第15話 ジェラート屋への誘い ~揺れる心と鈍感な兄~
放課後の喧騒が少し落ち着き始めた頃。
俺、神崎秀一は一人、鞄を肩にかけて校門へと向かっていた。
他の生徒たちは部活動に向かったり、友人たちと連れ立って帰ったりしているが、俺の周りには誰もいない。
まあ、いつものことだ。俺の数少ない友人たちは、大抵部活かバイトで忙しい。
今日も和泉は「数学の補習があるから先に帰ってくれ」と言っていたし。
「はぁ……今日も一人帰りか」
別に寂しいわけじゃない。一人で寄り道して本屋に寄ったり、ゲーセンを覗いたりするのも嫌いじゃない。
でも、なんとなく、誰かと一緒に帰る生徒たちの姿が目に入ると、ほんの少しだけ羨ましく思ったりもする。
そんなことを考えながら校門をくぐろうとした、その時だった。
「あっ!」
聞き慣れた、しかし今はあまり聞きたくないような気もする、甲高い声がした。
振り向けば、案の定、そこには満面の笑み(ただし、確実に何か企んでいる系の)を浮かべた玲奈が立っていた。
隣には、親友の美月も一緒だ。二人も丁度帰るところだったらしい。
「お兄ちゃんだー! お兄ちゃんも今帰り?」
玲奈は、ぴょんぴょんと跳ねるようにして俺に近づいてくる。
そして、俺の全身を上から下までじろじろと眺めると、いつものようにニヤリと口角を上げた。
「ぷぷぷっ♡ もしかしてぇ、お兄ちゃん、また一人で寂しくご帰宅ですかぁ? 友達いないのぉ? かわいそーなお兄ちゃん♡」
出た。お得意の煽り文句。こいつは俺が一人でいるのを見つけると、必ずと言っていいほどこうやって絡んでくる。
「うるせえな。和泉は補習だし、他の奴らは部活だって言ってんだろ」
俺はムスッとして言い返す。別に友達がいないわけじゃない。たまたまタイミングが合わないだけだ。……たぶん。
「へぇー? みんな忙しいんだねぇ。お兄ちゃんだけ暇人なんだぁ♡」
くっ……! いちいち癪に障る言い方をする!
俺が反論しようとした時、玲奈の隣にいた美月が、ぺこり、と小さく会釈してきた。
「ども」
その表情は、どこか硬いというか、ぎこちないように見える。
昨日の放課後、あんな話をした後だからだろうか。俺もなんとなく気まずさを感じて、小さく頷き返す。
「……」
「……」
妙な沈黙。これはまずい。玲奈の友人の手前、あんまり妹と喧嘩(?)している姿を見せるのもどうかと思う。
俺は咳払いをして、気を取り直して玲奈に尋ねた。
「お前たちは、これからどこか寄って帰るのか?」
努めて平静を装った、普通の兄としての問いかけだ。
すると玲奈は、ぱあっと顔を輝かせた。さっきまでの煽りモードはどこへやら、今は純粋に嬉しそうな表情になっている。
「うん! あのね、駅前に新しくできたジェラート屋さん! 前から美月と行こうって話してたんだー♡ すっごく美味しいんだって!」
目をキラキラさせながら、身振り手振りを交えて説明する玲奈。こういう時の玲奈は、年相応に可愛らしい。
「へえ、ジェラートか。いいな」
俺が相槌を打つと、玲奈は待ってましたとばかりに、次の行動に出た。
「でしょでしょ! だからさ……」
玲奈は、俺の右腕に、するりと自分の細い腕を絡ませてきたのだ!
「!?」
突然の密着に、俺の心臓がまたドクンと跳ねる。柔らかい感触と体温が伝わってきて、顔が熱くなるのを感じる。
「一人で寂しいお兄ちゃんも、一緒に行こ?♡ ね?♡」
玲奈は、俺の腕に絡みついたまま、上目遣いで俺を見上げてくる。
その瞳は、「断るなんて許さないよ?」と雄弁に語っていた。
「お、おい、玲奈!?」
俺は慌てて腕を引こうとするが、玲奈は意外なほど強い力で離さない。
そして、ちらりと隣の美月に視線を送る。
美月は、玲奈が俺の腕に絡みついた瞬間、少しだけ眉をひそめたように見えたが、今は俯き加減で表情がよく見えない。
「だ、ダメだって! 俺なんかがついていったら、美月ちゃんが気を使っちゃうだろ! 女の子二人で行った方が楽しいって!」
俺は、玲奈の腕を解こうとしながら、必死に断りの理由を探す。
美月に気を遣わせるのは申し訳ないし、何より、この状況で三人でジェラート屋なんて、気まずすぎる!
「えー? 美月は気にしないよね?」
玲奈は、俺の腕に絡みついたまま、美月に同意を求める。
「……」
美月は、俯いたまま、何も答えない。やっぱり、嫌だよな。そりゃそうだ。
「ほら、みろ。美月ちゃんだって……」
俺がそう言いかけた、その時だった。
きゅっ。
俺の左腕に、不意に柔らかな感触が伝わった。
見ると、俯いていたはずの美月が、俺の空いている左腕を、両手でそっと掴んでいたのだ。
「え……?」
俺は、予想外の出来事に、完全に思考が停止した。
美月は、顔を上げないまま、小さな、しかしはっきりとした声で言った。
「わ、私は……全然、迷惑じゃない、ですよ……?」
その声は、少しだけ震えているように聞こえた。
俯いているせいで表情は見えないが、耳がほんのり赤くなっているのが、夕陽の光に照らされて見えた。
「だから……その……行きましょう? お兄さんも……一緒に」
美月は、俺の腕を掴む手に、少しだけ力を込めた。
「え……あ……は?」
俺は、完全に困惑していた。右腕には玲奈が絡みつき、左腕は美月に掴まれている。
なんだこの状況は!? まるで、両手に花……いや、両手に妹とその友人?
しかも、二人とも俺をジェラート屋に連れて行こうとしている……?
「ほら! 美月もこう言ってるんだから、問題ないでしょ?♡ 行くよ、お兄ちゃん!」
玲奈は、ここぞとばかりに俺の腕をぐいぐい引っ張り始める。
「え、あ、ちょっ……」
俺は、美月の方をもう一度見る。彼女はまだ俯いたままだが、腕を掴む手は離さない。
(ま、まさか、美月ちゃんも、俺が行くことに同意してくれるとは……)
意外すぎる展開に、俺の脳はまだ追いついていない。
迷惑じゃない、と言ってくれたのは、玲奈の手前、気を遣ってくれただけなのだろうか? それとも……?
「……迷惑じゃない、なら……お言葉に甘えて……行こう、かな……」
俺は、半ば観念して、そう答えるしかなかった。
ここで断るのも、なんだか二人の厚意を無下にするようで気が引ける。
「やったぁ!♡」
玲奈は嬉しそうに声を上げ、さらに強く俺の腕を引く。
「……」
美月は、俺が同意したのを聞いて、掴んでいた手をそっと離した。
そして、ようやく顔を上げたが、その表情はどこか複雑そうで、すぐにまた視線を逸らしてしまった。
こうして俺は、妹とその親友という、なんとも言えない組み合わせで話題のジェラート屋へと向かうことになったのだった。
右腕に絡みつく玲奈の嬉しそうな気配と、少し前を歩く美月のどこかぎこちない背中。
その間で、俺はこれから始まるであろう、微妙な空気感を予感し、小さくため息をつくしかなかった。
このジェラートは、甘いのか、それとも苦いのか……。
まだ、俺には想像もつかなかった。