを胸に。


……まあ、まずは目の前の追試をクリアしないと始まらないんだけどな! 頑張れ、俺!

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