第13話 恐怖の夜と兄の温もり、そして勘違い
深夜。自室のPCモニターが放つ青白い光だけが、部屋の闇を照らしていた。
俺、神崎秀一はヘッドセットを装着し、キーボードとマウスを握りしめ、画面に没頭していた。
プレイしているのは、最近セールで買ったばかりのPCゲーム「バイオティックハザード」ゾンビが蔓延る崩壊した街から脱出を目指す、王道のサバイバルホラーだ。
『グォォォ……』
画面の中では、見るからに不気味なゾンビが、ゆっくりとこちらに迫ってくる。
弾薬は残り少ない。どう切り抜けるか……。手に汗握る展開に、俺の心臓もドキドキと高鳴っていた。
その時、背後で、かすかにドアノブが回る音がした。
(ん? 風か?)
ゲームに集中していた俺は、一瞬だけ意識を背後に向けたが、すぐに画面へと戻した。
しかし、次の瞬間。
キィ……ィ……。
まるでホラー映画の効果音のように、部屋のドアがゆっくり、ゆっくりと開いたのだ。
そして、その隙間から、ひょこっとピンク色のツインテールが覗いた。
(……玲奈か)
俺は内心でため息をついた。いつものように勢いよく入ってくるのではなく、やけに静かな登場だ。
玲奈は、ドアの隙間から廊下をキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認すると、音を立てないようにそっと部屋に入ってきた。
そして、同じようにゆっくりとドアを閉める。まるで、隠密行動中のスパイか何かだ。
「……」
俺は、ゲーム画面から目を離さずに、背後の気配に意識を集中させる。
玲奈は、抜き足差し足忍び足で、俺の背後へと近づいてくる。
「……お兄ちゃん♡」
耳元で、囁くような声がした。振り返ると、すぐそこに玲奈の顔があった。
悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「なーに、一人で寂しく遊んでるのぉ? こんな暗い部屋で、モニターとにらめっこなんて、根暗すぎじゃない?♡」
いつもの煽り口調。だが、声量は明らかに抑えられている。
「そんな寂しいお兄ちゃんに、この優しい玲奈様がかまってあげようか?♡ ね?♡」
言いながら、玲奈は俺の座っているゲーミングチェアのすぐ隣に椅子を持ってきて座った。
俺は、ヘッドセットを少しずらして、苦笑しながら言った。
「いや……お前、昨日母さんに何言われたか知らないけど、ビビりすぎだろ……。そんなこそこそ入ってこなくても」
普段なら、ノックもせずに「おじゃましまーす♡」とか言いながら、勢いよくドアを開けてくるのに。
今日の玲奈は、明らかに母さんを警戒している。
「なっ……!?」
図星を突かれたのか、玲奈は頬をぷくっと膨らませた。
「べ、別にビビってなんかないもん! これは、その……お兄ちゃんのプライベートを尊重してあげてるだけで……!」
「へえ、お前が俺のプライベートをねぇ」
俺はニヤニヤしながら返す。そんな殊勝な心がけ、こいつが持ってるわけないだろう。
「そ、そんなことより!」
玲奈は慌てて話題を変えようとする。
「お兄ちゃんは、なんのゲームやってるの? また負けて悔しがってるんじゃないでしょうねぇ?」
言いながら、玲奈は俺の隣からモニターを覗き込んできた。
「どうせ下手くそなんだろうから、この玲奈様が隣で見守っててあげるよ。ありがたく思いなさーい♡」
玲奈が画面を見た、その瞬間だった。
タイミング悪く、画面の中ではゾンビが倒れた警官に覆いかぶさり、その肉を貪り食っているシーンが大写しになっていた。
かなりグロテスクな描写だ。
「ひっ!?」
玲奈の喉から、小さな悲鳴が漏れた。そして、次の瞬間には、ピシリと氷のように固まっている。
大きなツリ目が、恐怖で見開かれているのが、横顔からでもわかった。
俺は、そんな玲奈の様子を見て、思わず苦笑した。
「あ〜、そういえば、お前、昔っからホラー苦手だったなぁ」
小学生の頃、一緒にテレビでホラー特集を見て、玲奈が俺の後ろに隠れてブルブル震えていたのを思い出す。
肝試しに行っても、最初から最後まで俺の服の裾を掴んで離さなかったっけ。
「そ、そんなこと……!」
俺の言葉に、玲奈はハッと我に返ったようだ。顔を赤くして、ムキになって反論してくる。
「そ、そうだったかもしれないけど……今はもう、そんなことないもん! こ、これくらい、全然平気だし!」
強がりを言いながら、玲奈は俺の肩に自分の肩をぐりぐりと押し付けるようにして、さらに近くに座り直した。
体勢としては、ほとんど俺に寄りかかるような形だ。
「……そうか?」
俺は、苦笑いを浮かべながら、玲奈の頭を軽く撫でた。
「まあ、怖かったら無理すんなよ?」
そう言って、俺は玲奈にも聞こえるようヘッドフォンを外しスピーカーに切り替え、再びゲームに意識を戻した。
まあ、隣に玲奈がいると思うと、さすがにさっきまでの没入感は薄れてしまうが。
ゲームを再開すると、しばらくの間、玲奈は黙って画面を見ていた。
時々、俺の肩を掴む手に力が入ったり、息を呑む気配がしたりしたが、なんとか耐えているようだ。
「ふ、ふん……なーんだ、全然大したことないじゃん。こんなのでビビってるお兄ちゃんの方が、よっぽどザコだよぉ♡」
少し声が震えている気もするが、メスガキ煽りも再開してきた。
どうやら、意地でも怖くないフリを続けるつもりらしい。可愛いところもあるじゃないか。
俺は、そんな玲奈の強がりを微笑ましく思いながら、ゲームを進めていく。
廃墟となった警察署の中を探索し、アイテムを探す。不気味な静寂が続く……こういう時が、一番怖いんだよな。
次の角を曲がった、その時だった。
ガシャァァァァン!!!
突然、廊下の窓ガラスがけたたましい音を立てて割れ、そこから二匹のゾンビ犬が猛スピードで飛び込んできたのだ!
「うわっ!?」
俺も思わず声を上げてしまうほどの、突然の出来事。ゲーム内とはいえ、心臓に悪い。
しかし、俺以上に驚愕していたのは、隣の玲奈だった。
「きゃあああああああああああっ!!!!」
鼓膜が破れそうなほどの、甲高い悲鳴!
そして次の瞬間、玲奈は反射的に俺の体に飛びついてきたのだ!
「うわっ!? お、おい、玲奈!?」
俺は突然の衝撃にバランスを崩しそうになる。玲奈は、まるで蝉のように俺の体にひっつき、顔を俺の胸にうずめ、ガタガタと震えている。
その力は尋常じゃなく強く、俺の服を握りしめる指は白くなっていた。
これは……いつもの、からかって抱きついてくるのとは違う。完全に、ガチビビりだ。
俺は、慌ててゲームを一時停止し、コントローラーを置いた。
「おい、玲奈、大丈夫か?」
俺は、震える玲奈の背中を優しくさすってやる。
「こわ……こわい……」
玲奈は、くぐもった声で、ただそれだけを繰り返している。
俺の胸に顔を押し付けたまま、顔を上げようともしない。肩が小刻みに震えているのがわかる。
「よしよし、もう大丈夫だ」
俺は、玲奈の頭をゆっくりと撫でた。柔らかい髪の感触が、手のひらに伝わる。
「もうびっくりするものは出てこないから。な?」
「う……うぅ……」
玲奈は、まだ俺にしがみついたまま、小さく嗚咽を漏らしている。目には涙が浮かんでいるのだろう。
「……ったく、しょうがないな」
俺はため息をつきながらも、どこか温かい気持ちになっていた。
(メスガキとか言って強がってても、やっぱりこいつ、根っこは全然変わってないんだな……)
昔から怖がりで、甘えん坊で、そして、俺の後ろに隠れるのが好きだった小さな妹。その姿が、今の玲奈と重なって見えた。
「もう大丈夫だって。ほら、顔上げてみろ」
俺は優しく声をかける。
「今日はこのゲーム、もう飽きたからやめるよ。な?」
「ほ……ほんとぉ……?」
玲奈は、少しだけ顔を上げ、涙で潤んだ大きな瞳で俺を見上げてきた。
長いまつ毛が濡れて、キラキラと光っている。その表情はいつもの小生意気さなど微塵もなく、ただただ怯えた子猫のようだ。
「ああ、本当だ。もう怖いのは終わり」
俺は、安心させるように微笑みかけ、震える玲奈の背中を、そっと抱きしめた。
温もりを伝えるように、優しく、ゆっくりと。
「もう怖くないからな」
玲奈は、俺の腕の中で、まだ小さく震えていた。
だが、俺の体温と、心臓の鼓動が伝わったのか、少しずつその震えは収まっていくようだった。
(やっぱり、変わってないんだな、玲奈は……)
俺は、なんだか愛おしいような、懐かしいような気持ちで、玲奈の小さな体を抱きしめていた。
この瞬間だけは、生意気なメスガキではなく、ただの可愛い妹だと思えた。
しかし、その温かい時間は、長くは続かなかった。
玲奈の体の震えが完全に止まったかと思うと、今度は俺の体にさらに強く、ぎゅーっと抱きついてきたのだ。
顔はまだ俺の胸にうずめたままだが、その抱きつく力はさっきまでの恐怖とは違う、何か別の感情が込められているように感じられた。
そして、俺の耳元で、ボソボソと、小さな声が聞こえ始めた。
「……うふ……♡」
「……うふふふふ……♡」
ん? なんだ?
「……お兄ちゃんから……抱きしめて、くれてる……♡ しかも、玲奈が弱ってるところに……♡ はぁ……♡」
その声は、明らかに恍惚としていて、どこかトロンとしている。そして、ついに……。
「……でゅふふふふふふふ……♡♡♡」
今まで聞いたことのない不気味な笑い声!
俺は、背筋にゾッと冷たいものが走るのを感じた。
(な、なんだ今の!?)
俺は慌てて玲奈から手を離し、体を引いた。
「わ、悪い! 玲奈! き、気持ち悪かったか!?」
俺は、玲奈が俺に抱きしめられたことに嫌悪感を抱き、あんな奇声を発したのか!?
「え?」
玲奈は、きょとんとした顔で俺を見上げる。
その目には、まだ少し涙が残っていたが、表情はいつものとはちょっと違う恍惚とした表情をしていた。
口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「なんで離れるの、お兄ちゃん? もっとぎゅーってしてくれてもいいんだよ?♡」
「い、いや、だって、お前、なんか変な声出してたから……」
「えー? あれは、嬉しくて……あ、いや、なんでもないもん!」
玲奈は慌てて口をつぐむ。
(やっぱり気持ち悪かったのか……? ん?今嬉しくてって言った……?)
俺の頭の中は、再び混乱してきた。玲奈の考えていることは、本当にわからない。
そんな俺たちのやり取りを、ドアの隙間からそっと覗き込んでいる影があった。
母・美奈子だ。
(あらあら……またくっついてるわね……)
美奈子は、部屋の中の様子を静かに観察する。玲奈が秀一に抱きついている姿、そして秀一が慌てて離れる姿。
(まあ……秀一の方は、全然そんな気も無いようだし……)
美奈子は、息子の純粋(?)な反応を見て、少しだけ安堵のため息をついた。
玲奈の方は相変わらず心配だが、少なくとも秀一が玲奈を異性として意識している様子は、今のところ見られない。
(……このくらいなら、許してあげようかな……。ホラーが苦手なのは昔からだし……)
美奈子は、そう判断すると、音を立てずにそっとドアを閉め、その場を去っていった。
嵐の前の静けさか、それとも一時的な停戦か。神崎家の夜は、まだ予断を許さない状況が続いていた。
部屋に残された俺は、玲奈の奇妙な反応の理由がわからず、ただただ困惑するばかりだった。
(結局、怖かったのか? それとも、俺に抱きつかれたのが嫌だったのか? それとも……?)
悶々とした思いを抱えながら、俺の長い夜は、またしても眠れない方向へと進んでいくのだった。




