スーツ登山
ある夏の日、小林健太はスーツ姿で富士山を登っていた。
皆が小林を見て振り返る。
赤や黄など様々な登山服の中に、一人だけ黒いスーツ姿の上下なのは、確かに浮いていた。失笑もこぼれることだろう。
二十五歳になった小林は残業ばかり。一ヶ月に休日一日という、いわゆる超ブラック企業に勤めていた。プログラミングの仕事で徹夜もよくある。
今日も徹夜明け二日目の日勤を終え、ふらふらの帰宅時に上司からの嫌味。
「ちんたら、やってんな。お前の代わりなど幾らでもいるんだよ」
この上司、無能なのにいつも威張っている。
屈辱だった。その場はやり過ごしたが、帰り道でも怒りが収まらない。
「安い給料でこき使いやがって、クソ上司め」
夜道には人も無く、外は真っ暗だった。
小林にも夢がある。技術者として世界を良くしたい。なのに雑用扱い。
「もう、やってられっか」
心の何かが、ぷつりと切れた気がした。
「遠くへ行こう」
翌朝、会社とは反対方向の電車に乗った。
八王子、大月を経て富士山駅へ。そこからバスに乗った。
富士山パーキングで下車すると、登山客で楽しそうだった。
涼しくて空気が良い。小林は気分が楽になった。
「会社で死ぬのはつまらん。よし、富士山に登ろう」
小林は黒いスーツに皮靴、ビジネス鞄を持って山道を登り始めた。
それでも場違いな感じで、横の人も「えっ」と小林を二度見した。
世界遺産に登録された富士山は、外国人も多く、日本人観光客も列をなして登っていた。
傾斜はそんなにきつくない。ただし、足元は溶岩の砕けた荒石や小石だった。
小林は人の流れに乗って、ただゆっくりと足を一歩ずつ進めた。
夕刻になると腹が減った。昨日から何も食べていない。山小屋に入った。
「カレーライスを下さい」
八合目山小屋の親父さんに注文する。
「はい毎度、カレーだね。おい、お客さん、皮靴じゃないか。山を舐めちゃあいけないよ。それに山頂は十度以下だよ。死ぬ気かい?」
親切から怒っているのが判った。
小林は誰かに話を聞いて欲しかった。この社畜の苦しみを。でもね、きっと他人は迷惑だろうさ。それに身体を動かしたら、心も少し軽くなった。
「死ぬ気だったんだけど、道に迷ってね」
冗談半分となった。
「迷ったのは人生かい。ここは登るか下るかしかない富士山だ。アホは屁こいて寝ろ。一泊五〇〇〇円だ」
有無を言わせずお金を徴収され、今夜は山小屋に泊まることにした。
二段ベッドの蚕棚が並んでいて、小林はその一つに収まった。
奥の方には、山ガールの一団がきゃぴきゃぴと、とても楽しそうに話をしていた。
「ねえ、リュックに何入ってるの?」山ガールその一が質問した。
「きっと、大量のお菓子じゃない?」山ガールその二が予想した。
「お菓子もあるけど、当ててみて?」山ガールその三がリュックを持った。
「あれっ、何でそんなに重そうなの?」
「じゃあ、枕じゃないの?」
「じゃーん、実は猫でーす。驚いたでしょう?」ああ、山ガールその三だよ。
「ええっ、どういうつもりなの?」
「ほんと、どうして猫なのよ?」
「名前はトラ吉です。可愛いでしょう?」山ガールその三は自慢した。
「にゃお、にゃ~おん」猫の声も聞こえた。
小林は思わず微笑む。やってくれたな。
自分のスーツ姿は取りあえず置いといて、ここは富士山だよと突っ込みたくもなる。
よほど可愛いのであろう。横目で見たら茶のトラ猫だった。
きっと楽しい夢が見られるだろう。
はっ、と気が付いて腕時計を見た。六時だ。朝の? 夕の? と考えて、朝だった。蚕棚のベッドは背中が痛い。毛布をのけて起き上がった。
山小屋の親父さんが世話をやいてくれる。
「お客さん、やっと起きたんかい。皆は御来光を見にとっくに出てったで。カップ麺食べるなら一〇〇〇円だよ」
有無を言わせずお金を徴収され、ラーメンをすすった。気圧のせいか、少し低温だった。
「今日はもう、死ぬ気はないな。じゃあ帰れ」
親父さんは小林の話を覚えていたようだ。
寝たら元気になった。富士山の霊力かもしれない。
外は十度前後で、身震いするくらい寒かった。
「うー寒い。でも、ここは八合目だろ。頂上まで登ってやる」
山は快晴であった。黒い岩の斜面にへばり付く山小屋はムカデみたい。それも風景の一部であろう。この高度に木々はない。
なんか地面に座り込む人が多くなってきた。酸欠による高山病なのだろう。
横たわる一人のオジさんが、あまりに不調そうなので声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
「調子が悪い。頭が痛くてね、一歩も歩けない」
確かに辛そうである。四角い顔の六十代で、いわゆるシニア登山というやつであろう。
「高山病かな、お一人なのですか? 119番でレスキューを呼びましょうか?」
「一人です。119番は結構です。申し訳ない」
「なら、山小屋から酸素缶を買って来ますので、待っていて下さい」
小林は近くの売店に行って、二〇〇〇円の酸素缶を買って来た。
神様の巡り合わせは不思議だ。
昨日のやけくそ登山から一転、人助けとなった。
「どうぞ、酸素を吸って下さい」
小林はプラスチックの呼吸被いを、オジさんの口鼻に当ててシューッと酸素を噴射した。加減がよく分からない。
「ゆっくりと深呼吸して下さい」
噴射し続けて、背中をさすった。
「ありがとう。ありがとう」
オジさんは、何度か深呼吸をして感謝を述べた。
「落ち着いたら下山しましょう。私も付いて行きます」
情けは人の為ならず、実家の婆ちゃんの声を思い出した。
オジさんの顔色は、いくらか赤みが差して元気そうに見える。
「ありがとう助かったよ。自己紹介が遅れてしまいました。私は佐々木と言います」
「小林健太です」
サラリーマンの習性で自分の名刺を手渡した。佐々木さんはそれを読む。
「小林さんですか。コンピュータ管理のかた。本当にありがとう」
「いいえ、会社はもう辞めるつもりです。使い捨てには、されたくない」
なんとかなるさ。辛さも悔しさも消え、今はもう元気だ。
下山中は、小林の悩み相談みたいになった。
「では、私の会社に来ませんか? 技術がもったいない」
詳しく聞いたら「ソニーミュージック」の社長さんだった。
「外国からのハッキングの時代でしょ。詳しい人が欲しいのです」
「私で良いのでしたら、喜んで」
拾う神あり。富士山で就職面接とは、人生何が有るか分からないものだ。