第1話 赤点お兄ちゃんと世話焼き妹
シャーペンの芯が、カチリ、と虚しい音を立ててノートの上で止まった。
「……っだぁー! わかんねぇ!」
俺、神崎秀一は、机に突っ伏して呻いた。目の前には、まるで古代の呪文のようにしか見えない数式が並んだ数学の参考書。
来週に迫った追試に向けて、どうにか赤点を回避しようと悪戦苦闘している真っ最中なのだが、俺の貧弱な脳みそは早々にキャパオーバーを訴えていた。
時刻は午後八時過ぎ。部屋には、読みかけのラノベや積みゲーのパッケージ、壁に貼られた最新クールのアニメポスターなどが、俺のオタク趣味を雄弁に物語っている。
世間一般で言うところの、まあ、平凡な男子高校生ってやつだ。
見た目も成績も、良くも悪くも平均点。ただ一つ、平均から大きく外れているものがあるとすれば、それは家族構成、特に妹の存在だろう。
バンッ!!
その噂の妹が、ノックという文明的な行為を完全に無視して、俺の部屋のドアを蹴破らんばかりの勢いで開け放った。
「おっじゃましまーす♡」
そこに立っていたのは、神崎 玲奈。俺の一つ下の妹で、現在ピカピカの高校一年生。
肩口で揺れる鮮やかなピンク色のツインテールは、彼女のトレードマークだ。
小柄な体躯に、不釣り合いなほど大きな吊り目。長いまつ毛に縁取られたその瞳が、今は悪戯っぽく細められている。
制服のリボンを少し緩めて、着崩しているあたりも、いかにも「わかってる」感を醸し出している。
……何がわかってるのかは知らんが。
こいつは、入学早々その人形めいたルックスで学年のマドンナ的なポジションに収まり、今や学校全体のアイドル扱いされているらしい。
兄である俺から見ても、確かにその容姿は規格外だと思う。性格さえ、もうちょっと普通なら完璧美少女だったんだろうけどな……。
「……おい玲奈、入る時はノックしろっていつも言ってるだろ」
俺は顔を上げ、若干呆れた声で注意する。妹はそんな俺の言葉などどこ吹く風といった様子で、にっまーと口角を吊り上げて部屋に入ってきた。
そして、俺の机に歩み寄ると、その小さな顔をぐいっと近づけてきた。甘いフローラル系のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。近すぎるだろ。
「ねーえ、お兄ちゃん?」
吐息がかかりそうな距離で、玲奈が意地の悪い笑みを浮かべて囁く。
なんだ、その含みのある言い方は。嫌な予感しかしない。
「……なんだよ」
俺は思わず身構えながら、ぶっきらぼうに返す。参考書に視線を戻そうとするが、玲奈の妙にキラキラした(そして確実に何か企んでいる)瞳がそれを許さない。
「お兄ちゃんってば、この前の期末テスト……数学で赤点とったんだってぇ?」
きた。やっぱりそれか。
玲奈は、それはそれは楽しそうに、ニィィィィと口を横に広げて笑っている。
その情報はどこから仕入れてきたんだか。まあ、どうせクラスの女子あたりから聞き出したんだろう。
こいつのコミュ力と情報収集能力は、諜報機関か何かかと思うレベルだ。
「……っ!」
図星を突かれ、俺はぐっと言葉に詰まる。事実だから反論のしようがない。
クラスでも特に仲の良い悪友たちには散々笑われたし、担任にも懇々と説教されたばかりだ。
これ以上、精神的ダメージを上乗せするのは勘弁してほしい。
「べ、別に、ちょっと油断しただけだ」
苦し紛れの言い訳を口にするが、玲奈にはまったく効果がないらしい。
「へぇー? 油断ねぇ? お兄ちゃんの実力って、油断すると赤点レベルなんだー?」
くっ、的確に抉ってくる……!
玲奈はクスクスと喉を鳴らして笑いながら、俺の肩を人差し指でツンツンと突いてくる。
「だったらなんだよ。俺が赤点取ろうが、お前には関係ないだろ」
俺はムスッとした表情で、そっぽを向いて言い放つ。妹にまで馬鹿にされるのは、さすがにプライドが傷つく。
高校二年生にもなって、情けない話だが。
すると玲奈は、待ってましたとばかりに、さらに楽しそうな声を上げた。
「関係なくないよぉ? だって、お兄ちゃんが赤点なんて、玲奈が恥ずかしいもん!」
「なんでお前が恥ずかしいんだよ!」
「だって、『玲奈ちゃんのお兄さん、数学で18点だったんだってー? キャハハ!』とか言われるんだよ!? たまったもんじゃないよねー!」
……具体的な点数まで把握済みかよ! 個人情報保護とかどうなってんだ、うちの学校は!
というか、18点って……改めて聞くと破壊力やばいな。俺、本当に大丈夫か?
玲奈は、俺のそんな内心の動揺を見透かしたように、勝ち誇った顔で続ける。
「もー! お兄ちゃんったら、なっさけな~い!」
言いながら、俺の頭をわしゃわしゃと撫でて(というか掻き乱して)くる。やめろ、セットが崩れるだろ。そもそもセットしてないけど。
「いっつも部屋にこもってアニメ見たりゲームしたりばっかりしてるから、こーんな簡単な問題も解けなくなっちゃうんだよぉ?」
「ぐ……」
反論できない。確かに、テスト期間中も深夜アニメのリアルタイム視聴はやめられなかったし、ソシャゲのイベント周回も欠かさなかった。自業自得と言われればそれまでだ。
「ま、そんなダメダメなお兄ちゃんだけどぉ?」
玲奈は一旦言葉を切ると、悪戯っぽい笑みをさらに深めた。
そして、両手を腰に当てて、ふふんと胸(……まあ、物理的にはほぼ平坦なのだが、気持ち的には張っているつもりなのだろう)を張る。
「ざーこ♡」
一言、ビシッと指をさして言い放つ。
「ざぁーこ♡ ざぁーこ♡」
まるで呪文のように繰り返しながら、俺の周りをくるくると回り始めた。ピンクのツインテールが、遠心力でぶわっと広がる。
「赤点お兄ちゃん、ざぁーこ♡ 数学もできないなんて、ホント、ザコ中のザコだよねぇ~♡ プークスクス♡」
うっ……。
的確に、そして執拗にメンタルを削ってくるスタイル。これが玲奈の通常運転だ。
いわゆる「メスガキ」ってやつなんだろう。ネットスラングでしか見たことなかったが、まさか自分の妹がその属性持ちだったとは。
しかも、その対象が兄である俺限定という、非常に厄介な仕様付きで。
俺はぐったりと机に突っ伏したまま、反論する気力も失っていた。もう好きにしてくれ……。
しばらく俺を煽り続けて満足したのか、玲奈はピタッと動きを止めると、ポンと手を叩いた。
「ま、仕方ないなぁ!」
その声のトーンは、先程までの嘲るような響きとは少し違い、どこか楽しげで、そして……ほんの少しだけ、優しい響きを帯びているように聞こえた。
「こーんなザコザコのお兄ちゃんを放置しとくわけにもいかないし?」
玲奈はくるりと踵を返し、部屋の隅に置いてあった来客用の折り畳み椅子をひょいと持ち上げた。小柄な体なのに、意外と力持ちなんだよな、こいつ。
「だから、この玲奈様が! 直々に! お兄ちゃんの勉強、手伝ってあげるね♡」
どさっ、と俺の机のすぐ隣に椅子を置くと、玲奈はそこにちょこんと腰掛けた。そして、満面の笑みで俺の顔を覗き込んでくる。
「さあ、どこがわからないのかな♡ この天才美少女玲奈様に、なーんでも聞いてごらんなさーい♡」
胸を反らせて、得意げな表情。……まあ、こいつ、成績は学年トップクラスなんだよな。
俺とは大違いで。正直、勉強を教えてもらう相手としては、これ以上ないほど適任ではある。……性格を除けば。
俺は、憮然とした表情を隠せないまま、それでも追試をパスするためには背に腹は代えられないと観念した。
「……」
無言で、参考書の特定のページを指さす。二次関数と三角比。俺が特に壊滅的な分野だ。
「んー?どれどれ?」
玲奈は俺の指さした箇所に顔を近づける。さっきよりも近い距離で、シャンプーの甘い香りが再び強く香った。
長いまつ毛が、参考書の文字を追うたびに小さく揺れている。間近で見ると、やっぱりこいつ、めちゃくちゃ可愛いんだよな……。
いかんいかん、思考が逸れた。
「ふーん、ここがわかんないんだ?」
玲奈は一通り目を通すと、顔を上げて俺を見た。その目は、またしても揶揄うような色を浮かべている。
「えー? こんなのもわかんないのぉ?」
出た。煽り第二波。
「sin、cos、tanだよぉ? 高校数学の基礎中の基礎じゃーん。ホントお兄ちゃん、勉強ダメダメだよねぇ~♡」
指で俺の頬をぷにぷにと突きながら、玲奈はからかうように言う。
「ねぇ、恥ずかしくないのぉ~? 高校二年生にもなって、こんな簡単な公式も覚えられないなんてぇ。玲奈、お兄ちゃんが心配になっちゃうなぁ♡」
クスクス笑いが止まらないようだ。本当に楽しそうだな、おい。
「……うるさい」
俺は、ぼそりとそれだけ返すのが精一杯だった。確かに恥ずかしい。
恥ずかしくて死にそうだ。だが、それをわざわざ妹に指摘されるのは、精神的にかなりくる。
「ほらほら、そんなしょげちゃってまぁ。ザコはザコなりに、頑張らないとでしょ?」
玲奈はそう言うと、ふふん、と悪戯っぽく笑った。そして次の瞬間、俺の右腕に、自身の細い腕をぎゅっと絡めてきた。
「!?」
突然の密着に、俺の心臓がドクンと跳ねる。柔らかい感触(いや、胸は平らだから硬いんだけど、なんかこう、女の子特有の!)と、体温が腕を通して伝わってくる。
「じゃあ、恥ずかしくないように! この玲奈様が、みっちりしっかり、二人で! 覚えていこうね♡」
顔をぐっと近づけて、玲奈は俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。大きな目が、今はキラキラと輝いている。
さっきまでの嘲るような光は消え、そこには純粋な好意と……少しばかりの心配の色が見えるような気がした。
腕に絡みつく玲奈の力は、意外なほど強い。まるで、絶対に離さないとでも言うように。
その表情は、相変わらず小生意気な笑みを浮かべてはいるけれど。
(……なんだかんだ言って、結局こうやって世話焼いてくれるんだよな)
俺は内心でため息をついた。
口を開けば「ざーこ♡」「なっさけなーい♡」と煽ってくるし、態度も生意気で小悪魔的。まさにメスガキという言葉がぴったりだ。
だが、その実態はこれだ。兄が困っていると聞けば、なんだかんだ理由をつけて飛んできて、結局は一番親身になって助けてくれる。
そう、こいつは、一見するとただの性格が悪いメスガキだが、その本質は――驚くほど兄思いで、超絶優しいのである。
「ほら、まずこの公式! なんでこうなるか、わかる?」
玲奈は、俺の腕に絡みついたまま、もう片方の手で参考書を指さし、早速解説を始めてくれた。その声は真剣で、わかりやすい。
(ま、まあ、教えてくれるって言うなら、頼るしかないか……)
俺は、腕に感じる妹の体温と、間近にある妹とは言え美少女の顔に若干戸惑いつつも、覚悟を決めて参考書に向き直った。
追試までの道のりは長い。そして、この世話焼きで小生意気な妹との勉強会は、心臓に悪い時間になりそうだ……。
それでも、まあ、一人でうんうん唸っているよりは、百万倍マシなのかもしれない。たぶん。きっと。おそらく。
「聞いてるの、お兄ちゃん!? ちゃんと集中しないと、また赤点だよ! このザ~コ♡」
「わ、わかってるよ!」
俺たちの長い夜は、まだ始まったばかりだった。
メインヒロインであり秀一の妹である神崎玲奈の設定イラストを同時連載のカクヨムの近況ノートに描いておりますので、本文をお楽しみいただくためにこちらもご覧いただけたら幸いです。
https://kakuyomu.jp/users/TamayanHRO/news/16818622173948400161