第18話 深夜のリビングと暴走する妹、そして兄の受難
その日の夜。神崎家のリビングは、珍しく静まり返っていた。
テレビは消え、父は早々に自室へ引き上げ、残っているのはソファにぐったりと突っ伏している玲奈と、キッチンで片付けをしていた母・美奈子だけだった。
いつもなら、この時間でもスマホをいじったり、兄である俺の部屋にちょっかいを出しに行ったりしているはずの玲奈が、今日はまるで抜け殻のようだった。
ソファにうつ伏せになり、ピンクのツインテールも力なく垂れ下がっている。
その姿は、まるでゾンビのようだ。
「……」
時折、小さく「うぅ……」とか「むぅ……」とかいう、うめき声のようなものが聞こえてくる。明らかに様子がおかしい。
キッチンの片付けを終えた美奈子は、そんな娘の姿に気づき、心配そうに眉を寄せた。
ここ最近、玲奈はやけにハイテンションで、秀一にべったりだった。それが急にこの落ち込みようだ。何かあったのだろうか。
美奈子は、そっと玲奈のそばに寄り、ソファの端に腰掛けた。そして、力なくソファに沈む娘の背中を、優しくさすった。
「玲奈、どうかしたの? 元気ないじゃない」
「……」
玲奈は、反応しない。ただ、うつ伏せのまま、くぐもった声を漏らすだけだ。
「何か悩みがあるなら、お母さんに話してごらんなさい。話せることなら、聞くわよ?」
美奈子の声は、心からの心配と、母親としての優しさに満ちていた。
しばらくの沈黙の後、玲奈はゆっくりと、ほんの少しだけ顔を上げた。
ソファに押し付けられていた頬には跡がつき、目はどこか虚ろだ。
そして、重い口を開いた。その声は、いつものようなハリがなく、か細い。
「……お兄ちゃんが……」
「お兄ちゃんが?」
美奈子は、続きを促すように、優しく繰り返した。
秀一が何かしたのだろうか? それとも、何か言われたのだろうか?
玲奈は、再び俯きそうになりながらも、意を決したように、衝撃的な言葉を口にした。
「お兄ちゃんが……私で……ぼっき、しない……」
シン…………。
リビングに、痛いほどの静寂が訪れた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
美奈子は、一瞬、娘が何を言ったのか理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
しかし、数秒後。
美奈子の表情から、すぅっと血の気が引いた。そして次の瞬間、その表情はみるみるうちに険しくなり、こめかみに青筋が浮かび上がる。
「………………は?」
低く、地を這うような声が、美奈子の口から漏れた。
そして、次の瞬間!
ゴッ!!!!
鈍い音と共に、美奈子の振り下ろされた拳が、玲奈の後頭部にクリーンヒットした!
それは、愛情表現としての軽いゲンコツなどでは断じてない。本気の、全力の、鉄拳制裁だった。
「いったあああああああああああい!!!!!!」
玲奈は、ソファから転げ落ち、床を転がりながら絶叫した。
涙を浮かべ、殴られた箇所を両手で必死にさすっている。
「な、何するのお母さん!? いったいよぉ!?」
「何するのはこっちのセリフだ、この馬鹿娘ぇえええええええ!!!!」
美奈子は、わなわなと拳を震わせながら、鬼のような形相で玲奈を睨みつけていた。
その怒りは、まさに火山の大噴火寸前といった様相だ。
「ひっ……!」
玲奈は、母の本気の怒りに完全に怯え、後ずさる。ソファの陰に隠れようとするが、美奈子の鋭い視線からは逃れられない。
「お、お母さん、落ち着いて……!」
「落ち着けるかぁ! あんた、今、なんて言った!? もう一回言ってみなさい!!」
「だ、だって……!」
玲奈は、涙目で必死に弁解しようとする。
「だって、私が抱きついても、一緒のベッドで寝ても、お兄ちゃん、ぜんっぜん、そんな風にならないのに……! きょ、今日、美月が抱きついたら……お、おっきくなってたんだもん!! ひどいよぉ!」
……兄のプライベートは、完全に崩壊した。
玲奈の言葉を聞き、美奈子は一瞬動きを止めた。そして、状況をなんとなく察したようだ。
怒りの形相は少しだけ和らいだが、代わりに深い、深すぎるため息が漏れた。
「はぁぁぁぁぁぁ…………」
美奈子は、こめかみを押さえながら、天を仰いだ。そして、半ば諦めたような、諭すような口調で言った。
「……玲奈、いい? よく聞きなさい」
「う、うん……」
「そりゃあね……美月ちゃんは、なんていうか……よその子。他人。異性の、女の子。わかる?」
「……うん」
「でも、あんたは違う。あんたは、秀一の、血の繋がった、実の妹。OK?」
「…………うん」
「だから、秀一があんたにそういう反応をしなくて、美月ちゃんに反応するのは……まあ、その……健全というか、当たり前なの。むしろ、逆だったら大問題なのよ?」
美奈子は、言い聞かせるように、丁寧に、しかし若干疲れた様子で説明した。そして、ぽつりと付け加える。
「……本当に、秀一がまともな倫理観を持ってて、良かったわ……」
心底ホッとしたような呟きだった。
しかし、玲奈にはその常識的な説明は全く響いていなかった。
彼女は、わなわなと体を震わせながら、再び母に食ってかかった。
「やだ! やだやだやだ! そんなの絶対やだ!」
玲奈は、涙を拭い、決意に満ちた(あるいは、狂気に満ちた)目で母を睨みつけた。
「玲奈は、お兄ちゃんと結婚するの! 将来、絶対にするんだもん!」
「だーかーらー、それは法律的に……」
「うるさい! 法律なんて関係ない! 玲奈の愛の前には無力なんだから!」
完全に無茶苦茶な理論だ。
「そのためには! お兄ちゃんに、玲奈のこと、ちゃんと『異性』として見てもらわなきゃダメなの! 妹じゃなくて、一人の『女』として意識させなきゃ!」
「れ、玲奈……? あんた、何を……」
美奈子は、娘の異様な気迫に、嫌な予感を覚えた。
そして、その予感は的中する。
玲奈は、おもむろに立ち上がると、着ていた部屋着のパーカーとショートパンツを、躊躇なく脱ぎ捨て始めたのだ!
「!?!?!?」
下着も勢いよく脱ぎ捨て、あっという間に玲奈は生まれたままの姿になった。
その白い肌が、リビングの照明に照らされる。
「あ、あんた!? 急に何をやってるの!? 服を着なさい!!」
美奈子は、驚愕と混乱で叫ぶ。娘が、突然、目の前で全裸になったのだ。動揺しない方がおかしい。
しかし、玲奈は母の言葉など全く聞いていなかった。
彼女は、自信に満ち溢れた表情で、自分の裸体を軽く見下ろすと、次の瞬間、とんでもない行動に出た。
「お兄ちゃーーーーーーーーーーーん!!!!!」
玲奈は、リビングのドアを開け放ち、そのままの姿で、二階へと続く階段を駆け上がり始めたのだ! その目標は、ただ一つ、兄・秀一の部屋!
「ちょっ……! 馬鹿! 馬鹿玲奈ぁああああああああああ!!!! 待ちなさぁーーーーーーい!!!!」
美奈子は、真っ青な顔で絶叫しながら、慌てて玲奈の後を追いかける。このままでは、本当に取り返しのつかないことになる!
一方、その頃。俺の部屋。
俺は、PCの前で、今日の出来事を反芻していた。校舎裏での告白、ジェラート屋での間接キス騒動、そして帰り道のナンパ事件と、美月の予想外の行動……。
(それにしても、美月ちゃん、大丈夫だったかな……。だいぶ怯えてたし、最後、俺に抱きついてきた時も……)
あの時の、柔らかい感触が脳裏に蘇り、俺は再び顔が熱くなるのを感じた。
(いかんいかん! 妹の友達だぞ!)
頭を振って、邪念を追い払う。
(それにしても、玲奈の奴、俺には反応しないのに美月には反応したって、なんであんなに怒ってたんだ……? まるで、俺に反応してほしかったみたいな……いやいや、まさかな)
俺は、玲奈の真意を図りかねて、首を捻った。
そんなことを考えていると、階下から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
玲奈の叫び声と、母さんの絶叫……? なんだ? また何かやらかしたのか、あいつ。
俺が、訝しげにドアの方へ振り返った、その瞬間だった。
バンッ!!!!
まるで爆発音のような勢いで、俺の部屋のドアが蹴破らんばかりに開け放たれた!
そして、そこに立っていたのは……。
「……………………え?」
全裸の、玲奈だった。
ピンクのツインテールだけが、いつも通りに揺れている。それ以外は、何も身に着けていない。白い肌、小さな体、そして……。
俺の思考は、完全に停止した。
目の前の光景が、現実のものだと認識できない。
時間が止まったかのように感じられた。
「な……」
「な…………」
「な、な………な、な!?」
声にならない声が、かろうじて喉から漏れ出る。顔が、沸騰したヤカンみたいに熱くなる。
視線が、どこを見ていいのかわからず、激しく彷徨う。
そして、俺の体は、正直だった。下半身に、再び、明確な熱が集まってくるのを感じてしまう。
俺が、完全にフリーズしている間、玲奈は俺の体を(特に下半身を)じーーーーーっと、穴が開くほど凝視していた。
そして、俺の体の変化を確認すると、その顔に、ぱあっと歓喜の表情が浮かんだ。
「……………………よしっ!!!!」
玲奈は、ガッツポーズを決め、次の瞬間、堰を切ったように叫んだ!
「勝ったぁあああああああああああ!!!! やったぁーーーーーーっ!!!! お兄ちゃん、玲奈のこと、ちゃんと女の子として見てくれたぁーーーーーーっ!!!! うわぁーーーーーん!!!!」
玲奈は、なぜか号泣しながら、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。全裸で。
俺は、まだ状況が飲み込めず、ただ呆然とその姿を見つめるしかなかった。
しかし、その狂喜乱舞も長くは続かなかった。
「この……大馬鹿娘があぁぁぁぁぁっ!!!!」
背後から、鬼の形相の母さんが突進してきた! そして、玲奈の後頭部目掛けて、渾身の鉄拳を振り下ろした!
ゴッ!!!!!!
「ぐふっ……!」
玲奈は、白目を剥き、声もなくその場に崩れ落ちた。完全にノックアウトだ。
母さんは、倒れた玲奈を軽々と抱え上げると、俺の方をちらりと見た。
その目は、「見ちゃいけないものを見せてごめん」とでも言いたげな、疲労困憊の色を浮かべていた。
「……バカが、お邪魔したわね」
それだけ言い残すと、母さんは気絶した玲奈を抱えたまま、嵐のように部屋から去っていった。
後に残されたのは、衝撃的な光景を目撃してしまい、完全に思考停止したまま、生理現象に悩まされる俺と、蹴破られたかのように開け放たれたドアだけだった。
「………………」
俺は、ただただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
今夜も、眠れそうにない……。
神崎家の夜は、今日もまた、想像を絶するカオスと共に更けていくのだった。




